第11章『恐怖。耳栓瞑想鬼ごっこ大会』
クリスタリア湖の澄み渡る水面に、月光のような白銀の尖塔群が映り込んでいた。
北方の厳しい寒気を優雅な静寂へと変えるフロスト・ヴァイス城。セレスティア伯爵家の居城であるこの城の広間には、異様なまでの緊張感と、どこか明後日の方向へ走った熱気が充満していた。
五月の第四週。新緑の風が湖面を渡る清々しい季節のなかで、シャルロッテ・フロスト・ヴァイス(十七歳)は、自身が発案した歴史的一大イベントの開幕を告げようとしていた。
「皆様、よくぞ集まってくれましたわ!」
凛とした声で宣言したのは、淡い栗毛の髪を華やかに揺らす本作品の主人公、シャルロッテその人である。セレスティア伯爵家の孫2号という妙にリアルなポジションに位置しながらも、その身に纏う気品と美貌は間違いなく公爵・伯爵令嬢のそれであった。
彼女の左右には、二人の可憐な美少女侍女が控えている。 ひとりは眩いばかりの金髪をなびかせるエミーナ。もうひとりはしっとりと艶やかな黒髪をまとめたロゼッタ。シャルロッテとこのふたりは主従を超えた深い友情で結ばれており、今日も今日とてシャルロッテの突拍子もない企画を全力でサポートする構えであった。
「本日開催いたしますのは——『第一回・耳栓瞑想鬼ごっこ大会』ですわ!」
パチパチパチ、と拍手が上がった。集まった参加者たちの顔ぶれは実に多士済々である。
厨房でアドリアナの第一助手として腕を振るうラベンダー組最年少、二十一歳のノエル(愛称ノノ)。おっちょこちょいだが前向きな努力家で、今日も愛されキャラの波動を全身から放っている。 キッチンメイドのビアンカ。下ごしらえや食器洗いという大変な役回りを明るく前向きにこなす優秀な少女。 雑用メイドのロザリン。豊満な肢体を揺らし、水の搬入や洗濯といった重労働をこなす働き者だが、その実、食欲旺盛でよく厨房から盗み食いをしている食いしん坊。 そして、家庭教師のイザベラ。語学やマナーを教える知的立場でありながら、深めのスリットが入ったロングスカートに網タイツ、そして胸元が大きく開いた危険すぎる谷間を強調した衣装で佇む、自他ともに認めるエロビッチであった。
そして——この狂気の企画において「鬼」という重要かつ危険な役目を担う人物が、広場の中央で腕組みをしていた。
オリバー。十六歳。 シャルロッテの従兄弟であり、クララの息子。 一見すれば整った顔立ちの少年だが、その実態は筋トレマニアにして筋金入りの変態少年である。現在も上着を脱ぎ捨て、見事にはち切れんばかりの筋肉をピクピクと躍動させていた。
「フッ……シャルロッテ姉さん。俺を『鬼』に指名したこと、後悔させてあげるよ。視覚と聴覚を断たれた世界で、肉体の鼓動……いや、『筋肉の叫び』だけを頼りに全員を捕獲してみせる!」 「期待していますわ、オリバー。ただし変態的な触り方をしたら即失格の上、湖に沈めますからね」
シャルロッテはにっこりと微笑みながら、ルールを説明し始めた。
「ルールは極めてシンプルですわ。参加者および鬼は全員、特製の防音耳栓を装着し、さらに目隠しをします。音も光も一切届かない完全なる暗闇と静寂の中で、頼れるのは床を伝わる微小な『振動』と、空間を揺らす『空気の流れ』のみ! まさに瞑想の境地に達した者だけが生き残る、究極の感覚バトルですの!」
「ええっ!? 目も耳も使えないんですか〜!?」 ノエルが困惑したように声を上げた。 「私、ただでさえ転びやすいのに……大丈夫でしょうか……」 「大丈夫ですよ、ノノさん! 私がついてます……と言いたいところですが、始まったら個人戦ですものね」 ビアンカが爽やかに笑いながらノエルを励ます。
「ふふ、視覚も聴覚も奪われた密室なんて……なんだかゾクゾクしちゃうわね。オリバー君、捕まったらどんなお仕置きをしてくれるのかしら?」 イザベラが網タイツを履いた脚を組み替え、豊かな谷間を強調しながら妖しく微笑む。 「イザベラ先生、俺の筋肉は誘惑には屈しません! 触知できるのは純粋な『質量』と『空気圧』のみです!」 オリバーが謎の情熱で返答した。
「重労働で鍛えた私の足腰なら、振動を消して移動するなんてお手の物です!」 ロザリンが胸を張り、ポケットに忍ばせた盗み食い用の干し肉をこっそり口に放り込んだ。
「よし、エミーナ、ロゼッタ。準備はよろしくて?」 「はい、シャルロッテ様! 耳栓と目隠し、人数分用意いたしました!」 エミーナが元気いっぱいに答え、ロゼッタが丁寧に全員へ道具を配っていく。
「ふふ、楽しみですね、エミーナ。シャルロッテ様が鬼に捕まる瞬間を特等席で見られるかもしれません」 「ロゼッタったら、失礼ですわよ! 私はこう見えて気配を消すのは得意なんですのから!」
全員が防音耳栓を耳の奥深くへと押し込み、黒い布で厳重に目を覆った。
——シュン。
世界から、音が消えた。 光が消えた。
完璧な静寂と漆黒。 フロスト ヴァイス城の大広間は、一瞬にして広大な「無」の空間へと変貌を遂げたのである。
事前に決められた位置につき、合図のドラ(参加者には床への一撃による強烈な振動で伝達される)が打ち鳴らされた。
ド―――ン……!
