第47話: 盾と包丁
◆トール視点
包丁が——怖い。
盾は怖くなかった。教会で毎日振らされた。重さも厚さも、腕が覚えている。
でも包丁は——薄い。軽い。そして、刃がある。
「トールくん、持ち方はこうだよ。猫の手、猫の手!」
ガルドが隣で手の形を作ってみせる。指を丸めて、爪を隠す。
「……猫の手」
「そう! 野菜を押さえる手をこうしないと、指切っちゃうから!」
「……了解であります」
猫の手。猫の手。
俺の手は——盾を握るための手だった。
教会の教官に言われた。「お前の手は大きい。盾を持て。前に立て。仲間を守れ」
それだけだった。それ以外の使い方を、習ったことがない。
包丁を握った。
「……軽い」
「でしょ? 盾より全然軽いよ!」
「……軽すぎる。力の入れ方がわからない」
「大丈夫、最初はみんなそうだよ!」
ガルドが——笑っている。
190cmが笑っている。俺より5cm高い。でも俺より——柔らかい。
にんじんを置いた。橙色。丸い。
「じゃあ、切ってみて!」
切る。
——ぐしゃ。
「…………」
「…………」
にんじんが——潰れた。
二つに割れたのではない。力が入りすぎて、上から押し潰した。盾で敵の攻撃を受け止める時の力加減が、そのまま出た。
「……すまない」
「だ、大丈夫! 大丈夫だよトールくん! にんじんは柔らかいから……」
「……柔らかい」
「う、うん。えっと、もっと優しく……赤ちゃんを触るみたいに……」
赤ちゃん。
触ったことがない。
「……わからない」
「え、えーっと……じゃあ、ピプちゃんの頭を撫でるみたいに!」
ピプの頭。
——撫でたことはないが、たしかに壊してはいけない気がする。
もう一本。にんじん。
今度は——そっと。ピプの頭。ピプの頭を撫でるつもりで。
とん。
切れた。
「おお! 切れた!」
ガルドが声を上げた。目がきらきらしている。190cmが飛び跳ねている。厨房が揺れた。
「……切れた」
「切れたよ! すごい! トールくん上手!」
「……形が歪い」
「最初はそれでいいの! スープにするから形なんて関係ないよ!」
形が歪い。分厚い。教会の訓練なら「やり直し」と言われる精度。
でもガルドは「いい」と言った。
——いいのか。
「……もう一本、切っていいか」
「どんどん切って! 今日は11人分だよ!」
11人分。
にんじん、じゃがいも、玉ねぎ。
切った。切った。切った。
ぐしゃ。とん。ぐしゃ。とん。とん。ぐしゃ。
三本に一本は潰れる。
「……すまない。また潰れた」
「大丈夫! 潰れたのは味噌汁に入れよう! 溶けるから!」
「……溶けるのか」
「溶けるよ! 大丈夫!」
ガルドの「大丈夫」は——温かい。
シオン隊長の「大丈夫だ」とは違う。シオン隊長のは命令に近い。ガルドのは——毛布みたいだ。
◆ガルド視点
嬉しい。
トールくんが隣にいる。厨房に。
昨日も隣にいた。一昨日も。誰にも言われていないのに、朝になると厨房に来て、黙って立つ。
最初は何をしていいかわからなくて突っ立ってた。鍋を渡したら受け取ってくれた。皿を並べてもらったら——割ったけど。
でも——嬉しい。
僕が厨房に立ち始めた時、隣には誰もいなかった。レオンは料理に興味がない。リーゼさんは手伝おうとしてくれたけど、分析が始まると本を読み出す。
一人で鍋を回す厨房は——広すぎた。
今は、185cmが隣にいる。狭い。でも——いい狭さ。
「トールくん、次は玉ねぎ!」
「……了解」
「皮を剥いてね。こう、上のところを切って——」
ガリッ。
トールくんが玉ねぎの皮を——盾を構えるように握って、力任せに剥いた。中身まで三層くらい一緒に剥けた。
「あ。……小さくなった」
「あはは! 大丈夫、小さくてもスープに入るから!」
「……すまない」
