22 花言葉
アイレンさんの家は、森の中にあって、空気がとても澄んでいる。いつもは大樹の丘に出る道を通るだけだが、今日は少し森の中を散策してみることにした。
「こういうの、久しぶりね」
「数年前まではよくお散歩をしましたね」
ブラウンと並んで森の中を歩くと、昔のことが思い出される。
わたしが子供の頃、よくブラウンを連れ回して城の外に出掛けた。息苦しいお城の中から出られる開放感が嬉しくて、はしゃぎ過ぎてしまう事が何度もあった。わたしは帰りの馬車で疲れて寝てしまい、自室のベッドで目を覚ますのだ。
「思えば、あの頃もブラウンに運んでもらっていたのよね」
「よく肩車をせがまれておりました」
「ふふ、そんなこともあったわね」
アイレンさんたちには、この姿で過ごすことは認識してもらえた。結局のところ、二人がわたしの事情を察しているのかはわからない。
「ところで王女、問題はエルドリック王子です」
「……流石に、王子の前で変身している訳にもいかないものね。そこは仕方ないんじゃないかしら」
「いけません。一秒でも無駄にされてはなりません。時間は貴重であることをご自覚下さい」
「でも、わたしの立場上、定期的にお城には顔を出さないといけないでしょう。病気が発症するまで、まだ少し余裕があるわ」
「いけませんっ」
ブラウンは、今まで見せたことのない、厳しい表情でわたしを見据えた。思わず身がすくんで、言葉が出て来なくなってしまう。
「……万が一、変身が出来なくなったり、病気の進行が早まったらどうなさいます? これはお命に関わる事なのですよ」
ブラウンはわたしを叱りつけながら、段々と悲しい表情に変わっていく。わたしは周りの人たちが、こんな顔をするのを見たくなかったのだ。
「少なくとも、王女が変身の魔法を完全に身につけられるまで、この件は私にお預け下さい」
ブラウンの言うことはよくわかる。わたしだって、病気が発症するのを遅らせられるのなら、その方がいい。改めて病気の気配を身近に感じてしまい、わたしはまた心細くなってしまった。
「……もう一度だけ言わせて下さい。私の使命は、王女をお守りする事です。それには、王女に出来るだけ長く生きていただくことも含まれていますが」
そこまで言ってから、ブラウンはしゃがみ込み、わたしの涙をハンカチで拭いた。
「申し訳ありません。王女の涙は私の不徳の致すところです」
「……ブラウンのせいじゃないわ」
わたしが泣いていたら、ブラウンたちも悲しむ。わたしは周りを幸せに出来る存在にならなければ。王子に頂いた言葉のように。
翌日のお昼過ぎ。わたしは天窓の部屋のドアを少しだけ開け、廊下に誰もいないことを確認した。
「今なら大丈夫よ」
部屋の中にいるもう一人の人物に声をかける。部屋から出てきたのは、十六歳の姿のわたし。彼女は薄いピンクのドレスの上から、黒い外套付きのコートを纏う。
二人で静かに廊下を歩き、わたしが先に出て、暖炉の部屋の中をうかがう。
アイレンさんたちは仕事で出掛けると聞いていたが、念には念を入れて、不在である事を確かめた。わたしは、もう一人の〝わたし〟を伴って、馬車を停めている庭に出た。
彼女はわたしを客車に乗せると、フードを被った。これなら、遠目からは顔は見えない。彼女が運転席で手綱を取って軽くしならせると、馬車はゆっくりと動き出した。
森を抜け、城下町を馬車でしばらく走る。やがてフレアランス城に続く道が見えてくると、道脇に馬車は停まり、彼女が客車に入ってきた。
「王女、これを」
そう言って、彼女はわたしに黒髪のウィッグを被せる。
「これなら、王女が気付かれることもないでしょう」
「わたしはいいけれど、ブラウンは大丈夫なの?」
「潜入任務は私の得意分野ですので」
わたしに変装したブラウンは、優雅にお辞儀をしてみせた。
建前上、今は結婚の儀を執り行うまでの準備期間。実態は、定期的に王子と会って、談笑したり、お茶を飲んだりするだけだ。今日は昼食をご一緒する約束をしていた。
ブラウンの変装技術は完璧で、どこから見てもわたしそのものだ。わたしの方も、ウィッグに加えて顔にも特殊なメイクを施されている。アイレンさんの知り合いの子供という設定だ。
しかし、エルドリック王子は鋭い方だ。気づかれずにやり過ごせるかは不安だし、欺いている事への後ろめたさが拭えない。でも、王子にだけは、わたしの病気のことは知られたくない。心配をかける事以上に、自分でも説明出来ないもやもやが、胸の中で渦巻くのだ。
「やあ、ようこそいらっしゃいました」
王子は、いつものように優しい笑顔でわたしたちを迎えた。城の屋上に設けられた菜園の側に、テーブルセットが用意されている。
「今日はお招きありがとうございます。この子は、わたしがお世話になっている先生のお知り合いです」
わたしになり切ったブラウンが、わたしの事を紹介する。王子は、一層柔らかい笑顔になって、わたしの前にしゃがみ込んだ。
「ようこそ、お嬢さん。お名前を聞いてもいいですか?」
「……フィオナです」
少し舞い上がっていたわたしは、咄嗟にその名を口走っていた。内心焦っていたが、視線を逸らさなければ、きっとわからないはずだ。
「良い名前ですね。そして、とても綺麗な瞳をしている」
王子はわたしの頭をそっと撫でた。あと数秒見つめられたら、わたしは顔から湯気を出していたに違いない。