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魔王(よしこ62歳)と勇者パーティ  作者: 歩人
Arc4: 聖教会の子どもたち

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第69話: シオンの名前

◆シオン視点




 鍛錬を終えた。


 中庭の隅。素振り200回。教会で決められた回数。——決められた、回数。




 剣を鞘に収めた。


 汗が首筋を伝う。腕が重い。だが痛みはない。痛みは教会で消す訓練をした。痛みを感じるな。疲労を見せるな。常に万全であれ。


 ——そう、教えられた。




「……」




 中庭の花壇が目に入った。


 よしこが作ったもの。土がまだ新しく、柔らかい。花はまだ咲いていない。だが種が埋まっている——と、ヴェルザが言っていた。




 自分は——花を育てたことがない。


 教会にも庭はあったが、自分たちが触れる場所ではなかった。




 風が吹いた。汗が冷えた。


 ——食堂に向かった。






◆レオン視点




 夕飯の後。


 食堂にはもう誰もいなかった。ティアが皿を片づけて、ガルドが厨房を閉めて、リーゼは図書室に行った。


 俺はテーブルに突っ伏していた。腹が膨れると眠くなる。よしこのシチューは罪深い。




「……レオン殿」




 声がした。


 顔を上げた。




 シオンが——入口に立っていた。




 白い鎧は脱いでいる。シンプルな麻のシャツと黒い袴。教会で支給された服だが、ここに来てからは鎧を脱いでいることが増えた。


 ——まだ、あの完璧な姿勢は変わらないが。




「……なんだ」


「少し——お時間をいただけますか」


「別にいいけど。座れよ」




 シオンが——向かいの椅子に座った。


 背筋がまっすぐ。膝の角度が90度。両手は太ももの上。


 ——軍人だな、と思う。いつも思う。




「……何か飲むか」


「いえ、結構です」


「水くらい飲め」




 立ち上がって、棚からコップを二つ出した。水差しから注いだ。シオンの前に置いた。




「……ありがとうございます」




 シオンが——コップを両手で持った。


 飲まない。水面を見ている。




「……で?」




 聞いた。




「……レオン殿」


「ああ」




 シオンが——少し間を置いた。




「レオン殿は——いつから『俺』になったのですか」






◆シオン視点




 聞いた。


 ずっと——聞きたかった。




 レオン殿は「俺」と言う。粗暴で、ぞんざいで、ぶっきらぼうな一人称。


 教会では使わない言葉だ。訓練生は「自分」を使うよう指導される。個を消すための一人称。「自分」は個人ではなく、機能を指す。「自分は任務を遂行します」——そう言う時の「自分」には、名前がない。




 レオン殿の「俺」には——名前がある。




「いつから、か」




 レオン殿が——腕を組んで、天井を見た。




「覚えてねぇな」


「……覚えていない、のですか」


「ああ。たぶん——最初からだろ。孤児院にいた時から。誰に教わったわけでもねぇし」




 首を傾げた。記憶を探しているようだった。




「いや——待てよ。最初はなんて言ってたかな。ガキの頃は『僕』とか言ってたかもしれねぇ。覚えてねぇけど」


「……では、いつ変わったのですか」


「だから覚えてねぇっつーの」




 レオン殿が——少し笑った。




「たぶんよしこのシチュー食った後だな」


「……シチューですか」


「ああ。あの城に来て、シチュー食って——なんか、力が抜けた。それまでは肩に力入れて『俺は勇者だぞ!』って言ってたけど。シチュー食ったら——別に、勇者じゃなくてもいいかって」




