第2話
※初め記載していたこちらの冒頭部分を2ー1話の最後に移動しています。2ー1話から読み進めていただくことを推奨します。
明朝の川辺は、不思議なくらいに静かだった。
水面から川霧が立ち込め、辺り一面がうっすらと白く覆われている。風が吹けば霧の塊は緩慢な渦のような動きで蠢き、どことも知れず流されて散らされていく。遠く向こうにぼんやり見える対岸には、葦の群が湿った風に揺らされて、囁くような音を上げていた。
カレーヌ支部の船着き場はそんな静かな川岸に沿うような形で併設されていた。十数段の石の階段を下りれば川の壁に沿って長い桟橋が続く。その先には、大人が軽く十人以上は乗れるであろう立派な船が停泊している。
桟橋の足場は滑り止めの加工がなされている木の板が並んでいた。よく見れば、土台は石のブロックを積まれて補強されているらしい。
「ここカレーヌには大きな嵐は起きないが、何せたまに季節の大雨が降ると川が増水してね。川辺のうちの支部はちょっとばかり浸水したりして大変なものだよ」
世間話の軽いノリでそう話してくれる支部長の顔は、どことなく楽しげにも見えた。
支部長が船に近付き、誰かの名前を呼び掛けた。少し遅れてバタバタと足音が聞こえて、操舵室があるらしいキャビンから一人顔を出した。支部長とその船長らしき人はその場で何事かを話し合っている。
ふと、あたしは何気なく、川面の方へと視線を向けた。もやのような川霧が漂う水面は、さっきと変わらず穏やかにゆったりと流れていっている。
白い霧の下に黒い影が見えた。
穏やかな水面のすぐ下に、黒く揺らめく魚影があった。……いや、魚影と呼ぶにしては明らかに大きすぎるような気もするけど。
川の半ば辺り、ちょうど船の斜め後方のやや離れた位置にあるように見える。距離は少しあるけど、ここから見ても変な大きさ……人くらいはあるんじゃないのか。幸い、あたし以外はその影に気付いていないらしい。影は水面下でこちらの様子を窺うようにじっとその場に留まっている。思いがけず目が合ってしまって、お互いに硬直してしまったような感覚にも似ていた。
視線だけ向けて無言でその影を見返していたら、影の大きさが急に小さくなり、音もなく水中へと沈んでいった。あの大きさが完全に見えなくなったから、この川はけっこう深いのかもしれない。
視線を戻したとき、ちょうど話を終えた様子の支部長がこちらに戻ってくるところだった。
あたしたちの前に来ると、転移してきたとき同様に腰に手を当ててすっと立ち塞がった。
「船の準備は万端だ。さて、今すぐにでも出発してもらおうか」
「出発の前に、支部長。少し訊きたいことが」
「ん?何かな」
あたしからものを尋ねる言葉が出たのが意外だったのか、目を少し丸くさせて眉を持ち上げる。その目を下から真っ直ぐに睨み付けた。
「この川にはヌシのような巨大魚がいたりするの?」
「ヌシ?うーん、巨大魚がいる話は聞いたことがないが……いや、人里から少し離れるとたまに魚の魔物が出るかな。それほど大きくはないが」
「……ふぅん」
聞いておいて素っ気ない返事だろ……と耳元で文句を言われたような気もしたけど、あたしの態度を支部長は特に気に留めた様子はなかった。
「安心しなさい。確かに、件の村周辺では魔物が活発になっているが、前と比べて少し騒がしい程度だ。君たちの乗る船を襲うほど凶暴なやつも、ましてや君の言った巨大魚もいないよ。むしろ、襲われても君たちなら撃退できるだろうが」
……どうやら、あたしが村までの安全面の心配をしていると思われたらしい。にっと口の端を持ち上げながら、支部長はそう豪語した。
あたしはそんなことを心配しているわけじゃないんだけどな。もちろん行く途中で沈没したなんて困るけど、問題なのはそこじゃない。
……あの影を見たときに、少しだけ違和感を感じた。その違和感が強くはっきりしたものにならないことを、心の底で願うしかない。
二班全員が船に乗り込んだのを確認した支部長は、船長へと合図を送る。船には船長の他にもう二人の船員がいたらしく、船着き場の桟橋と船を繋いでいた架け橋を外しにかかった。ガラガラと錨の揚がる音が聞こえ、陸から切り離された船はゆっくりと動き始めた。
デッキ越しから桟橋を見れば、動き出す船を見送る支部長が、歯を見せてこっちに向かって腕を大きく振るっていた。
「団員諸君、君たちの武運と成功を祈っている!諸君らに、エルミア様の加護があらんことを!」
霧に覆われた穏やかな朝の川辺に、快活で力強い声が響く。その声に勇気付けられた団員たちは、わっと声を上げて支部長の方へ腕を振り返した。まるで戦場に行く兵士とその見送りみたいだ。
