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魔王(よしこ62歳)と勇者パーティ  作者: 歩人
Arc4: 聖教会の子どもたち

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第82話: グレイヴスの涙

◆グレイヴス視点




 門の前に立っている。




 一晩中——立っている。




 国王陛下が中に入った時、私は同行した。城門をくぐるところまでは行った。食堂の匂いがした。パンの匂い。シチューの匂い。笑い声がした。


 足が——止まった。




 それから動けないまま、夜が明けた。








 門は開いている。


 魔王城の正門。黒い石造りの門柱。その間に——何の遮りもない。


 鎖もない。結界もない。番兵が槍を構えているわけでもない。




 開いている。ただ——開いている。




 入れなかった。




 昨日の和平の席で、国王陛下が魔王とスープを飲んでいた。笑い声が聞こえた。カインが「美味い」と言っていた。


 私は——食堂の入口まで行って、引き返した。


 誰にも止められなかった。誰も私を阻まなかった。




 阻んだのは——私自身だった。






◆グレイヴス視点




 朝の光が門を照らしている。


 城の中から声が聞こえる。遠い。食器の音。「おかわり!」という声。子どもの声だ。あの——四天王の子どもだろう。


 朝食の時間らしい。




 私は——朝食をとっていない。


 昨夜もとっていない。


 昨日の昼もとっていない。




 ——いつもと同じだ。




 教会の大司教の食事は、パンと水と、薄いスープ。質素を旨とする。それが神に仕える者の正しい在り方だと——そう教えられた。


 8歳で孤児院から教会に入り、50年。パンと水。たまに薄いスープ。それ以外の食事を——知らない。




 知らなかった。




 昨日、食堂の入口で嗅いだ匂いが——まだ鼻の奥に残っている。


 シチューの匂い。肉と野菜が煮込まれた、濃い匂い。パンが焼ける香ばしい匂い。




 50年間嗅いだことのない匂いだった。








 足が重い。


 白と金の大司教服が——重い。50年着てきた服が、今朝は殊更に重い。




 帰るべきだろう。


 和平は成った。国王陛下は魔王と和約を結ばれた。私の役目は終わった。王都へ帰り、教会の務めに戻るべきだ。




 なのに——足が動かない。




 門の前に——立っている。




 開いている門の前に、一人で。






◆グレイヴス視点




 足音が聞こえた。


 城の中から。石の廊下を歩く足音。軽い。だが——よく響く。




 門の奥に——影が見えた。


 長身の女。黒と紫のローブ。漆黒の髪。深紅の瞳。小さな角が二本。




 魔王。




 魔王よしこ。




 あの方が——門をくぐって、外に出てきた。




「あんた、まだおったんか」




 声が——軽い。


 驚きも怒りもない。散歩の途中で知り合いを見かけたような、そういう声。




「一晩中おったん? あかんやん、体冷えるで」




「…………」




「なにしとん、門の前で。——入り」




 魔王が——手招いた。




「ごはんあるで(^^)」






◆よしこ視点




 おったわ。やっぱり。




 昨日の夕方、ティアちゃんが言うてた。「門の外に——お一人、立っておられます」って。尻尾がぴーんとなっとった。心配しとったんやな。


 カインくんに聞いたら、「大司教です。昨日から——動かないのです」と。渋い顔しとった。




 夜中に一回、様子見に行った。


 おった。門の前に。月明かりの中で、白と金の服が光っとった。


 声はかけへんかった。まだ——その時やなかった。




 朝になって、朝食の片付けが終わって。


 みんなが食堂を出た後、一人で門に向かった。




 ——おった。まだおる。




 一晩中や。


 この人、58歳やで。わてと4つしか変わらへん。一晩中立ちっぱなしって、腰やられるで。




「入り(^^) ごはんあるで」




 手を招いた。




 グレイヴスさんが——動かない。


 鉄色の目がこっちを見ている。冷徹な目——のはずやけど。今は違う。