 コップの水を飲んだ。一口。




「『俺』って言い方自体はずっと前からだけど。——意味が変わったのは、ここに来てからだな」


「……意味が、変わった」


「ああ。前の『俺』は——鎧みてぇなもんだった。強がりの一人称。俺は勇者だ、俺は負けない、俺は一人でもやれる——そういう『俺』」




 レオン殿が——コップを置いた。




「今の『俺』は——ただの俺。勇者とか関係ねぇ。飯が美味いとか、眠いとか、ガルドのパンが焼きたてだと嬉しいとか。そういう俺」




 ……。




「……自分は」




 口を開いた。


 言葉が——出てこなかった。




「自分は——教会で『自分』を使うよう訓練されました。個を消すための一人称だと」


「……ああ」


「自分以外の——一人称を、使ったことがありません」




 コップの水面が——自分の顔を映していた。灰色の目。表情のない顔。




「……自分は、自分が誰なのかわかりません」






◆レオン視点




 シオンが——下を向いていた。


 灰色の目が、水面を見ている。




 こいつは——俺の「もしも」だ。


 教会がちゃんと育てた勇者。剣術は完璧。魔法も使える。任務遂行能力は俺の比じゃない。


 だが——心を殺されている。




「好きに呼べよ」




 言った。




「……好きに」


「ああ。自分でも俺でも僕でも——好きなやつを選べ」


「……選ぶ、ですか」


「お前の口から出てくる言葉は、お前のもんだろ。教会のもんじゃねぇ」




 シオンが——俺を見た。




「……レオン殿は、選んだのですか」


「選んだっつーか——気がついたら『俺』だった。たぶんそういうもんだ。考えて決めるもんじゃねぇ」




 頭を掻いた。




「……ま、焦んなくていい。ここは教会じゃねぇし。誰もお前に『自分と言え』とは言わねぇ」




 シオンが——黙った。


 しばらく。




「……ありがとうございます」




 小さい声だった。






◆シオン視点




 夜が更けた。


 レオン殿が「腹減んねぇか」と言った。




「……少し」


「おにぎり握るか。台所、使っていいってよしこが言ってたし」




 厨房に移動した。


 夜の厨房は静かだった。かまどの残り火がぼんやりと赤い。ガルド殿が明日の分の小麦粉を量って置いている。棚には調味料が並んでいる——よしこ殿が一つ一つにラベルを貼った。ひらがなで「しお」「さとう」「みそ」。




「米はここだ。水はそこ」




 レオン殿が棚を開けた。炊いた米が保温されている。夜食用に残してあるやつだ。よしこ殿が「夜中に食べたなったら、ここにあるからな(^^)」と言っていた。




「塩」




 レオン殿が手を濡らして、塩をつけて、米を掴んだ。


 握り方は——雑だった。大きさも形もバラバラ。三角にしようとして楕円になっている。




「…………」




 自分も——手を濡らした。塩をつけた。米を掴んだ。


 教会で習った。食事の準備は訓練の一環だった。効率的に、均等に、無駄なく。




 握った。三角形。角が均等。大きさが統一。表面が滑らか。




「……」




 レオン殿が——自分のおにぎりを見た。




「お前の握り方、教会仕込みだな」


「……はい」


「綺麗すぎる」




 並べた。レオン殿のおにぎりと、自分のおにぎり。


 ——明らかに違う。レオン殿のは不揃いで、角が丸くて、塩が偏っている。自分のは均等で、角が立っていて、塩が均一。




「……握り方に正解はないのですか」


「ねぇよ」




 レオン殿が即答した。




「よしこのおにぎりなんか、もっとゆるいぞ。ピプに言わせると『ちょっとゆるいの。でもそれがいいんだよ!』だとさ」


「……ゆるくても、いいのですか」


「いいんだよ。食えりゃいい」




 レオン殿が——自分の不格好なおにぎりを持ち上げた。




「綺麗に握れるのはすげぇよ。でも、綺麗じゃなきゃダメってわけじゃねぇ」




 かじった。


 もぐもぐ食べた。




「……うん。塩が偏ってて、ここだけしょっぱい。——まぁいい」




 自分も——おにぎりをかじった。


 完璧な三角形。均一な塩加減。教会で訓練された通りの握り方。


 ——美味しい。美味しいのだが。




 レオン殿の不格好なおにぎりを見た。




「……一つ、いただけますか」


「ん? ああ。好きに取れ」




 レオン殿のおにぎりを手に取った。崩れそうなほどゆるい。角がない。塩が偏っている。


 かじった。




「…………」




 しょっぱいところと、薄いところがある。形が不安定で、持つと少し崩れる。


 ——でも。




「……美味しいです」


「だろ」




 レオン殿が——笑った。




「不格好でも美味いもんは美味い。——おにぎりも、一人称も、たぶん同じだ」




 ……。




「……同じ、ですか」


「たぶんな。——まぁ、おにぎりに聞いてくれ」




 レオン殿が——残りのおにぎりを頬張った。


 自分も——もう一口食べた。レオン殿の、不格好なおにぎりを。








 厨房を出た。


 廊下で別れた。




「おやすみ」


「……おやすみなさい、レオン殿」




 レオン殿が手を振って、部屋に向かった。


 ——自分は、自分の部屋に向かった。






◆シオン視点




 部屋に戻った。


 扉を閉めた。鍵はかけない。教会では鍵をかけなかった——いつでも査察に応じられるように。


 ……ここでは、鍵をかけてもいい。ティア殿が「鍵、お使いくださいね」と言っていた。




 鍵をかけた。


 小さな金属の音がした。




 部屋の隅に——鏡がある。


 全身が映る大きさの鏡。ティア殿が「身だしなみ用に」と置いてくれたもの。




 鏡の前に立った。




 灰色の目。黒髪。表情のない顔。教会の下着の上に、魔王城の寝間着を着ている。よしこ殿が「パジャマないの? ほな、これ着き(^^)」と渡してくれた、少し大きい麻の寝間着。




