第12章『シャルロッテ。夜伽を命じる』
クリスタリア湖の澄み渡る水面は、夜を迎えるとまるで巨大な漆黒の鏡へと姿を変える。その中央に美しく佇むフロストヴァイス城の最上階、セレスティア伯爵家の令嬢シャルロッテの寝室には、淡い月光が大きなアーチ窓を通して静かに差し込んでいた。
六月の第一週。初夏の気配が湖面を渡る心地よい風とともに漂う、穏やかな夜のことである。
広大なシルクのベッドの真ん中で、十七歳のシャルロッテは満足そうに深く息を吐いた。やや癖のある柔らかな桃色の髪を軽く払い、彼女は自らの思いつきが完璧な形で結実しようとしていることに、ひそかに胸を躍らせていた。
「シャルロッテ様……あ、あの……本当に、私でよろしいのですか……?」
部屋の入口付近で、細い声を震わせているのは侍女のエミーナだった。 眩いばかりの金髪をふんわりと結い上げた彼女は、いつもの仕立ての良い侍女服ではなく、薄手の桃色のネグリジェに身を包んでいる。レースの裾からは白く細い脚が覗き、その手は緊張のあまりネグリジェの生地をきつく握りしめられていた。大きな青い瞳には今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんでいる。
(うう……シャルロッテ様が、ついに私に『夜伽』を命じられるなんて……! 私、シャルロッテ様のお役に立てるなら、どんなことだって受ける覚悟はあるけれど……でも、やっぱりすごく緊張するよぉ……!)
エミーナの頭の中はぐるぐると渦巻いていた。幼い頃から共に育ち、今やセレスティア伯爵家の「孫2号」として誰もが認める可憐で聡明なシャルロッテ。そんな主人が、昼間にぽつりと「今夜、私の部屋に来なさい。夜伽を命じます」と告げてきたのだ。
エミーナにとってシャルロッテは大切な主人であり、かけがえのない大親友だ。命じられればどんな夜の務めにだって喜んで、いや、必死の覚悟で応じるつもりだった。しかし、いざその時を迎えると、心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴ってしまう。
「何をしているの、エミーナ。立ち尽くしてないで、早くこちらへ来なさい」
ベッドの上で膝を抱えていたシャルロッテが、優しく微笑みながら手招きをした。
「は、はいぃっ……!」
エミーナは半泣きになりながら、おそるおそるベッドへと歩み寄った。靴を脱ぎ、緊張でガチガチになった身体で高級な羽毛布団の端へと潜り込む。ふわりと漂うシャルロッテの甘い薔薇の香りに、エミーナの顔は一瞬で真っ赤に染まった。
「ふふ、エミーナは相変わらず緊張しやすいわね。そんなに固くならなくてもいいのに」 「だって、だってシャルロッテ様……! 私、こういう経験は初めてで……何をしていいのか全然わかりません……っ」
ぽろぽろと涙をこぼし始めるエミーナの頬を、シャルロッテは呆れつつも愛おしそうに指先で拭った。
「泣かないの。大丈夫よ、全部私に任せておきなさい」
シャルロッテが甘い声でそう囁いた、まさにその時だった。
カチャリ、と音を立てて寝室の重厚なドアが静かに開いた。
「……失礼いたします、シャルロッテ様」
ぬかりのない動作で足音もなく入ってきたのは、もう一人の侍女、ロゼッタだった。 しなやかな黒髪を背中に流し、透き通るような白皙の肌を持つ絶世の黒髪美少女。彼女もまた、普段の厳格な侍女服ではなく、艶やかな深い紺色のナイトウェアを身に纏っていた。
エミーナは驚いて目を丸くした。
「えっ……ロ、ロゼッタ!? どうしてここに……?」 「あら、エミーナ。あなたもいたのね」
ロゼッタは薄く微笑むと、その整った顔立ちをわずかに紅潮させた。その瞳には、どこか怪しげで陶酔しきった光が宿っている。
「シャルロッテ様。お約束通り、参上いたしました……。私のような者を、エミーナと同時に『夜伽』のお相手に選んでくださるなんて……なんと贅沢で、そして……なんと苛烈なお慈悲なのでしょう……!」
ロゼッタはうっとりと胸に手を当て、深く息を吐いた。
(ああ、シャルロッテ様……! 私とエミーナを同時に手籠めにしようだなんて、なんてドSで素晴らしいお方……! 二人の侍女を同時に侍らせ、どのような無理難題を命じられるおつもりかしら? 冷たいお言葉で罵られるのかしら、それとも……! ああ、どんなお仕置きでも喜んでお受けいたしますわ……!)
