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魔王(よしこ62歳)と勇者パーティ  作者: 歩人
Arc4: 聖教会の子どもたち

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第56話: 夜を背負う者

◆ヴェルザ視点




 メルが、朝食の後に声をかけてきた。




「ヴェルザ殿。少し——お時間をいただけますか」




 いつもの慇懃な微笑みだが、目が違う。笑っていない。何かを見つけた時の——あの、油断のない目。




「……何だ」


「書庫で、古い文書を見つけましたの。古代魔族語の手記——リーゼ殿と解読を始めていますわ」


「古代魔族語の……手記?」


「ええ」




 メルが一つ間を置いた。


 それだけで——何かを察した。この女は、無駄な間を取らない。効果を狙った間だけを使う。


 つまり——次の言葉に、意味がある。




「先代魔王のものと思われます」




 ——足が、止まった。








 書庫は埃っぽかった。


 メルの灯りの魔法が、薄紫の光でテーブルを照らしている。リーゼ殿が隣に座り、分析魔法の光を革装丁の冊子に当てていた。


 テーブルの上に——紙が何枚も広がっている。メルの字で、解読のメモが書かれている。




「すべてを読むには、まだ時間が必要ですわ。古代魔族語の崩し字で——公式の辞書にない表現も多い。ですが、断片的にいくつかの単語は特定できました」




 メルが——紙を差し出した。




 解読メモ。メルの細い字。いくつかの古代魔族語の単語と、その横に現代語の訳が並んでいる。




 ——「夜」。「城」。「静か」。「足音」。「一人」。




「この五つの単語が、手記全体を通して繰り返し出現します。特に——『夜』と『一人』の出現頻度が高い」




 リーゼ殿が淡い声で言った。




「反復パターンを分析した。日付の間隔が長くなるほど——『一人』の出現回数が増える。書く間隔が空くと……孤独を感じる頻度が上がっている」


「…………」




 手記を——見た。


 褪せたインク。流れるような崩し字。




 ——見覚えがある。


 この筆跡を。この崩し方を。




「……先代は、公文書を書く時は角ばった文字を使っていた。だが——ごく稀に、私への個人的な伝言に崩し字を使われた。命令書ではなく……ただの、覚え書き。「明日は巡視」「北の砦に補給を」——そういった」




