47 願い
あの時、わたしはベッドに横たわって、泣きじゃくる幼いフィオナの顔を見ていた。
わたしにしがみつくフィオナの傍らには、家族たちがいた。エルドリック王、ラーアルとマーレ、そしてブラウン。
わたしは、この世界に残す家族のことをブラウンに託して、この世を去ったのだ。
そして、わたしの精神はこの場所にたどり着いた。世界を俯瞰する水晶を通して、家族たちの行く末を見守っていた。
フィオナは家族に見守られながら成長していくが、少しして記憶を長く保てないという症状が現れ始めた。
「そう、そしてあなたはフィオナに課された代償を肩代わりすることを願ったのです」
ナディアさんの声でわたしは我に返った。彼女は隣に立つエルドリック王子に語りかけていた。
「……はい。私はフィオナの病気を治していただけないかと神に願いました。もしや、あなたが神なのですか」
エルドリック王子が聞くと、ナディアさんは首を横に振った。
「わたしは、少しばかり世界を見渡す力に長けているだけの、しがない話者に過ぎません」
わたしには想像も出来ないような力を持ちながら、彼女はそう言い切った。話者とは、神に近い力を行使するからこそ、代償を課せられているのかも知れない。
「フィオナの記憶の問題は、話者にとっては宿命のようなものなのです。そして、話者でないあなたでは、代償を引き受けることは出来ません。だからわたしは、フィオナがあなたに限定して記憶を失うように調整したのです」
ナディアさんはそっと水晶に手をかざした。柔らかい光が放たれた後、こちらを見上げているフィオナが映し出される。
「あなた方が出会ったフィオナは、未来で生まれ変わることになります。その時には、彼女も代償を払い終え、自由に生きることが出来るでしょう」
「先程から仰っている〝代償〟というのは何なのですか」
エルドリック王子は不安げな顔をして聞いた。
「話者は魔法を操ることが出来ますが、その代わりに、魂に制限を受けるのです。フィオナの場合は記憶を失う症状として現れたわけです」
「それは、本当ですか」
王子は青ざめた表情でわたしを見た。わたしは思わず目を伏せてしまう。
「まさか、リシェットが早くに亡くなってしまったのは」
彼も全てを思い出しているようだ。わたしが生きた時間と、さらにその先の数十年に渡る人生の記憶を。
前の人生でのわたしは、アイレンさんに少しだけ魔法を教えてもらったが、代償の事は知らされていなかった。
「もう、心配いりません。あなた方は、悲しみを乗り越えてここにいらっしゃるのですから」
ナディアさんが優しく笑う。それは、これから先の人生を普通に送ることを許されたということ。自然と涙が溢れて、頬を伝った。
エルドリック様がわたしをそっと抱き寄せ、涙を拭ってくださる。
「ずっとひとりで抱えて、辛かったでしょう」
「いいえ、わたしはひとりではありませんでしたから」
わたしが今日ここにいられるのは、エルドリック様や子供達、ブラウンやアイレンさん。数え切れない人たちに支えられてきたお陰なのだ。
ただ、わたしにはまだ、ひとつだけ気がかりなことがあった。
「ナディアさん。あの子はどうなるのですか」
わたしは水晶に映るフィオナを見ながら尋ねた。あの子は、わたしたちにとって前世と呼ぶべき世界で生まれた。この先も代償を背負って生きていかなければならないことになる。
「残念ですが、代償そのものを消し去ることは出来ないのです。その代わり、あなた方が未来で出会う彼女は、その束縛から開放されているでしょう」
ナディアさんが仰ることは、理屈ではわかる。フィオナにも、わたしと同じようにもう一度人生をやり直す機会が与えられるのだろう。でも、あの子はこの先も何十年も生きるはずだ。親としては、代償を背負わせたままでいることを、簡単に割り切ることが出来ない。
わたしは覚悟を決めて、ナディアさんに尋ねた。
「話者であれば、代償を肩代わり出来るのですよね」
ナディアさんの表情から笑みが消え、その瞳がわたしを真っ直ぐに捉える。
「可能です。ですが、せっかく払い終えた代償を、もう一度背負うと言うのですか」
「構いません。わたしはフィオナの母親ですから」
「リシェット」
王子がわたしの肩に手を置いた。困惑と悲しみが入り混じった、苦しげな表情だった。
「申し訳ありません。せっかくやり直す機会を与えられたのに」
「謝るのは私の方です。あなたにばかり辛い役目を負わせてしまって」
彼の手にそっと触れる。彼の魂から伝わる温かさが、わたしの心を穏やかにしてくれる。彼もわたしと同じ気持ちでいるはずだ。
「……あなた方の覚悟はよくわかりました」
ナディアさんがわたしの前に立ち、人差し指をわたしの額に当てた。
「それでは、あなたの前回の人生を差し出していただきましょう」
「えっ?」
わたしは思わず問い返した。
「あなたが生きた数十年分の記憶です。それがあれば、フィオナの代償の代わりとなるでしょう。何か、不服がありますか?」
今の今まで忘れていた前世の記憶。大切な思い出ではあるけれど、それを差し出すだけでフィオナを救えるのなら、願ってもいないことだった。
「それなら、私の記憶も消して下さい」
エルドリック様が自分の胸に手を当てた。
「先ほども言ったように、話者でないあなたは、代償の肩代わりは出来ないのですよ」
「わかっています。ですが、彼女と新しい人生を歩ませてもらえるのなら、今度は私も同じ気持ちでいたい」
「いいでしょう。次に目を覚ました時、あなた方はここで見聞きした事も含め、前世の全てを忘れているでしょう」
ナディアさんは再び優しく微笑んだ。
これで、わたしたちは新たに人生をやり直し、前世に生まれたフィオナも代償から開放される。わたしにとっては、理不尽な悲しみの記憶さえも捨て去ることになるのだ。
ナディアさんは最初からそうするつもりだったのではないか。そう問いかける間もなく、ふっと目の前に光が溢れて、目がくらんだ。
「あなた方の魂に、幸多からんことを願っています」
遠のく意識の中で、ナディアさんの声を聞いた気がした。