ロゼッタの脳内では、既にシャルロッテによる過激で倒錯的な「夜伽」のシチュエーションが幾重にも繰り広げられていた。彼女は生粋のドMであった。シャルロッテのためなら身も心も捧げる覚悟だし、激しい命を受ければ受けるほど興奮してしまう性分なのだ。
ベッドの端で身を縮めながら赤面する泣き虫の金髪美少女エミーナと、シャルロッテからの「お仕置き」を期待して瞳をうるませるドMの黒髪美少女ロゼッタ。
対照的な二人の侍女の視線を一身に受けながら、シャルロッテはポンと手を叩いた。
「ええ、よく来てくれたわロゼッタ。さあ、あなたもベッドに入りなさい」
「はい……! 喜んで、シャルロッテ様の足元にでも這いつくばらせていただきます……!」 「ううん、足元じゃなくて横よ。ほら、エミーナの反対側に座って」
「……はい?」
ロゼッタが一瞬ぽかんとした表情を浮かべたが、シャルロッテは気にした風もなく、ベッドの中央をぽんぽんと叩いた。ロゼッタは首をかしげながらも、指示通りベッドの右側に滑り込む。
左にエミーナ、右にロゼッタ。ふたりの美少女侍女に挟まれたシャルロッテは、満足そうに頷くと、ベッドの脇に置かれていた大きな丸いお盆を引き寄せた。
そこには、城の厨房からこっそり運ばせておいた温かいハーブティーのポットと三つのお揃いのカップ、そして色とりどりのマカロンやクッキー、ショコラが山盛りになった小皿が載っていた。
エミーナとロゼッタは、同時に目を丸くした。
「しゃ、シャルロッテ様……? このお菓子と紅茶は……?」 「夜伽の準備よ?」
シャルロッテは当然のように微笑むと、二人のお茶を丁寧にカップへ注ぎ始めた。
「さあ、二人とも好きなのを取りなさい。今日のマカロンはクリスタリア湖特産のブルーベリーを使った新作なんですって。絶対美味しいわよ」
あまりの光景に、エミーナとロゼッタは顔を見合わせた。
「ああの……シャルロッテ様。あの……『夜伽』とは……その、お身体を重ねるような、そういう務めでは……?」
エミーナが顔を真っ赤にしながら尋ねると、シャルロッテは「まあ」と心底驚いたように目を丸くした。
「何を言っているの二人とも。夜伽でしょう? 夜を明かすために、寝ずに一緒におしゃべりすることに決まっているじゃない。私、ずっと二人とこうして朝まで気兼ねなくお話ししてみたかったのよ! いわゆる『パジャマ会』っていうものね!」
「「パジャマ会……!?」」
二人の声が重なった。
シャルロッテはいたって真面目な顔で頷いた。
「そうよ。日中は伯爵家の令嬢と侍女としての立場があるから、どうしてもゆっくりおしゃべりできないでしょう? でも、ここには私たち三人しかいないわ。立場も何も関係なく、美味しいお菓子を食べながら、恋の話や昔の話、好きな服の話をして朝まで過ごすの。それが私の命じた『夜伽』よ。……ふたりとも、嫌だったかしら?」
首をかしげて不安そうに上目遣いで見てくるシャルロッテ。その無垢で愛らしい姿に、エミーナとロゼッタの緊張は一瞬で吹き飛んだ。
「い、嫌だなんてそんな……っ! 私、シャルロッテ様とおしゃべりできるなんて、すっごく嬉しいです……!」
エミーナは安堵のあまり、今度は嬉し泣きをしながらシャルロッテに抱きついた。
「良かった。エミーナったら、さっきから泣いてばかりなんだから」 「だってぇ……! 私、変な勘違いをしてて……恥ずかしいですぅ……!」
一方、ロゼッタは深く深くため息をついた。
(ああ……なんということ。私を罵倒し、身も心も弄ぶような激しい夜など最初から存在しなかったなんて……。シャルロッテ様はどこまでも清らかで、無垢でいらっしゃる……。でも……この誰も立ち入れない空間で、シャルロッテ様の秘密のおしゃべり相手に選ばれたというこの特別感……! これはこれで、なんという生殺しの生焦らし……! 最高のお仕置きですわ……!)
