第56話: 夜を背負う者
◆ヴェルザ視点
メルが、朝食の後に声をかけてきた。
「ヴェルザ殿。少し——お時間をいただけますか」
いつもの慇懃な微笑みだが、目が違う。笑っていない。何かを見つけた時の——あの、油断のない目。
「……何だ」
「書庫で、古い文書を見つけましたの。古代魔族語の手記——リーゼ殿と解読を始めていますわ」
「古代魔族語の……手記?」
「ええ」
メルが一つ間を置いた。
それだけで——何かを察した。この女は、無駄な間を取らない。効果を狙った間だけを使う。
つまり——次の言葉に、意味がある。
「先代魔王のものと思われます」
——足が、止まった。
書庫は埃っぽかった。
メルの灯りの魔法が、薄紫の光でテーブルを照らしている。リーゼ殿が隣に座り、分析魔法の光を革装丁の冊子に当てていた。
テーブルの上に——紙が何枚も広がっている。メルの字で、解読のメモが書かれている。
「すべてを読むには、まだ時間が必要ですわ。古代魔族語の崩し字で——公式の辞書にない表現も多い。ですが、断片的にいくつかの単語は特定できました」
メルが——紙を差し出した。
解読メモ。メルの細い字。いくつかの古代魔族語の単語と、その横に現代語の訳が並んでいる。
——「夜」。「城」。「静か」。「足音」。「一人」。
「この五つの単語が、手記全体を通して繰り返し出現します。特に——『夜』と『一人』の出現頻度が高い」
リーゼ殿が淡い声で言った。
「反復パターンを分析した。日付の間隔が長くなるほど——『一人』の出現回数が増える。書く間隔が空くと……孤独を感じる頻度が上がっている」
「…………」
手記を——見た。
褪せたインク。流れるような崩し字。
——見覚えがある。
この筆跡を。この崩し方を。
「……先代は、公文書を書く時は角ばった文字を使っていた。だが——ごく稀に、私への個人的な伝言に崩し字を使われた。命令書ではなく……ただの、覚え書き。「明日は巡視」「北の砦に補給を」——そういった」
メルが——目を細めた。
「……ヴェルザ殿は、先代の崩し字を知っていらっしゃるのですね」
「300年——仕えました」
「……この筆跡は、一致しますか」
冊子に触れた。指先で——インクの跡をなぞった。触れてはいけないような気がした。触れなければならないとも思った。
「……一致する。これは先代の字だ」
リーゼ殿が——分析魔法を止めた。メルが——黙った。
書庫が、静かになった。
先代魔王ナハトレーゲン。
300年前に即位した。玉座の魔法陣が授けた真名——「夜を背負う者」。
強大な魔力。冷厳な統治。恐怖と威圧で魔族を束ね、人間との戦線を維持し続けた。
私が仕え始めた時、先代はすでに魔王だった。若い四天王の私に——先代は一言だけ言った。
「勝手にしろ」
それだけだった。指示も命令も——最小限だった。先代は玉座にいた。いつも。暗い広間に一人で座り、誰の報告も聞かず、誰を呼ぶこともなく。
私はそれを——「威厳」だと思っていた。
近寄りがたい。それが魔王というものだ。
一人でいる。それが頂点に立つ者の覚悟だ。
そう——思い込んでいた。
◆メル視点
ヴェルザ殿が——立ったまま動かなくなった。
金色の目が、手記の文字を見つめている。
「……ヴェルザ殿」
声をかけた。返事がない。
「断片的ですが——文脈から推測した箇所がありますわ。リーゼ殿と、前後の単語の並びから意味を絞り込みました」
紙をもう一枚出した。
推測を含む試訳。リーゼ殿の分析と、わたくしの古代語知識を合わせた、最善の推測。
「手記の中盤——日付の間隔が特に長い箇所があります。おそらく数十年分の空白の後——急に書き始めている。その箇所が、これです」
読み上げた。
「——『夜が、長い』」
ヴェルザ殿の肩が——動いた。
「——『城が、静かすぎる』」
金色の目が——揺れた。
「——『誰の足音も、しない』」
「…………」
ヴェルザ殿が——目を閉じた。
300年仕えた主の言葉。読めない文字の中に——ずっと書かれていた言葉。
わたくしは——黙った。リーゼ殿も黙った。
推測を含む訳文であることは、すでに伝えた。完全な解読ではない。だが——単語の配列から、大きく外れてはいないはず。
「……メル」
ヴェルザ殿が、目を開けた。金色が——濡れている。
「先代は……恐怖で統治した。誰も近づけず、誰も呼ばず。報告は書面で上がり、返答も書面だった。面会は——年に数度」
「…………」
「私は……300年間、先代のおそばにいた。四天王筆頭として。誰よりも近くにいた——はず、だった」
ヴェルザ殿が——手記に手を置いた。革の表紙の上に。大きな手が、微かに震えている。
「近くにいたのに——先代が一人で日記を書いていたことを、知らなかった。足音がしないと——書いていたことを」
声が——変わった。軍人口調が消えている。