「謝らなくていいよ! 僕なんてさ——」
包丁を置いた。
「最初に玉ねぎ切った時、泣きすぎて前が見えなくなって、まな板ごと落とした」
「……まな板ごと」
「まな板ごと。あと鍋も。あと——皿3枚」
トールくんが——目を丸くした。茶色い目が、少し光った。
「……俺は。皿4枚割った」
「え」
「……最初の朝に1枚。昨日2枚。今朝1枚」
「…………」
「…………」
二人で顔を見合わせた。
190cmと185cm。厨房の真ん中で。
「「…………」」
——なんだろう。可笑しかった。
トールくんの口元が——ほんの少し、動いた。
笑った。この人、初めて笑った。微かに。唇の端が——ほんの少しだけ上がった。
「……僕のほうが1枚少ない」
「……俺のほうが1枚多い」
また黙った。
そして——二人同時に「ふっ」と息が漏れた。
笑いだった。小さな。
俺、この人のこと好きだな——と思った。体が大きくて、力が強くて、でも力加減がわからなくて。
僕と——同じだから。
「トールくん」
「……何だ」
「スープ、一緒に作ろう。僕が味を見るから、トールくんは切って。——形はめちゃくちゃでいいから」
「…………了解」
トールくんが包丁を握り直した。
猫の手。少しずつ、形が良くなっている。
まだ分厚い。まだ歪い。でも——もう潰さなくなった。
鍋がぐつぐつ言っている。
トールくんが切った野菜。形はめちゃくちゃ。にんじんは三角だったり四角だったり。じゃがいもは大きさがバラバラ。玉ねぎは——小さい(3層剥いたから)。
でも——いい匂いがする。
「……いい匂いだ」
トールくんが鍋を覗き込んだ。湯気で茶色い目が潤んでいる。
「でしょ! 味見する?」
木のスプーンで掬って渡した。トールくんが口に含んだ。
——目が開いた。
「……うまい」
「ほんと!?」
「……うまい。俺が切った野菜が——こうなるのか」
トールくんが鍋をじっと見ていた。
盾で敵を押し返す時の目じゃない。もっと——静かな目。
「……ガルド」
「ん?」
「殿はいらない。ガルド、でいい」
「……え。いいの?」
「……同じ枚数を割った者同士だ。俺が1枚多いが」
「あはは! じゃあ、ガルドって呼ぶなら——僕のことも呼び捨てでいいよ」
「……ガルド」
「うん!」
えへへ。
——嬉しい。
名前を呼んでもらえるのが、こんなに嬉しい。
轟音。
厨房の扉が——蹴り開けられた。
「何をやっている!」
210cm。赤黒い短髪。角が二本。牙。
ドルガだ。
「ど、ドルガさん!?」
「小僧ども! 朝から厨房でガタガタと! 戦士が鍋など持っておるか!」
トールくんが固まった。盾を構える姿勢になった。包丁を持ったまま。
「……え、えっと、その、スープを——」
「スープだと!? 戦士の仕事は戦うことだァ! 包丁などという——」
ドルガの鼻が——ひくひく動いた。
「…………」
「…………」
「……なんだこの匂いは」
「ト、トールくんが切った野菜でスープを……」
「フン! 野菜のスープだと? そんなものは——」
ドルガが鍋を覗き込んだ。210cmが鍋を覗き込むと、鍋が小さく見える。
「…………」
「あ、あの、ドルガさん?」
ドルガがスプーンを取った。
乱暴に掬った。
口に入れた。
——沈黙。
「……ドルガさん?」
「…………悪くない」
「え!?」
「悪くないと言っただけだ! うまいとは言っとらん! フン! ——もう一杯もらう」
もう一杯。
「あ、あの、まだ11人分の計算が——」
「もう一杯だ!」
「は、はい!」
ドルガがスープを啜った。
210cmの手に、木のスプーンが小さい。
「…………フン。——野菜の切り方がなっとらん。何だこの三角のにんじんは」
「ト、トールくんの初めての——」
「初めてだと? ハッ、情けない。戦士が包丁も握れんのか」