……あの支部長の鼓舞は、凛としていて悪い感じはしない。けど、あたしはこういう活気はそんなに好きじゃない。
教団員の歓声は……耳に付いて嫌になってしまうから。
腕を振る支部長をぼんやり眺めていたら、あのレンズ越しの目と目が合ったような気がした。無言であたしは、桟橋の支部長から視線を外した。
ここから件の村までは一時間ほどかかるということで、到着までは各自船内で自由にしていいということになった。
それぞれ思い思いの場所で束の間の自由を得た団員たちの様子を横目に、あたしは人気の少なそうな船尾の方へ足を向けた。先頭のデッキは人が多くて居心地が悪い、早々に退散するのが楽だと考えていたところで「ミヨ団員!」と声をかけられた。
一瞬ビクッと肩が震えて、その振動が直に伝わったらしい右肩のぬいぐるみから小さく吹きだす声が聞こえてくる。とりあえず指でその綿の詰まった頬をつねっておいた。
声が飛んできた方に顔を向けると、あの眼鏡の第二班長……エスト、だったか……があたしのところに歩み寄って来ていた。初見の人懐っこそうな印象は相変わらず変わらない。ただ……そいつの悪意のない雰囲気は、若干苦手、とも感じてしまった。
「ミヨ団員、村に到着する前に、今後について打ち合わせをしませんか?周辺の地理やお互いの班の行動を確認しておきたいですし」
「……ん、分かった」
立ち話もなんということで、班長二人で揃ってキャビンの方に移動することになった。
すぐ脇に据え付けられていた木の扉を潜ると、その先のキャビンの中はやっぱり操舵室となっていたようだ。横に広く、川面を見通せるように取り付けられた窓が部屋の先頭にあり、そのすぐ側にこの船の舵が設置されていた。その舵を操っている船長に声をかけると、快く操舵室の一角にある机とこの地域の地図を貸してくれた。
丸椅子を引いて座ると同時に、肩に乗っていたルトがぴょんと机の上に着地する。当然のようにエストは驚いたらしく、眼鏡の向こうの目が丸くなっていた。まぁ、ルトが動いたのを初めて見る人は、だいたい同じような反応をするんだけど。
あたしの肩から飛び降りて当たり前のように机の上にぼすっと座り込むぬいぐるみを凝視する第二班長に一言声をかけ、それで我に返ったらしい。慌てて船長が貸してくれた地図を机の上に大きく広げた。
──今回の任務先であるここ一帯は、「カレーヌ地方」と呼ばれる地域に含まれる、なだらかな丘陵地帯だ。
また、カレーヌ地方は「花のカレーヌ」と称されるほどに各地で生花の生産が盛んな地域でもある。
そのカレーヌの中心が、「花壇都市フローレ」……花の女神の名前を戴くという世界有数の大都市、華々しき色彩と芳香の都とされる。
……ここまでは、出発前にルトに教えてもらった予備知識だ。正直、地名なんて覚えるのも苦手だから、何度もルトに訂正を加えられたんだけども。
その、フローレの都市領に属しているのが、今回依頼を要請してきた件の村──アルド村である。
地図を見ると、村周辺は先に伝えられていた通り、やはり水辺に囲まれた場所のようだった。今あたしたちが上っている大きな川のすぐ側に村があり、東西で村を挟むように細い支流があるらしい。村から少し外れると、広葉樹の森が広がっている。地図から見ても、アルド村は水源豊かな緑溢れる土地というのが分かる。
そして、地図の上で広葉樹の森が突然途切れ、大きな水辺が現れる……潰れたキノコの傘のような形をした、湖だ。地図では、二本の支流はこの湖に繋がっている。この地域の大きな水源の一つだろう。
湖の真ん中……キノコの傘の下側にぽつりと小島があり、船長にここについて尋ねると、そこにはいつの時代からあるか分からない遺跡の入り口があるということを教えてもらった。
…………つまり、この湖の小島にある遺跡が、妙な『歌声』が聴こえてくる曰く付き……今回の調査任務の対象となっている場所だった。
「村に到着しましたら、まずは周辺の詳細な地形把握を行いたいと思います。主な活動は陽の出ている時間帯に限定し、夜間は村の警備を交代で行うことにしましょう」
「夜間の警備の組み分けはまた別に決めるとして、第一班は湖と遺跡周辺、第二班は村の周辺を見るってことでいいな」
「そうですね……異論はありませんが、遺跡周辺の人員を第二班からも出すのは?」
エストからの提案に、しかし、あたしは首を横に振った。
「却下。それぞれ任務を行うのに一番いい人数で構成されてる。減らしても増やしても班の動きが悪くなるだけだから、そのままでいい」