床を通じて足裏から脳幹へと突き抜ける重厚な振動。 ゲームスタートの合図だ。
(……聞こえない。何も見えない……!)
シャルロッテは息を殺し、爪先立ちでそっと床を踏みしめた。 目隠しと耳栓による完全遮断は、想像以上の恐怖と没入感を伴っていた。自らの心臓の鼓動と、肺が膨らむ内なる音だけが体内で反響している。
(落ち着くのです、私……。目を閉じ、耳を塞ぐことで、第七感が覚醒するはず……! 床の木目が伝える微細な揺れを感じ取るのですわ!)
シャルロッテはゆっくりと腰を落とし、まるで太極拳のような極めて静かな足取りで移動を開始した。
その頃、鬼であるオリバーは広場の中央で仁王立ちしていた。
(フハハハ! 見えない! 聞こえない! だが……わかる! わかるぞ! 空間に充満する『生体エネルギー』と、空気の『押しのけられ感』が!!)
オリバーは変態的集中力を発揮していた。毎日の過酷な筋トレによって研ぎ澄まされた彼の神経は、皮下脂肪の微振動すら感知するレベルに達している。
(東南東、約五メートル! このズッシリとした重厚な振動……そしてかすかに漂う干し肉の匂いの空気流……間違いない、ロザリンだ!)
オリバーは野獣のような俊敏さで、無音のまま東南東へと跳びかかった!
ドシィン!
(きゃああっ!?) 声は聞こえないが、捕縛されたロザリンの悲鳴のような全身の震えがオリバーに伝わった。 オリバーはロザリンの肩をバシッと叩き、アウトの判定を下す。ロザリンは無念そうにその場に崩れ落ちた(そして目隠しの下でこっそり干し肉の続きを噛み締めた)。
(一人目撃破! 次だ……次はどこだ!?)
オリバーは鼻孔を蠢かせ、床に掌を直接叩きつけた。 パオン……と床を伝わる微振動。
(北西! このやたらと素早く、かつ可憐で小刻みな振動……エミーナか、ロゼッタか!? いや、このかすかな甘い香水の空気圧は……エミーナだ!)
北西のエリアでは、金髪美少女侍女のエミーナが、壁に背を預けて息を潜めていた。
(ふふん、シャルロッテ様直伝の『壁と同化するポーズ』をとっていれば、絶対にバレないはず……)
そう高をくくっていたエミーナの真横に、突如として熱い『肉の塊』が迫る。 音は聞こえない。しかし、肌を刺すような強烈な熱気と、男臭い空気の圧縮!
(えっ、嘘、なになに!?)
ガシッ!
「ひやあッ!?」 エミーナはオリバーに腕を掴まれ、あえなく捕獲された。 オリバーは「二人目!」と指を二本立て、満足げに次の獲物を探す。エミーナは「くやしい〜!」と足踏みをしたが、その振動がまた鬼にヒントを与えてしまうため、ぐっとこらえてその場に座り込んだ。
その足踏みの振動を察知したのが、すぐ近くにいた黒髪美少女侍女のロゼッタであった。
(……今、エミーナが捕まった。振動の波形からして間違いないわ)
ロゼッタは冷静だった。彼女は静かにスカートの裾を持ち上げ、完全なる無音移動『忍び足・美少女バージョン』を繰り出し、ゆっくりと壁際を移動する。
(オリバー様の筋肉センサーは強力……下手に動けばすぐに察知される。ここは『動かないこと』こそが最大の防御……)
だが、そのロゼッタの計算を狂わせる存在があった。
(あわわわ……どこに行けばいいの〜!?)
