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魔王(よしこ62歳)と勇者パーティ  作者: 歩人
Arc4: 聖教会の子どもたち

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第68話: ミーナが泣く日

◆ミーナ視点




 何でもない午後だった。


 窓から風が入ってくる。本のページがぱらり、とめくれる。リーゼ殿の部屋。いつもの椅子。いつもの場所。




 テーブルの上に——お茶が二杯。


 今日はよしこ様が「はい、おやつ(^^)」と蜂蜜のビスケットを持ってきてくれた。小さな皿に四枚。二人分。




「ごゆっくり(^^)」




 よしこ様はそれだけ言って、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。足音が廊下を遠ざかる。




 静かになった。




「…………」


「…………」




 いつもの沈黙。


 わたしとリーゼ殿の、何でもない時間。教会では許されなかった沈黙。ここでは怒られない沈黙。




 お茶を飲んだ。ぬるくなる前の、ちょうどいい温度。


 リーゼ殿がビスケットを一枚取った。小さく噛んだ。




「……蜂蜜、多い」


「よしこ様、甘いのがお好きですから」


「……甘すぎる。——でも、美味しい」




 リーゼ殿は矛盾したことを平気で言う。




 わたしもビスケットを取った。一口齧かじった。


 甘い。蜂蜜の味が口の中に広がる。教会では——甘いものは、なかった。食事は栄養のためにある。味は二の次だと教わった。




 もう一口齧った。——美味しい。








 風が吹いた。


 本のページがまためくれた。リーゼ殿が指で押さえた。




「……ミーナ」


「はい」


「……今日、静かだね」




 いつも静かだ。——でも、そうじゃない。リーゼ殿が言っているのは、たぶん、わたしの中のことだ。


 いつもなら「お手伝いできることはありますか」とか「今日のお食事は何でしょうね」とか、何か言う。言わないと落ち着かないから。言わないと——怒られる気がするから。




 でも今日は——言葉が出てこなかった。




「……少し、考え事を」


「……そう」




 リーゼ殿はそれ以上聞かない。


 お茶を飲んだ。カップを置いた。静かに待っている。




 ——待って、くれている。




「…………」




 窓の外を見た。中庭が見える。よしこ様が数日前に作り始めた花壇がある。まだ土だけだ。何も咲いていない。




 わたしの中にも——何も咲いていない。ずっと。




「……リーゼ殿」




 声が出た。自分でも驚いた。




「……ん」




「わたし——教会の話を、してもいいですか」




 リーゼ殿が——わたしを見た。薄い青の目が、まっすぐこちらを向いている。




「……うん」




 短い。いつも通り。


 でも——その一言が、蓋を開けた。








 笑っていた。


 わたしは——笑いながら、話していた。いつもの微笑み。教会で教わった「正しい表情」。




「6歳の時に、引き取られました」




 声は穏やかだ。よく通る声だ。報告するように。




「孤児院にいたんです。父も母も知りません。教会の方が来て、『回復魔法の才能がある』と。それで——引き取られました」




 リーゼ殿がお茶のカップを両手で包んでいる。黙って聞いている。




「毎日、訓練しました。回復魔法の訓練。朝から晩まで。傷を治す。病を治す。疲労を回復する。——それがわたしの仕事でした」




 笑っている。わたしは笑っている。正しい表情だ。




「それから——表情の訓練もありました」




 リーゼ殿の指が——カップの縁で止まった。




「笑顔でいなさい、と教わりました。支援役は常に穏やかであれ。勇者殿が不安にならないように。隊のために——笑いなさいと」




「…………」




「泣いてはいけない。怒ってはいけない。悲しんではいけない。それは——任務に支障が出るから」




 笑っている。ちゃんと笑えている。——大丈夫。




「泣いたら——怒られました。『なぜ泣くのか。泣いて何になる。泣く暇があるなら訓練しなさい』と」




 リーゼ殿が——動かない。




「最初の頃は、夜に泣きました。布団の中で。声を殺して。でも——見つかると怒られるので。だんだん泣かなくなりました」




 声が——穏やかだ。報告だ。事実の報告。




「8歳の頃には——もう泣かなくなっていました。泣き方を——忘れた、のかもしれません」