ロゼッタは心の中で勝手に別の方向へ感動を深め、満足そうに微笑んだ。
「シャルロッテ様。このロゼッタ、お言葉に従い、朝までいくらでもお供いたしますわ」 「ふふ、頼もしいわねロゼッタ。さあ、立ち話ならぬ『立ち寝』もなんだから、横になってリラックスして」
シャルロッテの言葉に促され、三人は大きなベッドの上で枕を並べた。
静まり返ったフロストヴァイス城。窓の外には、月光を反射して青白く輝くクリスタリア湖の絶景が広がっている。城の防壁に打ち寄せる静かな波の音が、心地よいリズムを刻んでいた。
「ねえ、エミーナ。先週の舞踏会で、隣国の騎士様に話しかけられて顔を真っ赤にしてたでしょう? あの時、本当はどう思っていたの?」 「ひゃあっ!? しゃ、シャルロッテ様、見てらしたんですか!? あれはただ、道を聞かれて緊張しただけで……!」 「あら、エミーナ。あの騎士様はかなり男前だったけれど、あなたの好みではなかったの?」 「ロゼッタまでいじわる言わないでよぉ! 私、男性と話すの苦手なんだから……!」
シャルロッテが楽しそうにコロコロと笑い、エミーナが顔を覆って照れまくり、ロゼッタが冷静かつ的確なツッコミを入れながら紅茶を口に運ぶ。
昼間の「令嬢と侍女」という目えない壁は完全に消え去り、そこには年相応の少女三人の、温かく賑やかな時間が流れていた。
「ねえ、ロゼッタの好みはどんな男性なの? 私、聞いたことなかったわ」 シャルロッテが尋ねると、ロゼッタはマカロンを一口かじり、遠くを見るような目をした。
「そうですわね……。私を冷たい目で見下し、足蹴にし、理不尽な命令で翻弄してくれるような、厳格なお方が好みですわ」 「……えっと、それってかなり変わっていないかしら?」 「いいえ、最高に刺激的な愛の形ですわ、シャルロッテ様」 「ロゼッタちゃんの好みは、いつ聞いてもちょっと怖いですぅ……」
エミーナが怯えながらクッキーをかじる。シャルロッテは苦笑しつつも、そんなロゼッタの個性的すぎる一面もまた愛おしく感じていた。
やがて話題は、三人が出会った幼い頃の思い出へと移っていった。
「シャルロッテ様が八歳の時、湖で舟遊びをしていて、帽子を風に飛ばされたことがありましたわね」 「あったわね! あの時、ロゼッタが迷わず湖に飛び込んで拾ってくれたのよね。驚いたわ」 「ええ。シャルロッテ様のお気に入りの帽子でしたから。あの後、風邪を引いて執事長にお説教されたのも、良い思い出です」 「私は……私はあの時、岸で泣いて叫ぶことしかできなくて……ロゼッタがかっこよくて、自分が情けなくて……」
エミーナが少ししんみりとした声を出すと、シャルロッテはそっと彼女の手を握りしめた。
「そんなことないわ、エミーナ。あなたがすぐに助けを呼んでくれたから、大ごとにならなかったのよ。私にとっては、二人とも昔からずっと、かけがえのない大切な存在なんだから」
「シャルロッテ様……っ」
エミーナの目に再び涙が溢れ出したが、今度は温かい感謝の涙だった。エミーナはシャルロッテの手に自分の両手を重ね、右側にいるロゼッタもまた、そっと二人の手に自分の手を重ねた。
「……シャルロッテ様。セレスティア伯爵家にお仕えできて、あなた様のお側にいられて、私は本当に幸せです」 ロゼッタの言葉には、いつものドMな戯言ではない、心からの誠実さがこもっていた。
「私も……! 私、シャルロッテ様のためなら、一生侍女として尽くします……!」
「ありがとう、ふたりとも。でも今夜は侍女じゃなくて、私の一番のお友達よ。だから……もっとお話ししましょ?」
夜はゆっくりと、しかし確実に更けていく。
三人はハーブティーを飲み直し、お菓子をつまみながら、尽きることのない噂話や将来の夢、城の秘密の抜け道についての探検計画など、とりとめのない会話を重ね続けた。
時に声を忍ばせて悪戯っぽく笑い合い、時に真剣な表情で互いの悩みを聞き出す。外の冷たい湖の空気とは対照的に、ベッドの中はどこまでも温かく、幸せな熱気に満ちていた。
やがて、アーチ窓の向こうの東の空が、かすかに白み始めた。 湖面が深い群青色から、淡いパープルとピンクのグラデーションへと移り変わっていく。
「あ……朝になってきたわね」
シャルロッテが窓の外を見つめながら呟いた。 ふと横を見ると、エミーナはシャルロッテの腕にすがりつくようにして、すーすーと気持ちよさそうな寝息を立てていた。泣き疲れたのか、その満足そうな寝顔には幼さが残っている。
そして反対側のロゼッタもまた、背筋を伸ばしたままではあったが、ゆっくりと船を漕ぎ、ついにシャルロッテの肩へと力無く頭を預けてきた。
「ふふ……『朝まで夜伽』の勝者は、私のようね」
二人を起こさないようにそっと身動ぎし、シャルロッテは愛しい二人の髪を優しく撫でた。
金色の美しい髪と、艶やかな黒髪。 自分を慕い、いつでも命を捨てられるほどの忠誠と愛情を向けてくれる、自慢の侍女たち。
「おやすみなさい、エミーナ、ロゼッタ。素敵な『夜伽』をありがとう」
シャルロッテは二人の額に順番に優しくキスを落とすと、自分もまた心地よい睡魔に身を任せ、ゆっくりとまぶたを閉じた。
湖上に浮かぶフロストヴァイス城の最上階。 朝日が差し込み始める部屋で、三人の少女たちは寄り添い合いながら、穏やかで幸せな夢の中へと落ちていった。