ノエル(ノノ)である。 おっちょこちょいな彼女は、完全な暗闇の中で完全に方向感覚を失っていた。 「あっちかな? こっちかな?」と心の中でパニックになりながら、ヨロヨロと千鳥足で歩き回る。そのステップは不規則極まりなく、床を通じて「タタタ、ドスン、タタタ」と奇妙なリズムを打ち鳴らしていた。
(くっ……なんだこのランダムな振動は!?) オリバーが眉をひそめる。 (規則性がない……! まるで酔拳の使い手か、ステップを踏むダンサー……! だが、予測不能な動きこそ、我が筋肉の反射神経を滾らせる!)
オリバーはノエルの不規則な振動の先へと回り込み、両腕を大きく広げた。
ドスン!
「ふぇっ!?」 ノエルは勢いあまって、仁王立ちするオリバーの分厚い大胸筋に正面から激突した。 カチカチの男の胸筋に顔を埋める形になり、ノエルは(なにこれ硬い!? 壁!?)とパニックになったが、肩をポンポンと叩かれてアウトを悟った。
(ごめんなさいアドリアナさん、私真っ先に捕まっちゃいました〜!)と心の中で叫びながら、ノエルはトボトボと退場エリアへ移動した。
残るは、ビアンカ、イザベラ、そして主催者のシャルロッテの三人。
(ふふふ……静かですね。誰も彼も、この静寂の闇に呑み込まれたようですわ)
シャルロッテは広場の中央付近、高価なペルシャ絨毯の上にいた。 絨毯の上であれば、足音が床に伝わりにくいという地形的利点を突いた見事な立ち回りである。
(頼れるのは自分のみ……まさに瞑想。私、今、すごく高尚な精神状態に達している気がしますわ……!)
シャルロッテが一人で恍惚感に浸っていたその時。
スゥ……と、背後からあでやかで妖艶な『空気のゆらぎ』が迫ってきた。
(!……この、まとわりつくような重厚な気配……! イザベラ先生!?)
シャルロッテの察した通り、そこにいたのは家庭教師のイザベラであった。 イザベラはロングスカートのスリットから網タイツに包まれた艶やかな脚をのぞかせ、まるで黒猫のようにしなやかな足取りでシャルロッテへと歩み寄っていた。
(ふふ、シャルロッテ様……無防備ですわね。鬼に捕まる前に、私が教育的指導をして差し上げますわ……)
イザベラが豊満な胸を武器にシャルロッテへ抱きつこうと手を伸ばした、その瞬間!
ドッ……!
広場全体を激しい圧迫感が襲った。
オリバーである。 ノエルを捕まえた後、全集中・筋肉の呼吸を発動させたオリバーは、空間の広がりと熱源を完全に把握していた。
(捕らえた……! イザベラ先生の濃厚な色気の空気流と、シャルロッテ姉さんの高貴な気配が重なる一点……!)
オリバーは弾丸のような踏み込みで二人の間へと割り込んだ!
ガバッ!
「あらん!?」 「きゃあ!?」
オリバーの両腕が、イザベラとシャルロッテを同時に力強くホールドした。 右腕にはイザベラの柔らかく豊満な感触。左腕にはシャルロッテの華奢で可憐な肩の感触。
「ダブル捕獲完了!!」 (※声は聞こえないが、オリバーの全身のドヤ感が凄まじい)
イザベラは「あらまあ、大胆ねぇオリバー君」と言わんばかりにオリバーの腕を突っつき、シャルロッテは「な、なんですのこの力任せな捕まり方はー!?」と心の中で不満を爆発させた。
(くやしい……! 絨毯の上にいたのに見破られるなんて! ですが、残るはビアンカだけですわね……!)
シャルロッテとイザベラが脱落し、残された生存者はビアンカ一人となった。
ビアンカは厨房で培った驚異的な集中力を発揮していた。 毎日、割れやすい高級食器を洗い、繊細な食材を下ごしらえする彼女の指先と足裏の感覚は、職人の領域に達している。
(……オリバー様がシャルロッテ様たちを捕まえた隙……今、オリバー様の体勢は崩れているはず!)