 笑っている。




「10歳の時に、同期の子が一人——任務中に亡くなりました」




 リーゼ殿の息が——一瞬、止まった気がした。




「悲しかった——と思います。たぶん。でも、顔は笑っていました。教官に『よく耐えたな、ミーナは強い子だ』と言われました。褒められました」




 笑っている。正しい。褒められた。強い子だ。




「それから——もっと笑うようになりました。笑っていれば褒められるので。笑っていれば怒られないので。笑っていれば——捨てられないので」




 お茶のカップを持った。




 ——手が、震えていた。




「シオン隊長が来た時も——笑いました。『よろしくお願いいたします』と。シオン隊長は何も言いませんでした。わたしの笑顔を——疑いもしませんでした。完璧だったから」




 カップが揺れている。中のお茶が——波打っている。




「ここに来てから——よしこ様に『大丈夫? 無理してへん?』と聞かれた時——」




 声が、




「——おかしいって、思ったんです。なんで。なんで初めて会った人に——そんなこと聞かれるんだろう、って」




 少し、




「教会で8年間——誰も聞いてくれなかった言葉を——」




 震えている。




「よしこ様が——初日に——」




 カップが——傾いた。


 お茶がこぼれた。テーブルの上に、温かいお茶が広がった。




「あ——すみません、すみません——」




 慌てて拭こうとした。手が震えている。うまく拭けない。教会だったら——こぼすなんて失格だ。罰が——




「…………」




 リーゼ殿が——立ち上がった。


 黙って。


 テーブルの上のお茶を——布で拭いた。わたしの手の甲にかかったお茶も——そっと拭いた。




 何も言わなかった。




 ミーナのカップに——リーゼ殿のお茶を半分、注いだ。




「…………」




「……続けて」




 短い。


 それだけ。








 続けた。




「わたし——ずっと笑っていました。ここに来てからも。よしこ様が優しくしてくれても——笑うしかできなくて」




 笑っている。今も。顔の筋肉が——勝手にそう動く。14年間繰り返した動作。体が覚えている。




「リーゼ殿に——『泣きたい時に泣きそうになるのは普通』と言っていただいた時——」




 あの日。この部屋。この椅子。同じ場所で。




「普通、って——言われたのが——」




 笑っている。笑っている。笑って——




「わたし——」




 声が割れた。




「笑っていなさいって言われて……」




 笑っている。まだ笑っている。口角が上がっている。教会が教えた通りに。




「泣いたら怒られて……」




 目から——水が出た。




 笑っている。笑顔のまま。口は笑っているのに——目から水が流れている。




「でも……でも……っ」




 止まらない。


 目の奥から——熱いものが押し寄せてくる。14年分。8歳の夜に押し込めたもの。10歳の時に蓋をしたもの。12歳で忘れたふりをしたもの。




 全部——全部、今——




「わたし——わたし——ほんとは——」




 笑顔が——崩れかけている。でも崩れきれない。口角が痙攣けいれんしている。上がろうとする力と、下がろうとする力がぶつかっている。




 涙が——笑顔の頬を伝って落ちた。




「ほんとは——ずっと——さみしかった——」






◆リーゼ視点




 ミーナが——泣いていた。


 笑顔のまま。




 口は笑っている。教会が教えた通りの微笑み。でも目から涙が止まらない。頬を伝って、顎を伝って、テーブルの上にぽたぽた落ちている。




 さっき拭いたばかりのテーブルが、また濡れていく。




 ——私には、わかる。


 壊したいのに壊せないもの。やめたいのにやめられない癖。


 私は「食べなくても平気」がそれだった。お腹が空いているのに空いてないふりをする体。よしこに「食べなさい」と言われるまで——自分では止められなかった。




 ミーナは——「笑う」がそれだ。




「わたし……笑っていなさいって言われて……泣いたら怒られて……でも……でも……っ」




 ミーナの声が、どんどん小さくなっていく。震えている。でも——笑顔がまだ残っている。必死にしがみついている。14年間の鎧。




 私は——何も言えなかった。


 気の利いたことなんか、言えない。ガルドなら「大丈夫だよ」と言うだろう。よしこなら「泣いてええんやで(^^)」と言うだろう。レオンなら——何も言わないで隣にいるだろう。