「先代は……寂しかったのだ」
言った。
「300年仕えて——私は、気づかなかった」
書庫が静まり返った。
リーゼ殿が——俯いた。
わたくしは——何も言えなかった。慇懃な言葉も、気の利いた言葉も、出てこなかった。
◆ヴェルザ視点
夜になった。
城の廊下を歩いた。足音が——響く。
自分の足音が。革靴の、規則正しい音が。
先代の時代——この廊下は、静かだった。
夜は特に。城の中に、生き物の気配がなかった。魔王軍の兵士たちは城の外に駐屯し、四天王も基本は城外の拠点にいた。城の中に残るのは——先代と、ごく少数の使用人だけ。
私も——月に一度、報告のために来るだけだった。
廊下を歩く足音は——自分のものだけだった。
今は——違う。
厨房から皿の音が聞こえる。誰かが笑っている。ピプの声が廊下の向こうで弾んでいる。食堂からスープの匂いが漂っている。
足音が——たくさんある。11人の、バラバラの足音。
台所の棚から——茶葉を出した。
湯を沸かした。茶を淹れた。一杯だけ。
食堂の椅子に座った。一人で。
茶を飲んだ。
……先代の時代——茶を淹れてくれる者は、いなかった。
いや。頼めばいただろう。使用人はいた。だが先代は——頼まなかった。何も。誰にも。
「勝手にしろ」。あれが先代の——唯一の言葉だった。
「勝手にしろ」。
——「構うな」という意味だと思っていた。
今思えば——「来てほしくない」ではなく、ただ——頼み方がわからなかったのかもしれない。
茶が——少し冷めた。
「ヴェルちゃん、起きとるの?」
振り向いた。
よしこが——パジャマ姿で立っていた。黒髪が少し乱れている。
「……魔王様。——ヴェルザでございます」
いつもの訂正だ。「ヴェルちゃん」ではない。だが今は——声に力が入らなかった。
「お茶飲んでるの? こんな時間に(^^)」
「……少し、考え事を」
「そう」
よしこが——向かいの椅子に座った。頼んでいないのに。
テーブルの上のわたくしの茶を見て——立ち上がり、台所に行き、もう一杯淹れて戻ってきた。自分の分を。
「ほな、わても一杯(^^)」
二人で——茶を飲んだ。
夜の食堂。静かだが——二人分の足音があった。二人分の茶の湯気がある。
「……魔王様」
「ん?」
「……先代魔王は。この城で——お茶を、誰かと飲んだことがあったでしょうか」
声が——かすれた。
「うーん。わてにはわからへんけど(^^)」
よしこが茶を一口飲んだ。深紅の目が——穏やかに細くなった。
「でもな、ヴェルちゃん。一人でお茶飲むのは——あかんよ」
「……なぜでございますか」
「一人で飲んだら、美味しないもん(^^)」
——。
「今度は先代の分も淹れたろか。仏壇はないけど——お供えくらいはできるやろ(^^)」
……仏壇とは何でしょうか。
だが——言いたいことはわかった。
「……かしこまりました」
茶を——飲んだ。温かかった。
先代の分。——あの方にも、この温かさを知ってほしかった。
300年間——私は、お茶一杯、淹れてさしあげなかった。
「おやすみ」も、言わなかった。
報告書だけを出して、帰っていた。
先代は——「勝手にしろ」と言った。
私は——勝手にした。
帰った。
——もし、あの時。
「お茶でも召し上がりますか」と——一言、言えていたら。
「ヴェルちゃん、泣いとる?」
「……泣いておりません。……ヴェルザでございます」
目を拭った。茶の湯気のせいだ。そういうことにした。
「よしよし。泣きたい時は泣いたらええんやで(^^)」
「……泣いておりません」
泣いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第56話「夜を背負う者」。タイトルはナハトレーゲンの真名——古代魔族語で「夜を背負う者」です。
ヴェルザは300年間、先代魔王に仕えました。忠臣として、四天王筆頭として。——でも、先代が一人で日記を書いていたことは知らなかった。「夜が長い」「城が静かすぎる」「誰の足音もしない」。恐怖の魔王が、夜中にそんなことを書いていた。
ヴェルザの後悔は——「気づかなかった」ことです。先代は「勝手にしろ」と言った。ヴェルザは「構うな」と受け取った。でもたぶん——先代は、「来てくれ」と言えなかっただけ。お茶一杯。「おやすみ」の一言。それだけで——300年は、もう少し温かかったかもしれない。
よしこは何も知りません。先代の孤独も、ヴェルザの後悔も。ただ「一人でお茶飲むのは美味しない」と言って、隣に座る。——よしこにとっては当たり前のことが、この城にとっては300年ぶりの奇跡です。
次回、第57話「使者」。カインが魔王城にやってきます。
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