 何かを堪えとる目。




 保育園で40年やってきたら——わかる。


 この目を知ってる。




 入園式の朝、園の門の前で動けなくなる子がおるねん。中に入りたいのに、入れない。怖いんやない。自分が「入っていい場所」なのか、わからへんのや。




 この人も——同じ目をしとる。




「グレイヴスさん」




「…………」




「入り。冷えるから」




「……私は」




「シチューあんで。温かいやつ(^^)」






◆グレイヴス視点




 歩いていた。


 気づいた時には——門をくぐっていた。


 魔王が前を歩いている。背中を見て、足が勝手に動いた。




 廊下。黒い石の壁。だが——花の匂いがする。中庭から風が入っているのだろう。花の匂いと、パンの残り香。




 食堂の扉が見えた。




 魔王が扉を開けた。中を見た。




 ——人がいる。




 長テーブルに、まだ何人か残っている。


 朝食の片付けが途中なのか。皿を持った魔族の女——侍女。尻尾がある。こちらを見て、目を丸くした。


 大柄な少年が二人、テーブルを拭いている。茶色い髪のほうが——こちらを見た。


 銀髪の少女がカップを持ったまま、固まった。




 奥から——赤茶の髪の少年が出てきた。




 レオン。




 先代勇者——いや。もうその呼び方は正確ではない。




 レオンが——私を見た。


 緑の目が、鋭くなった。一瞬。だが——すぐに、表情を変えた。何かを抑えるように。




 隣に——黒い短髪の少年。灰色の目。


 シオン。




 シオンが——私を見ている。




 かつて「完璧な勇者」に育てた少年。感情を殺す訓練を施した少年。今、その少年は——拳を握っている。




 金髪の少女。ミーナ。笑顔を教え込んだ少女。今、その少女は——笑っていない。泣いてもいない。ただ、まっすぐ見ている。




 全員が——私を見ている。






◆よしこ視点




 食堂の空気が——変わった。


 グレイヴスさんが入ってきた瞬間に。




 ティアちゃんが皿を持ったまま固まっとる。ガルくんとトールくんが手を止めた。リーゼちゃんのカップが止まった。


 レオンくんが——奥から出てきた。目が鋭い。あの子、グレイヴスさんのこと、許してへん。許す必要もない。ただ——。


 シオンくんが拳を握っとる。この子にとってグレイヴスさんは——「自分を作った人」や。複雑やろう。ミーナちゃんはまっすぐ見とる。泣いてへん。もう、泣けるようになったこの子は——泣かへんことも選べるようになった。




 メルちゃんは奥の席で茶を飲んどる。紫の目が細くなった。観察しとるな。


 ドルガは腕を組んどる。「フン」とか言いそうな顔。


 ヴェルちゃんが——立ち上がった。金色の目がグレイヴスさんを見ている。300年の軍人が、聖教会の頂点を。




「——魔王様」




 ヴェルちゃんが、わてを見た。判断を委ねとる。




「座って(^^) お客さんやで」




 そう言った。




 ヴェルちゃんが——頷いた。座った。それだけで食堂の空気が少し緩んだ。ヴェルちゃんが座ったなら、大丈夫ということや。




「グレイヴスさん、そこ座り(^^)」




 テーブルの端を指した。ドルガの向かい。カインくんの隣。




 グレイヴスさんが——動かない。




「座り(^^)」




「……失礼、します」




 座った。


 白と金の大司教服が——椅子の上で、少し小さく見えた。






◆グレイヴス視点




 椅子に座った。


 木の椅子。使い込まれた、温かみのある色。座面が少し凹んでいる。誰かがずっとここに座っていた証。




 テーブルの上は——朝食の後片付けの途中。パンくずが残っている。コップに水滴がついている。生活の痕跡。




 周囲の視線が——重い。


 だが、誰も何も言わない。




 あの魔王が——厨房に消えた。


 戻ってきた。手に——器を一つ。




 テーブルの上に——置かれた。


 私の前に。




 シチュー。




 湯気が立っている。ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎ、鶏肉。大きめに切られた具が、茶色いスープの中に沈んでいる。不格好な切り方。だが——匂いが。