 メルが——目を細めた。




「……ヴェルザ殿は、先代の崩し字を知っていらっしゃるのですね」


「300年——仕えました」


「……この筆跡は、一致しますか」




 冊子に触れた。指先で——インクの跡をなぞった。触れてはいけないような気がした。触れなければならないとも思った。




「……一致する。これは先代の字だ」




 リーゼ殿が——分析魔法を止めた。メルが——黙った。


 書庫が、静かになった。








 先代魔王ナハトレーゲン。




 300年前に即位した。玉座の魔法陣が授けた真名——「夜を背負う者」。


 強大な魔力。冷厳な統治。恐怖と威圧で魔族を束ね、人間との戦線を維持し続けた。


 私が仕え始めた時、先代はすでに魔王だった。若い四天王の私に——先代は一言だけ言った。




「勝手にしろ」




 それだけだった。指示も命令も——最小限だった。先代は玉座にいた。いつも。暗い広間に一人で座り、誰の報告も聞かず、誰を呼ぶこともなく。


 私はそれを——「威厳」だと思っていた。




 近寄りがたい。それが魔王というものだ。


 一人でいる。それが頂点に立つ者の覚悟だ。


 そう——思い込んでいた。








◆メル視点




 ヴェルザ殿が——立ったまま動かなくなった。


 金色の目が、手記の文字を見つめている。




「……ヴェルザ殿」




 声をかけた。返事がない。




「断片的ですが——文脈から推測した箇所がありますわ。リーゼ殿と、前後の単語の並びから意味を絞り込みました」




 紙をもう一枚出した。


 推測を含む試訳。リーゼ殿の分析と、わたくしの古代語知識を合わせた、最善の推測。




「手記の中盤——日付の間隔が特に長い箇所があります。おそらく数十年分の空白の後——急に書き始めている。その箇所が、これです」




 読み上げた。




「——『夜が、長い』」




 ヴェルザ殿の肩が——動いた。




「——『城が、静かすぎる』」




 金色の目が——揺れた。




「——『誰の足音も、しない』」




「…………」




 ヴェルザ殿が——目を閉じた。




 300年仕えた主の言葉。読めない文字の中に——ずっと書かれていた言葉。


 わたくしは——黙った。リーゼ殿も黙った。


 推測を含む訳文であることは、すでに伝えた。完全な解読ではない。だが——単語の配列から、大きく外れてはいないはず。




「……メル」




 ヴェルザ殿が、目を開けた。金色が——濡れている。




「先代は……恐怖で統治した。誰も近づけず、誰も呼ばず。報告は書面で上がり、返答も書面だった。面会は——年に数度」


「…………」


「私は……300年間、先代のおそばにいた。四天王筆頭として。誰よりも近くにいた——はず、だった」




 ヴェルザ殿が——手記に手を置いた。革の表紙の上に。大きな手が、微かに震えている。




「近くにいたのに——先代が一人で日記を書いていたことを、知らなかった。足音がしないと——書いていたことを」




 声が——変わった。軍人口調が消えている。




「先代は……寂しかったのだ」




 言った。




「300年仕えて——私は、気づかなかった」




 書庫が静まり返った。


 リーゼ殿が——俯いた。


 わたくしは——何も言えなかった。慇懃な言葉も、気の利いた言葉も、出てこなかった。






◆ヴェルザ視点




 夜になった。




 城の廊下を歩いた。足音が——響く。


 自分の足音が。革靴の、規則正しい音が。




 先代の時代——この廊下は、静かだった。


 夜は特に。城の中に、生き物の気配がなかった。魔王軍の兵士たちは城の外に駐屯し、四天王も基本は城外の拠点にいた。城の中に残るのは——先代と、ごく少数の使用人だけ。


 私も——月に一度、報告のために来るだけだった。


 廊下を歩く足音は——自分のものだけだった。




 今は——違う。




 厨房から皿の音が聞こえる。誰かが笑っている。ピプの声が廊下の向こうで弾んでいる。食堂からスープの匂いが漂っている。


 足音が——たくさんある。11人の、バラバラの足音。




 台所の棚から——茶葉を出した。


 湯を沸かした。茶を淹れた。一杯だけ。




 食堂の椅子に座った。一人で。


 茶を飲んだ。




 ……先代の時代——茶を淹れてくれる者は、いなかった。


 いや。頼めばいただろう。使用人はいた。だが先代は——頼まなかった。何も。誰にも。


 「勝手にしろ」。あれが先代の——唯一の言葉だった。




 「勝手にしろ」。


 ——「構うな」という意味だと思っていた。


 今思えば——「来てほしくない」ではなく、ただ——頼み方がわからなかったのかもしれない。




 茶が——少し冷めた。




「ヴェルちゃん、起きとるの?」




 振り向いた。


 よしこが——パジャマ姿で立っていた。黒髪が少し乱れている。




「……魔王様。——ヴェルザでございます」


 いつもの訂正だ。「ヴェルちゃん」ではない。だが今は——声に力が入らなかった。


「お茶飲んでるの? こんな時間に(^^)」


「……少し、考え事を」


「そう」




 よしこが——向かいの椅子に座った。頼んでいないのに。


 テーブルの上のわたくしの茶を見て——立ち上がり、台所に行き、もう一杯淹れて戻ってきた。自分の分を。




「ほな、わても一杯(^^)」




 二人で——茶を飲んだ。


 夜の食堂。静かだが——二人分の足音があった。二人分の茶の湯気がある。




「……魔王様」


「ん?」


「……先代魔王は。この城で——お茶を、誰かと飲んだことがあったでしょうか」




 声が——かすれた。




「うーん。わてにはわからへんけど(^^)」




 よしこが茶を一口飲んだ。深紅の目が——穏やかに細くなった。




「でもな、ヴェルちゃん。一人でお茶飲むのは——あかんよ」


「……なぜでございますか」


「一人で飲んだら、美味しないもん(^^)」




 ——。




「今度は先代の分も淹れたろか。仏壇はないけど——お供えくらいはできるやろ(^^)」




 ……仏壇とは何でしょうか。


 だが——言いたいことはわかった。




「……かしこまりました」




 茶を——飲んだ。温かかった。


 先代の分。——あの方にも、この温かさを知ってほしかった。




 300年間——私は、お茶一杯、淹れてさしあげなかった。


 「おやすみ」も、言わなかった。


 報告書だけを出して、帰っていた。




 先代は——「勝手にしろ」と言った。


 私は——勝手にした。


 帰った。




 ——もし、あの時。


 「お茶でも召し上がりますか」と——一言、言えていたら。




「ヴェルちゃん、泣いとる?」


「……泣いておりません。……ヴェルザでございます」




 目を拭った。茶の湯気のせいだ。そういうことにした。




「よしよし。泣きたい時は泣いたらええんやで(^^)」


「……泣いておりません」




 泣いていた。





最後まで読んでいただきありがとうございました。


第56話「夜を背負う者」。タイトルはナハトレーゲンの真名——古代魔族語で「夜を背負う者」です。


ヴェルザは300年間、先代魔王に仕えました。忠臣として、四天王筆頭として。——でも、先代が一人で日記を書いていたことは知らなかった。「夜が長い」「城が静かすぎる」「誰の足音もしない」。恐怖の魔王が、夜中にそんなことを書いていた。


ヴェルザの後悔は——「気づかなかった」ことです。先代は「勝手にしろ」と言った。ヴェルザは「構うな」と受け取った。でもたぶん——先代は、「来てくれ」と言えなかっただけ。お茶一杯。「おやすみ」の一言。それだけで——300年は、もう少し温かかったかもしれない。


よしこは何も知りません。先代の孤独も、ヴェルザの後悔も。ただ「一人でお茶飲むのは美味しない」と言って、隣に座る。——よしこにとっては当たり前のことが、この城にとっては300年ぶりの奇跡です。


次回、第57話「使者」。カインが魔王城にやってきます。


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