 私は——私の言葉しか持っていない。




「…………」




 ミーナを見た。


 笑顔で泣いている。涙が止まらないのに、口角が上がっている。壊れかけた人形みたいに。




 ——壊れていい。




「泣いていいよ」




 言った。




「——ここ、誰も怒らないから」




 短い。これだけ。私にはこれしか言えない。


 でも——これだけでいい。




 ミーナの笑顔が——




 止まった。




 口角が——ゆっくり——下がった。




 14年間持ち続けた「正しい表情」が——たった一言で——崩壊した。




「…………ぁ」




 声にならない声。


 目が大きく見開かれて——涙がぼろぼろ溢れた。笑顔じゃない涙。初めて見る——ミーナの本当の顔。




「あ……あ、あぁ……っ」




 ミーナが——両手で顔を覆った。


 肩が震えている。小さな体が丸くなっている。声を殺そうとしている——教会の癖だ。




「——声、出していい」




 言った。


 ミーナが——顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃだ。鼻も赤い。14歳の顔だ。ただの——14歳の女の子の顔。




「っ——ぅ、あ……あぁぁ……っ」




 泣いた。


 声を上げて。8歳の夜に殺した声。10歳で捨てた涙。12歳で忘れた感情。




 全部——今、この部屋に溢れている。




「うあぁぁぁぁ……っ!」




 声が——大きくなった。


 もう抑えていない。抑える力が残っていない。14年分の涙は——止め方を知らない。




 私は——何もしなかった。


 背中をさすったりしなかった。「大丈夫」とも言わなかった。


 ただ——座っていた。同じ部屋に。同じテーブルで。




 テーブルの上のお茶が冷めていく。ビスケットが三枚残っている。窓から風が入ってくる。本のページがぱらり、とめくれる。




 何でもない午後。


 ただ——泣いているだけの午後。




「…………」




 ミーナが泣いている間、私はお茶を飲んだ。


 冷めたお茶。——別に、冷めても飲める。




 ミーナの泣き声が——少しずつ、小さくなっていった。








 どれくらい経ったかわからない。


 窓の外の光が——少しだけ傾いていた。




 ミーナが——顔を上げた。


 目が真っ赤だ。鼻も赤い。頬が涙の跡で光っている。




「……ごめん、なさい……取り乱して……」


「取り乱してない」




 前にも——同じことを言った。




「泣いただけ。——普通」




 ミーナが——また泣きそうな顔をした。でも今度は——笑顔じゃなかった。泣きそうな顔が、ちゃんと泣きそうな顔をしていた。




「……リーゼ殿……」


「……ん」


「……ありがとう、ございます」




 声がかすれていた。泣きすぎて。




「……別に。何もしてない」


「聞いてくれました。——ここにいてくれました」


「…………」




 ——それだけなのに。


 ミーナにとっては——それだけのことが、なかったのだ。8年間。




「……また明日も——お茶しよう」




 言った。いつもと同じ言葉。




 ミーナが——頷いた。


 泣いた後の顔で。赤い目で。鼻をすすりながら。




「……はい」




 それは——教会の「はい」じゃなかった。


 任務報告の「はい」じゃなかった。




 ただの——「はい」だった。






◆ミーナ視点




 廊下に出た。


 目が——熱い。腫れている。たぶん、ひどい顔をしている。




 教会なら——こんな顔で歩いたら叱られる。「支援役は常に穏やかであれ」。泣いた顔を見せるなんて——




「ミーナちゃん」




 よしこ様が——廊下の角に立っていた。


 湯気の立つカップを二つ、盆に載せている。




「お茶のおかわり持ってきたで(^^) 二人ともまだ——」




 よしこ様の目が——わたしの顔を見た。


 赤い目。腫れた瞼。涙の跡。




「…………」




 よしこ様が——お盆を廊下の棚にそっと置いた。




「泣いたん?」




 優しい声。怒っていない。——怒らない。