 この匂いだ。


 昨日、食堂の入口で嗅いだ匂い。


 50年間知らなかった匂い。




「ほい(^^) あっついから気ぃつけてな」




 スプーンが添えられた。木のスプーン。使い古されている。




「…………」




 手が——動かない。








 器の前で、止まっている。


 シチューの湯気が——顔に当たる。温かい。




 50年前の記憶が——よぎった。


 孤児院。冬の朝。薄い壁。寒かった。朝食は——パンの耳。水。




 隣に座っていた子どもは——翌年、「勇者候補」に選ばれた。


 私は——選ばれなかった。




 その子は——帰ってこなかった。




 私は教会に入った。訓練を受けた。勉強した。上り詰めた。大司教になった。


 そして——子どもを送り出す側になった。




「……私は」




 声が出た。自分の声だとわからなかった。




「私は——子どもたちを送り出した」




 シチューの湯気が揺れている。




「何人も。何十人も」




 手がテーブルの上で——震えている。




「帰ってきた者は——」




 声が途切れた。




 47人。記録では47人。聖歴381年から427年。46年間で47名。全員が孤児。最年少13歳。最年長17歳。




 帰還者——ゼロ。






◆よしこ視点




 グレイヴスさんの手が震えとる。


 大きな手。骨張った手。杖を握り続けてきた手。子どもたちに「行け」と命じてきた手。


 今、その手が——シチューの前で震えとる。




「帰ってきた者は——」




 声が詰まった。


 鉄色の目が——揺れとる。




 ——知ってる。




 わては、知っとる。


 47人。全員が孤児。帰還者ゼロ。カインくんの報告書で読んだ。レオンくんが拳を震わせながら教えてくれた。




 でもな。


 今、見とるのは——数字やない。




 この人の目や。


 この人の手や。


 一晩中、門の前に立っていたこの人の——足や。




「知ってる」




 言った。




 グレイヴスさんの肩が——びくっと動いた。




「知ってるよ。——全部」




「…………」




「あんたが何人送り出したかも。帰ってこなかったことも」




 シチューの湯気が二人の間を漂っている。




「——あんたも、ごはん食べてなかったんやろ」






◆グレイヴス視点




 ——何を。




 何を言われた。




 「知ってる」と——そう言った。


 47人を送り出したことを。帰還者がゼロであることを。




 叱責が来ると思った。


 「よう子どもをそんな目に遭わせたな」と。


 当然だ。それが正しい。




 だが——違った。




 「あんたも、ごはん食べてなかったんやろ」




 なぜ——。


 なぜ、そこに気づくのだ。




 私は大司教である。子どもを送り出した側の人間である。加害者なのだ。


 なのに、なぜ——「あんたも」と言う。




 「あんたも」。




 ——も。




 子どもたちと同じ「も」なのか。


 子どもたちが食べていなかったように、私も——と。




 パンと水と薄いスープ。50年間。それが正しいと信じた。質素は美徳だと。


 孤児院では——パンの耳と水。それが全てだった。




 温かい食事の記憶がない。




 一度も——ない。




「…………」




 手が——震えている。止まらない。




 スプーンを取ろうとした。持てなかった。指が——言うことを聞かない。




「……私も」




 声が——出た。壊れかけた声が。




「……私も……食べて、いいのか」






◆よしこ視点




 ——来た。




 この言葉が来た。




「私も、食べていいのか」って。




 58歳の大人が。白と金の大司教服を着た、教会のてっぺんにおる人が。


 シチュー一杯を前にして——「食べていいのか」って聞いとる。




 入園式の朝、園の門の前で動けへんかった子と同じ目や。


 「ここにいていいの?」って聞いてくる子と、同じ目。




 保育士40年。何百回聞いてきた言葉や。


 「食べていい?」「遊んでいい?」「ここにいていい?」




 答えはいつも同じ。




「当たり前やろ」




 グレイヴスさんの鉄色の目が——見開かれた。




「あんたも、しんどかったんやな」




「…………」




「誰も帰ってこんかったんやもんな。送り出して、送り出して。——しんどかったやろ」




「——私、は」




「ごはん食べ(^^)」




 シチューの器をそっと押した。グレイヴスさんの手の前に。




「泣いてもええから(^^)」






◆グレイヴス視点




 崩壊した。




 58年間。


 積み上げてきた。一つ一つ、石を積むように。「これが正しい」と。「秩序が世界を守る」と。「犠牲は必要だ」と。


 石を積んだ。自分の心を壁の中に閉じ込めるように。


 孤児院の記憶を。パンの耳の味を。隣の子が帰ってこなかったことを。自分が選ばれなかったことを。


 全部、壁の内側に。




 「私は間違っていない」。




 そう言い続けた。58年間。




 だが——。




 「あんたも、しんどかったんやな」。




 その一言で——壁が。


 石が。


 58年分の「正しさ」が。




 崩れた。




「…………っ」




 涙が——出た。