広げられた地図の横に陣取っているルトからの視線を感じた。じっとあたしを見てくるツギハギの目は、言い方をもう少し優しくしろ、と雰囲気で小言を言っていた。……別にいいじゃんか、あたしがどんな風に受け答えしようが。
当のエストは……あたしが提案をすっぱり切り捨てたときに一瞬目を丸くしたけど、納得はしたらしい。
地図を見ながらそれぞれの班の動きを大まかに話し合い、村に戻った後に互いの班の成果を報告しあって明日以降、遺跡に潜る判断をつける、という流れに落ち着いた。夜間の警備は、班から一名ずつペアを組ませて行った方がいい、というあたしの意見が採用された。
一通りのめどは立ち、軽く息を吐き出した。第二班長が、思ったよりも真剣に任務の方針を打ち立ててきたから、静かに白熱して話し込んでしまっていたみたいだ。その第二班長も、今は少しリラックスした雰囲気で椅子に腰掛けている。
ルト、とぬいぐるみの名前を呼ぶと、腰を持ち上げもたもたとあたしの方に近寄ってくる。ルトを膝の上に乗せるまでの間、エストは動くぬいぐるみを食い入るように観察……もといこっちが引くほどガン見していた。
あたしの怪訝な目に気付いたら、はっと我に返ったらしい。顔を赤くさせて申し訳なさそうに、眼鏡の向こうの目が横に揺れている。
「す、すみません……その、ぬいぐるみを媒体にした使い魔なんて初めて間近に目にしましたから、つい……」
「……別に。ルトを初めて見るやつは大体同じような反応するから」
「……あの、少し触って観察してみても……」
「断る」
あたしが答えるよりも先に膝の上のぬいぐるみが低く唸った。ぬいぐるみのくせしてその声はやけに迫力がある。べたべた触られて堪るか、とルトの言葉からはそんな思いが滲んでいた。
そして二度も切り捨てられた眼鏡の青年は「喋った……」と一言声を漏らしたけど、ルトに冷たく睨まれているのを気配で察したのか、慌てて視線を少し外した。まだ好奇心に駆られているのか諦めきれていないのか、ちらちらと見てきてはいるけども。
「……そう言えば、ミヨ団員は歳はいくつなんですか?」
唐突にそんな言葉を投げかけられた。ほんとに唐突だったから一瞬言葉の意味を理解しかねる。たぶん、本人なりに話題を変えたかったんだろうとは思うが、それにしても話題を変えるのが下手だ。というか普通歳って訊くものなのか。
内心いろいろと文句は出たが口に出すのも億劫なもんで、そのまま心のうちに留めておくだけにしておいた。
「……十五、六くらい?」
「そうですか……やっぱり」
やっぱり?
いまいち話の流れが読めないその言葉に眉を寄せていると、エストは目尻を緩めて照れ臭そうに笑ってみせた。……何というか、緊張感のないやつというか、変に毒気がなくてその表情に若干戸惑ってしまう。
「いえ、ミヨ団員が……自分の妹と同じくらいの歳に見えたので、つい……すみません、個人的な理由で」
妹に久しく会っていないもので、と眼鏡の青年は口の中でごもごも呟いた。
……妹、ね。
もしかして変に毒気がなかったり雰囲気が柔らかく見えるのは、あたしがその妹と同じくらいの歳だからなのか。
…………下らない。同じくらいの歳だから、なんだ。あんたの妹がどんなやつで、どんな生活をしているのかはこれっぽっちも知らない。歳が同じだろうがあんたの妹とあたしは同じじゃない。
あたしを、そこらの同年代と一緒にするな。
は、と乾いた声が聞こえた。それが、あたしの口から無意識に吐き出されたものだと分かったのは、一瞬遅れた後。はにかんでいた青年が、少しだけ表情を硬くさせたことを見て気付いた。
ルトを抱えて立ち上がる。目線をほんの一瞬エストに向けたとき、ぎくりと肩を震わせていた。
「……もう任務関連の話はなし?世間話したいなら他を当たれ」
思ったよりも随分と低い声が出た。
もうエストには目もくれず、さっさと扉の方へと足を進めた。眼鏡の青年は立ち上がりかけたけど、あたしに言葉を投げ掛けてくる気配はない。もちろん、どんな言葉を投げ掛けてこようが立ち止まるつもりも答えるつもりもなかった。
……人気のないところに行こう。「他人」と話すのは、やっぱり、疲れる。
静かに奥歯を噛んだ。それに気付いたのは、たぶん誰もいない。
扉に取り付けられた取っ手に手を…………掛けようとして、目を見開いた。
──異様な気配。
急激に、だけど静かに、何かが忍び寄ってくる気配があった。室内じゃなく、キャビンの外──「船」の、すぐ外側に。
それが何なのか考える前に、あたしは取っ手に掴み掛かり勢い任せに引き開ける。壊してしまうんじゃ……という心配は欠片も頭にはなかった。
直後、穏やかな川霧を切り裂く悲鳴が鼓膜を震わせた。