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魔王(よしこ62歳)と勇者パーティ  作者: 歩人
Arc4: 聖教会の子どもたち

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第55話: 古い言葉

◆メル視点




 城の書庫は——静かだ。


 いえ。静かすぎる。


 蜘蛛の巣が張った書架の奥。埃の匂い。紙とインクの、古い古い匂い。ページをめくる自分の指の音だけが、やけに大きく響く。


 先代魔王の時代から——いえ、もっと前から。この書庫は放置されている。ヴェルザ殿が軍務記録を管理しているのは手前の棚だけで、奥は誰も触っていない。


 わたくしは——整理する側の人間ではございません。漁る側ですわ。




 灯りの魔法を小さく灯した。薄紫の光が書架を照らす。背表紙に刻まれた文字を一つずつ確認していく。


 軍事報告書。領地の歳入記録。外交文書の写し。国境警備の配置表。——つまらない。どれもこれも、ヴェルザ殿が喜びそうな書類ばかり。


 奥へ。もっと奥へ。




 最近、リーゼ殿に古代魔族語の話をした。玉座の魔法陣に刻まれた銘文——あの文字を読めたら、魔王の真名の由来がわかるかもしれない。


 リーゼ殿は「……面白そう」とだけ言った。あの子は、言葉は少ないが興味の方向は確かですわ。


 書庫の奥に古代魔族語の文献があるかもしれない——そう思って、深夜に一人で来た。




 書架の最奥。壁に接する棚の、一番下の段。


 埃が厚く積もっている。膝をついた。ローブの裾が汚れる。——まぁ、よろしいですわ。




 革の装丁が崩れかけた冊子が一つ。横倒しになっていた。他の書類に押し潰されるように。


 手に取った。軽い。薄い。背表紙はなく、革紐で綴じられている。




「……あら」




 開いた。




 文字が——読めない。


 いいえ。読めないのではなく——知らない文字ですわ。




 曲線の多い、流れるような書体。一つ一つの文字が大きく、丁寧に書かれている。インクは褪せているが、筆圧は一定。書き慣れた者の筆致。


 古代魔族語。数千年前の儀式言語。玉座の魔法陣の銘文に残る、あの文字体系。


 わたくしは断片的にしか読めない。「魔王」「城」「夜」——いくつかの単語だけ。それも怪しい。




 でも——気づいたことがある。


 公式文書の古代魔族語は角ばった書体を使う。碑文や魔法陣の銘文と同じ、硬質な文字。


 これは——丸みがある。崩し字。走り書きに近い。


 つまり——




「……個人的な文書ですわ」




 誰の?