 止められなかった。




 大司教の目から涙が落ちた。テーブルの上に。シチューの器の横に。木の板の上に——一滴、二滴。




 声が出ない。声にならない。


 口が開いているのに、言葉にならない。




 肩が震えている。


 白と金の大司教服の肩が——揺れている。








 食堂が——静かだ。




 誰も声を出さない。


 スプーンの音もしない。椅子を引く音もしない。




 レオンが——見ている。緑の目。怒りがある。だが——それだけではない。あの少年の目に、何かが混ざっている。


 シオンが——見ている。灰色の目が揺れている。拳が——少しだけ、緩んでいた。


 ミーナが——見ている。水色の目が。泣いていない。ただ——見ている。




 涙が止まらない。




 テーブルの上に落ちる。ぽたり、ぽたり。木の板に染み込んでいく。




 58年分の涙が——止まらない。






◆グレイヴス視点




 スプーンを——取った。


 手が震えている。木のスプーンが指の中で揺れている。




 シチューをすくった。ニンジンが半分と、スープ。


 口に——運んだ。




「…………」




 温かい。




 舌の上に——温かさが広がった。


 ニンジンが柔らかい。噛まなくても崩れるほど、煮込まれている。スープが——濃い。旨味がある。パンと水だけの50年間には存在しなかった味。




 もう一口。


 ジャガイモ。ほくほくしている。——こんな食感を知らなかった。


 鶏肉。柔らかい。歯を立てると、肉汁がじわりと出る。




 涙が——止まらないまま、食べている。


 スプーンが震えたまま、口に運んでいる。




「……温かい」




 それしか言えなかった。




「……温かい」




 繰り返した。


 他の言葉が見つからなかった。58歳の大司教が。あらゆる教義を暗唱できる舌が。荘厳な説教で信者を導いてきた声が。




 「温かい」しか——言えない。






◆よしこ視点




 グレイヴスさんが——食べとる。


 泣きながら。震えながら。


 「温かい」しか言えんくて。




 ——ええよ。


 それでええ。




 シチューは特別なもんやない。いつものやつ。ニンジンとジャガイモと玉ねぎと鶏肉。大きく切って、じっくり煮込んだだけ。毎日みんなに出してるのと同じやつ。




 特別やない。


 でもな——この人にとっては、特別なんや。




 50年間、パンと水しか知らんかった人に、シチュー一杯が。


 それが——「特別」になる。




 レオンくんが来た日もそうやった。リーゼちゃんが初めておかわりした日もそうやった。シオンくんが「もう一杯」って言った日もそうやった。




 全部——同じシチューや。




 でも、全部——特別やった。




 グレイヴスさんの肩が揺れとる。涙がテーブルに落ちとる。スプーンが震えとる。


 でも——食べとる。




「…………」




 食堂を見渡した。




 レオンくんが——腕を組んで黙っとる。怒りはある。簡単に許せることやない。でも——目を逸らしてへん。


 シオンくんの拳が——開いた。


 ミーナちゃんが——目を閉じた。静かに。祈るみたいに。


 ガルくんが——泣いとる。声を出さずに。大きな肩が揺れとる。この子、誰かが泣いとるともらい泣きするんよな。


 トールくんも目が赤い。ガルくんの隣で。


 リーゼちゃんがカップを握っとる。指が白い。何か堪えとるんやろ。


 ヴェルちゃんは微動だにせえへん。でも——目を閉じとる。


 ドルガが「フン」と息を吐いた。でも——視線を外してへん。


 メルちゃんが——茶を飲んどる。何もかも見てるな、この子は。


 ティアちゃんが——皿を抱えたまま立っとる。尻尾がぴんと立っとる。


 ピプが——よしこの後ろに隠れとる。小さい手がわてのローブを掴んどる。


 カインくんが——隣で、背筋を伸ばしとる。この人は——グレイヴスさんのこと、一番近くで見てきたんやろな。




 みんなが——見とる。


 グレイヴスさんが泣いとるのを。食べとるのを。




「…………」




 ——ええ景色やな。




 いや、ええ景色ではないかもしれん。


 泣いてる人がおって、怒ってる子がおって、複雑な顔しとる子がおって。




 でもな。


 全員——ここにおる。


 同じ食堂で。同じテーブルの周りに。




 それでええんや。






◆グレイヴス視点




 器が——空になった。


 いつの間に。シチューが。全部。




 スプーンで器の底をこすっている。もう何もないのに。




 涙はまだ止まらない。




「……ごちそう、さまで……」




 声が——途切れた。




 「ございました」が言えなかった。喉が詰まって。




 顔を上げられない。テーブルの上を見ている。涙の跡がいくつもある。木の板に染み込んでいる。




「おかわり、いる?」




 魔王の声が聞こえた。穏やかな声。




「…………」




「あるで(^^) 鍋にまだ残っとるから」




「…………」




 頷いた。


 言葉が出なかったから——ただ、頭を動かした。




 器が引き取られた。すぐに——温かいシチューが注がれた器が戻ってきた。湯気が立ち上った。




 二杯目。




 スプーンを取った。手は——まだ震えている。だが——さっきより少しだけ、安定していた。




「…………」