ビアンカは、広場の端に置かれた巨大な観葉植物の陰から、全く音を立てずにすり抜けた。 空気抵抗を最小限に抑えた完璧なフォーム。
しかし、鬼の変態的筋肉感覚を舐めてはいけなかった。
(来たな……ラストワン! 厨房の過酷な労働で鍛え上げられた、しなやかかつブレのない軸を持つ足取り……ビアンカ!)
オリバーは目隠しの下でニヤリと笑った。 彼は捕まえるのではなく、あえてその場から一歩も動かず、右腕を真っ直ぐ水平に伸ばした。
ビアンカの進行方向。完璧な予測線上に置かれたオリバーの腕。
サッ……。
ビアンカの額が、スッと伸びていたオリバーの前腕二頭筋にポツンと当たった。
(……あ)
ビアンカは足を止めた。 目隠し越しにもわかる、圧倒的な敗北感。
(完敗……です……)
ビアンカは降参の意を込めて、オリバーの腕をちょんと叩いた。
ここに、『第一回・耳栓瞑想鬼ごっこ大会』は、鬼・オリバーの完全勝利という形で幕を閉じたのである。
◇
全員が目隠しと耳栓を外すと、眩い光と城内の喧騒が一度に押し寄せてきた。
「はぁ〜! 息が止まるかと思いましたわ!」 シャルロッテは耳栓を外し、淡い栗毛をファサッと揺らしながら深呼吸をした。
「シャルロッテ様、お怪我はありませんでしたか!?」 「すぐにお水をお持ちしますね、シャルロッテ様!」 エミーナとロゼッタが甲斐甲斐しくシャルロッテの元へ駆け寄る。
「ふぅ……ノノちゃん、大丈夫だった?」 ビアンカがノエルの肩を優しく叩く。 「はいぇ……なんだか途中ですごく硬い壁にぶつかった気がしたんですけど、オリバー様だったんですね……」 ノエルが困り顔で頭を掻いた。
「ふふ、それにしてもオリバー君、目も耳も塞がれていたのに、どうして私の位置がわかったのかしら? まさか……愛の力?」 イザベラが網タイツの脚をくねらせ、谷間をチラつかせながらオリバーに迫る。
オリバーは誇らしげに胸筋をバンプアップさせながら言った。
「違います、イザベラ先生! 筋肉は裏切りません! 視覚や聴覚といった曖昧な感覚に頼るから人は惑わされるのです! 床の縦揺れ、横揺れ、そして皮膚表面の産毛が感知する微細な空気の摩擦……それら全てを統合すれば、相手の体脂肪率まで割り出せるのですよ!」
「相変わらず気持ち悪い解説ですわね、オリバー」 シャルロッテが呆れ顔で冷たく言い放つ。
「失礼な! 俺は完璧に鬼の責務を果たしたんですよ!? さあシャルロッテ姉さん、優勝賞品の『特製プロテイン・セレスティア風味』をいただきますよ!」 「そんな賞品、用意した覚えはありませんわよ! 勝者には……厨房のビアンカとノエルが作った特製スイーツの優先権ですわ!」
「「「キャー! それ最高じゃないですか!!」」」
メイドたちが一斉に歓声を上げた。
「盗み食いしなくても堂々と甘いものが食べられるなんて最高です!」とロザリンが目を輝かせ、ノエルも「私、盛り付け頑張ったんです!」と笑顔を見せる。
結局、大会の反省会という名の賑やかなティーパーティが広場で始まった。
美味しい紅茶の香りと、色鮮やかなケーキや焼き菓子がテーブルに並ぶ。 さっきまでの静寂と暗闇が嘘のように、笑い声と賑やかな会話がフロスト ヴァイス城の天井に響き渡っていた。
「シャルロッテ様、次のイベントは何にいたしますか?」 エミーナが楽しそうに尋ねる。 「そうですわね……次回は『氷上車椅子レース』か『超高層タワー積み木大会』なんていかがかしら?」 「シャルロッテ様、どれもメイドの仕事よりハードそうです……」 ロゼッタがクスッと微笑みながら、新しい紅茶をカップに注いだ。
窓の外には、夕日に照らされて黄金色に輝くクリスタリア湖が広がっている。
セレスティア伯爵家の平和で少し変わった日常は、五月の爽やかな風に乗って、明日もまた賑やかに続いていくのだった。