 ——鏡の中の自分を見た。




「……俺」




 声に出した。


 小さな声。部屋の中にだけ響く声。




「…………」




 違和感がある。


 口の形が慣れていない。「お」と「れ」。二文字。たった二文字なのに、舌が拒む。




 もう一度。




「……俺」




 鏡の中の——自分が、口を動かしている。


 灰色の目は変わらない。表情も変わらない。


 でも——「自分」と言った時と、何かが違う。


 「自分」は——機能の名前だ。


 「俺」は——。




「……俺は」




 続きが出てこなかった。


 「俺は」の後に何を言えばいいのかわからない。「自分は任務を遂行します」なら言える。「自分はシオンです」なら言える。


 「俺は」——何だ。




 口を動かした。続きを探した。




「……俺は——腹が、減った」




 嘘だ。さっきおにぎりを食べた。でも——言えた。「俺は」の後に、言葉が続いた。




「……俺は——パンが好きだ」




 ガルド殿のパン。朝、焼きたてが食堂に並ぶ。——好きだ。教会では「好き」も訓練で消された。




「……俺は」




 鏡を見た。


 鏡の中の自分が——見返している。




「……俺は——シオンです」




 敬語が混ざった。「俺」と「です」は合わない。レオン殿なら「俺はレオンだ」と言うだろう。


 ——でも。


 今の自分には、これが精一杯だ。




 ……悪くない。




 鏡から目を離した。


 窓の外に月が出ていた。




 寝台に腰かけた。


 よしこ殿の寝間着が——少し大きい。袖が手の甲まで覆っている。


 教会の寝間着は体にぴったりだった。余計な布は許されなかった。合理的で、機能的で、無駄がない寝間着。




 ——この寝間着は、少し大きい。


 でも。




 袖をぎゅっと握った。




 ……悪くない。






◆レオン視点




 翌朝。


 食堂。




 シオンがいつもの席に座っていた。背筋がまっすぐ。膝の角度が90度。スープを静かに飲んでいる。


 ——いつもと変わらない。




「おはよ」


「……おはようございます、レオン殿」




 向かいに座った。よしこが「はいはい、レオンくんのスープ(^^)」と皿を置いた。ニンジンの甘い匂い。




 食べた。美味い。いつも美味い。




「……レオン殿」




 シオンが——スプーンを置いた。




「ん?」


「昨夜の——おにぎりの話ですが」


「ああ」


「……自分は——」




 一瞬、止まった。昨夜の鏡の前が——口に残っている。あの二文字の感触が。




「……俺は——」




 ——。




 シオンが——自分の口を押さえた。




「……いえ、自分は」


「今、俺って言ったな」




 シオンの灰色の目が——わずかに揺れた。




「……言いました」


「……」




 笑った。声は出さなかった。




「——いいじゃん」




 シオンが——俺を見た。


 表情は変わらない。灰色の目も変わらない。




 でも——耳が、少しだけ赤かった。




「……ありがとうございます」


「別に。俺は何もしてねぇ」




 スープを飲んだ。


 シオンもスープを飲んだ。


 よしこが奥から「おかわりあるでー(^^)」と言った。




「……レオン殿」


「ん」


「……おにぎりは——不格好でもいいと、昨夜言いましたね」


「ああ」


「……一人称も——不格好でも、いいですか」


「いいに決まってんだろ」




 シオンが——下を向いた。


 スープの湯気が顔にかかっている。




「……自分は——まだ、『俺』に慣れません。ですが」


「ああ」


「——悪くないと。そう、思いました」




 俺は——おかわりを頼んだ。




「よしこー、もう一杯」


「はいはい(^^)」




 シオンのスープも——少し減りが早かった。





最後まで読んでいただきありがとうございました。


第69話「シオンの名前」。


一人称の話です。日本語には「俺」「僕」「私」「自分」「わたくし」「あたし」「うち」「わし」——数えきれないほどの一人称があって、それぞれに色がある。シオンが教会で訓練された「自分」は、色を消すための言葉でした。個人を消して、機能だけを残す。「自分は任務を遂行します」の「自分」には、シオンという名前がない。


レオンの「俺」は最初、強がりの鎧でした。孤児院で一人で生きていくために被った、粗暴な一人称。でもよしこのシチューを食べて、力が抜けて、鎧が外れた。今の「俺」は——ただのレオン。飯が美味い、眠い、パンが焼きたてだと嬉しい。そういう「俺」。


おにぎりの場面は、一人称のメタファーとして書きました。教会仕込みの完璧なおにぎりと、レオンの不格好なおにぎり。どちらも「おにぎり」で、どちらも美味しい。正解はない。——一人称も同じ。「俺」でも「自分」でも「僕」でも、それがシオンの口から出た言葉なら、それがシオンの一人称です。


鏡の前で「俺」と言ってみるシオン。まだ違和感がある。でも——「悪くない」。大きな変化じゃなくていい。劇的な覚醒じゃなくていい。夜中に一人で、鏡の前で、たった二文字を試してみること。それが、シオンにとっての最初の一歩です。


次回、第70話「花壇」。先代魔王の遺言「花を植えたかった」を、よしこが叶えます。


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