 食べた。


 泣きながら。




 温かかった。






◆よしこ視点




 グレイヴスさんが二杯目を食べとる。




 泣きながら。


 でも——さっきより、少しだけ背筋が伸びとる。




 わてはこの人のこと、許すとか許さへんとか——そういうんやないんよ。


 この人がやったことは、あかんことやった。子どもを使い捨てにしたんは、絶対にあかん。


 でもな。




 この人も——食べてなかったんや。




 パンと水だけで50年。孤児院でパンの耳を食べて育った子どもが、大人になって、大司教になって、それでもまだ——パンと水しか知らんかった。


 温かいシチューを一杯も飲んだことがない58歳って——それはもう、「大人」やない。




 わての目には——この人も。




 まだ、園の門の前で立っとる子に見えるんよ。


 8歳の男の子が、教会の門の前で。「入っていいの?」って顔で。




 58歳になっても——ずっと、門の前におったんやな。


 入れへんまま。温かいもの食べへんまま。




「(^^)」




 笑った。いつもの笑顔で。




 レオンくんが来た日も。リーゼちゃんが来た日も。シオンくんが来た日も。


 やることは——同じ。




 ごはんを出す。


 「食べ」って言う。


 「泣いてもええ」って言う。




 それだけ。




 魔王でも保育士でも——やることは同じや。






◆グレイヴス視点




 二杯目を食べ終えた。




 涙は——まだ出ている。だが、もう嗚咽はない。静かに、頬を伝って落ちている。




 顔を上げた。




 食堂を——見た。




 レオンが——視線を合わせた。緑の目。怒りが——ある。消えてはいない。だが。




「……フン」




 レオンが——目を逸らした。




 それだけだった。許したわけではない。許す必要もない。だが——「同じ食堂にいること」を、拒否しなかった。




 シオンが——私を見ている。




「…………」




 灰色の目。かつて私が「完璧」に磨き上げた目。今は——違う。


 あの目に、色がある。怒り。悲しみ。そして——何か別のもの。名前のつけられない何か。




 シオンが——口を開いた。




「……大司教」




「…………」




「……俺は。——自分で、選びました」




 一人称が——変わっていた。「自分」ではなく。




「…………」




 言葉が出なかった。


 「すまなかった」では足りない。「許してくれ」とは言えない。


 何も——言えなかった。




 ただ——頭を下げた。深く。テーブルに額がつくほど。




「…………」




 食堂が——静かだった。






◆よしこ視点




 グレイヴスさんが頭を下げとる。


 シオンくんが、それを見とる。




 シオンくんの横で——ミーナちゃんが、小さく頷いた。


 トールくんが——目を赤くしたまま、まっすぐ前を見とった。




 子どもたちは——強いなぁ。




 簡単には許せへん。許さんでもええ。でも——「同じ場所にいる」ことを選んだ。


 それだけで、十分や。




「グレイヴスさん」




 頭を下げたままの背中に声をかけた。




「頭、上げ(^^)」




「…………」




「シチュー冷めるで。——まだ鍋にあるから。三杯目、いる?」




「…………」




 グレイヴスさんが——頭を上げた。


 鉄色の目が——赤かった。腫れとった。白と金の大司教服の襟が涙で濡れとる。


 58歳の顔が——今は、ずっと年上にも、ずっと年下にも見えた。




「……いただき、ます」




 小さい声で言った。




「はい(^^)」




 三杯目を注いだ。




 シチュー。いつもの味。特別やないシチュー。


 でも——温かい。




 それでええ。





最後まで読んでいただきありがとうございました。


第82話「グレイヴスの涙」。作品全体で最も書きたかったシーンの一つです。


グレイヴスは58歳です。大司教です。教会のてっぺんにいる人です。子どもたちを「勇者」として送り出し、一人も帰ってこなかった——その張本人です。


でも、よしこの目に映ったのは「大司教」ではありませんでした。


よしこは叱る前に「しんどかったんやな」と言いました。


許す/許さないの前に、「あんたもごはん食べてなかった」と見抜きました。これは保育士の技術です。40年間、子どもを見てきた人の目です。食べていない人がわかる。門の前で動けなくなっている人がわかる。入園式の朝、園の門の前で立ち尽くしている子どもと同じ目をしていることが——わかる。


グレイヴスも孤児でした。パンの耳と水で育ち、教会で「質素は美徳」と教えられ、50年間パンと水で生きてきた人です。温かいシチューを一杯も飲んだことがなかった。


シチューは特別なものではありません。いつもの味です。レオンに出したのも、リーゼに出したのも、シオンに出したのも、同じシチューです。「いつもの」が「特別」になる——それが、この物語のすべてだと思います。


そしてレオンは許していません。許す必要はありません。「同じ食堂にいることを拒否しなかった」——それだけで十分です。シオンの一人称が「俺」に変わっていたこと、気づいていただけましたか。


次回、第83話「卒園式」。この作品最大の泣き回です。


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