トールくんが——黙って立っている。
「……はい。握れません」
素直に言った。朴訥に。嘘のない声で。
「初めてです。教会では——包丁を持ったことがありません」
ドルガが——トールくんを見た。赤い目が、少し細くなった。
「…………フン」
スープをもう一口飲んだ。三杯目。
「三角だろうが四角だろうが、スープに入れば同じだ。——味は悪くない。それだけ言っておく」
背を向けた。扉に向かって歩き出した。210cmの背中。
立ち止まった。
「——明日もこの匂いがしなかったら、ぶっ殺すぞ」
扉が閉まった。
「…………」
「…………」
僕とトールくんは顔を見合わせた。
「……明日も作れ、ってことだよね?」
「……そうだと思う」
鍋からぐつぐつ音がした。
「……ガルド」
「うん?」
「……明日も、切っていいか」
「もちろん!」
えへへ。
トールくんが——また少しだけ、口元を緩めた。
二回目。
盾を持っていた手が、包丁を持っている。
壊す手が——作る手になっている。
まだ下手だ。まだ形はめちゃくちゃだ。でも——スープは美味い。
食堂。11人の食卓。
トールくんのスープが並んだ。
「トールくんが作ったの!? すごい!」
「ボクも飲むー!」
ピプが椅子の上に立って鍋を覗き込んでいる。
「……俺はスープを作った。ガルドに教わった」
「トールくんが切って、僕が味付けしたんだ!」
よしこさんがスプーンを口に運んだ。
深紅の目が——細くなった。
「…………うまいやん(^^)」
「え、えへへ……」
「……ありがとう、ございます」
トールくんが——頭を下げた。ぎこちなく。でも、深く。
「なぁトールくん(^^) にんじん三角なんは——」
「……力加減が、まだ」
「ええねん(^^) 三角のにんじんなんて初めて食べたけど、味は一緒やで(^^)」
ドルガが黙ってスープを飲んでいた。大きな椀で。三杯目——いや、四杯目だ。
レオンが「お前飲みすぎだろ」と言った。ドルガが「フン、腹が減っていただけだ」と返した。
スープがなくなった。11人分のはずが——足りなかった。
「ガルド……足りない」
「だ、大丈夫! パンがあるから! パン!」
190cmと185cmが慌てて厨房に走った。並んで走ると——廊下が揺れた。
「廊下は走らない!(^^)」
よしこさんの声が追いかけてきた。
走るのをやめた。二人同時に。同じタイミングで。
——また少しだけ、笑った。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第47話「盾と包丁」。トールとガルドの厨房コメディ回です。
この二人は鏡像です。同じ体格、同じ境遇——体が大きいだけで前線に立たされた孤児。違いは一つだけ。ガルドはよしこに「無理せんでええ」と言ってもらえた。トールはまだ言ってもらっていない。でも今、ガルドの隣で包丁を持つことで、ガルドを通じてよしこの言葉が届き始めています。
「盾と包丁」。壊すための手と、作るための手。同じ手です。同じ力です。でも握るものが変わると、手の意味が変わる。トールのにんじんはめちゃくちゃな形です。でもスープにすれば同じ味がする。「三角だろうが四角だろうが、スープに入れば同じだ」——ドルガの言葉は、トールの存在そのものへの肯定でもあります。本人はそんなつもりで言っていませんが。
ドルガの「明日もこの匂いがしなかったら、ぶっ殺すぞ」は、翻訳すると「明日も作ってくれ」です。この人はいつもこうです。
皿の枚数を競い合う190cmと185cm。こういう、どうでもいい共通点で距離が縮まるのが、同じ傷を持つ者同士のコミュニケーションだと思います。
ブックマーク・評価をいただけると、三角のにんじんがもう一個増えます。感想もお待ちしています。