 この書庫の、最奥の、一番下の段。他の文書に隠れるように。




 ページをめくった。最後のページに——署名のようなものがある。古代魔族語の崩し字。読めない。だが文字数は数えられる。


 七文字。




「リーゼ殿」




 声が出た。自分でも驚くほど——低い声。




「——起きていらっしゃるかしら」






◆リーゼ視点




 深夜。メルに呼ばれた。




「……書庫?」


「ええ。少し——手伝っていただきたいことがありますの」




 メルの淡い紫の目が——いつもと違う。慇懃な微笑みの奥に、何か熱いものがある。


 ……珍しい。この人が「手伝ってほしい」と言うのは。




 書庫に入った。埃っぽい。古い紙の匂い。


 テーブルの上に——革装丁の冊子が開かれている。灯りの魔法が薄紫に照らしている。




「この文字。古代魔族語ですわ。わたくしは断片的にしか読めません。——リーゼ殿の分析魔法で、文字の構造を解析できないかしら」


「…………」




 冊子を覗き込んだ。


 流れるような曲線の文字。見たことがない。でも——構造はある。どんな言語にも、パターンがある。繰り返しがある。




 右手を翳した。淡い光が指先から漏れる。分析魔法。


 文字の線を一つずつ追った。太さ。角度。筆圧の変化。インクの濃淡。紙に残った微かな凹み。


 ……この人は、ゆっくり書いている。急いでいない。




「……メル」


「なんでございますか」


「この文字——一人の人が書いている。筆圧と筆跡の癖が、全ページ同一」


「ええ。わたくしもそう思いましたわ」




 ページを戻した。最初のページ。


 文字の配列を見た。行頭に——反復するパターンがある。同じ文字の組み合わせが、ところどころに出てくる。間隔は均等ではない。でも——規則性がある。




「この反復パターン。たぶん——日付」


「日付……ですの?」


「間隔は不規則。でも繰り返しがある。短い時は数行で次の日付。長い時は——一ページ以上。書く量にムラがある」


「つまり——」


「これは日記。……か、それに近いもの」




 メルが——息を呑んだ。


 角の先が微かに震えている。気づいているのかいないのか。




「……つまり。これは公的記録ではなく——」


「個人の手記」


「誰かが——この城で。一人で。日記を書いていたのですわ」








 ことん、と音がした。




「夜更かしはお肌に悪いで(^^)」




 振り向いた。


 よしこが——お盆を持って立っていた。


 おにぎりが四つ。湯気の立つお茶が二杯。




「書庫の灯りがついとるから、誰かおるんやろなぁ思うて(^^)」


「……魔王様。深夜でございますのに」


「だから夜食やん(^^) ほら、二人とも食べ。根詰めたらあかんで」




 テーブルの端に、お盆を置いた。おにぎりの匂い。塩と、よしこが裏山で見つけた香草の匂い。




 リーゼが——迷いなく手を伸ばした。




 ……分析魔法よりもおにぎりが先ですの。




「いただきます……」


 リーゼが小さく言って、かぶりついた。


「……うまい」


「せやろ(^^) お塩効いとるからなぁ」




 よしこが笑った。深紅の目が細くなる。——この方は、魔王の姿であっても笑うと完全に近所のおばちゃんですわ。




「ほな、わては寝るわ。あんまり遅くまでやったらあかんで(^^) おやすみ」


「……かしこまりましたわ」




 よしこが去った。スリッパの足音が廊下に遠ざかっていく。


 お茶を一口飲んだ。温かい。




 リーゼが——二つ目のおにぎりに手を伸ばしている。


 ……わたくし、まだ一つも食べておりませんが。




「……リーゼ殿。おにぎりは四つですわ。二つずつ」


「……わかってる」




 わかっていて三つ目に手を伸ばそうとしていたのではなくて?


 ……まぁ、よろしいですわ。わたくしも一つ。


 かじった。塩が効いている。香草の風味がほのかに広がる。


 ……美味しい。——認めるのが癪ですが。








 おにぎりを食べ終えた。お茶を飲んだ。


 冊子に戻った。




 リーゼ殿の分析で判明したこと——これは日記に近い個人の手記。一人の人物が、長い期間にわたって書いた。古代魔族語の崩し字。


 そして——最後のページの署名。




「……リーゼ殿。署名の文字を、もう一度」


「……うん」




 分析魔法の光を当てた。リーゼ殿が文字の構造を浮かび上がらせる。一文字ずつ。丁寧に。




「……七文字」


「ええ」




 七文字。


 わたくしが辛うじて読める古代魔族語の単語——そして、ヴェルザ殿から聞いた話。


 先代魔王の真名。古代魔族語で「夜を背負う者」。七文字。


 ナハトレーゲン。




「…………」




 手が——震えた。


 この冊子を書いた人物。この城の書庫の最奥に、革紐で綴じた冊子を残した人物。




「……これは先代魔王の手記ですわ」




 声が——低くなった。自分でもわかるほど。




「ナハトレーゲンが——自分で書いたものですわ」




 リーゼ殿が——おにぎりの最後の欠片を飲み込んだ。




「……先代」


「ええ」




 300年前。


 この城で。この書庫で——いいえ、もしかしたら玉座の間で。あるいは、誰もいない廊下で。


 先代魔王が——一人で、日記を書いていた。


 誰に見せるためでもなく。誰に届けるためでもなく。ただ——書いていた。300年間。


 わたくしの胸の奥が——ちりと痛んだ。策士の計算とは違う場所が。


 読めない文字が並んでいる。何が書いてあるかわからない。


 でも——書体が丁寧なことだけはわかる。一文字一文字、ゆっくり書かれている。急いでいない。誰かに見せるための文字でもない。


 自分のために——書いた文字。


 300年間、誰にも読まれなかった文字。




「……解読しましょう。リーゼ殿」


「……うん」


「この方が——何を書き残したのか。知りたいですわ」




 知りたい。——計算ではなく。利用するためではなく。


 ただ——知りたい。




 リーゼ殿が頷いた。




「……私も」




 深夜の書庫に、お茶の湯気が漂っている。


 お盆の上に、おにぎりの欠片が残っている。


 300年の埃が積もった書架の奥で——先代魔王の言葉が、静かに目覚めようとしていた。





最後まで読んでいただきありがとうございました。


第55話「古い言葉」。Arc6「先代魔王の遺言」が始まりました。


Arc5の大家族の温かさから一転、静かな話です。深夜の書庫で、メルとリーゼが見つけたのは——300年前に一人で書かれた日記。先代魔王ナハトレーゲンの手記です。


メルは策士で、利用できるものは利用する人です。でもこの手記に触れた時、手が震えました。「知りたい」という気持ちは、計算ではありません。メルの中に確かにある、純粋な知的好奇心——そしてたぶん、少しだけ共感。「一人で書いた文字」に対する。


リーゼの分析魔法が光るシーンでもあります。文字を「構造」として読む。内容はわからなくても、筆圧と間隔から「日記だ」と見抜く。メルに教わった魔法の応用が、ここで活きています。


そして深夜のおにぎり。よしこは古文書の重大さを何も知りません。ただ「夜更かしはお肌に悪い」と言っておにぎりを持ってくる。——それだけのことが、この城を300年前とは違う場所にしています。


次回、第56話「夜を背負う者」。ナハトレーゲンの手記が語る、300年の孤独。


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