「……はい。——すみません、任務に——」


「任務なんかどうでもええよ(^^)」




 よしこ様が——わたしの前にしゃがんだ。175cmの体が低くなる。わたしの148cmと——同じ目線になる。




「よう泣けたな。えらいな(^^)」




 ——えらい。


 泣いたのに——えらい。




「…………え」


「泣けるようになったんやもん。えらいよ、ミーナちゃん(^^)」




 よしこ様の深紅の目が——笑っている。優しく笑っている。角が二本、小さく生えている。魔王の姿。でも——子どもたちに向き合うときの、あの優しい目をしている。




「……わたし、泣いたのに——えらいんですか」


「当たり前やん(^^) 泣くのは悪いことちゃうよ。——ずっと頑張ってたんやろ?」




 頑張っていた。


 8年間。笑っていた。泣かなかった。怒られないように。捨てられないように。——頑張って、いた。




「頑張ったなぁ。えらいえらい(^^)」




 よしこ様の手が——わたしの頭に、そっと乗った。


 大きい手。温かい手。




「もう頑張らんでええよ。泣きたい時は泣き。笑いたい時は笑い。——ミーナちゃんはミーナちゃんでええんやで(^^)」




 また——涙が出た。


 もう枯れたと思ったのに。リーゼ殿の部屋で全部出したと思ったのに。




「っ——」


「よしよし(^^) 泣き。いくらでも泣き」




 よしこ様の肩に——顔を埋めた。


 魔王のローブ。黒くて、少しだけよしこ様の匂いがする。蜂蜜と——パンと——お茶の匂い。


 教会の白檀の匂いじゃない。ここの匂い。




「……よしこ、さま……」


「ん?(^^)」


「……ありがとう、ございます……」


「何言うてるん(^^) 当たり前やん」




 当たり前。


 泣いてもいいのが——当たり前。




 この城では——それが、当たり前。




 涙がまた流れた。でも今度は——顔は笑っていなかった。


 泣いている時に泣いている顔ができている。——たぶん、これが普通。


 リーゼ殿が教えてくれた——普通。




「……おやつのビスケット、もう一枚もろてええ?(^^)」




 よしこ様が——泣いているわたしに聞いた。




「……っ、はい……」




 ——泣きながら、ビスケットのことを考えた。


 甘い。蜂蜜の味。美味しかった。


 もう一枚食べたい。——食べたい、と思えた。




「ほな、お茶持っていくから。三人で食べよか(^^)」




 よしこ様がお盆を持ち上げた。


 わたしは涙を袖で拭いて——よしこ様の後ろを歩いた。




 リーゼ殿の部屋に向かう廊下。窓から午後の光が差し込んでいる。




 何でもない午後。


 泣いた後の——何でもない午後。





最後まで読んでいただきありがとうございました。


第68話「ミーナが泣く日」。大きな事件は何も起きていません。お茶を飲んで、話をして、泣いた。それだけの話です。


第53話で、ミーナは「まだうまく泣けません。笑顔が癖になっていて」と言いました。リーゼは「泣きたい時に泣きそうになるのは——普通」と返しました。あれから十数話。ミーナの涙は、ようやくここで溢れました。


「笑顔のまま涙が溢れる」というシーンを書きたいと思っていました。泣いているのに口角が上がっている。教会に刻まれた14年分の「正しい表情」が、壊れたくても壊れきれない。——あの表情の崩壊を描けたなら、この話を書いた甲斐があります。


リーゼの「泣いていいよ」は短い。たった六文字です。でもリーゼは長い言葉を使わない人だから。そしてミーナにとっては、その六文字が——8年間誰にも言ってもらえなかった言葉でした。


リーゼがこのシーンで「支える側」に回っていること自体が、リーゼの成長です。かつて食べられなかった少女が、泣けなかった少女の隣で——ただ座っている。背中をさすったりしない。「大丈夫」とも言わない。ただいる。それがリーゼにできる精一杯の優しさで、それで十分なのだと思います。


次回、第69話「シオンの名前」。シオンが初めて「俺」と言います。


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