第9話 勇者(転生4日目)、黒に触れる
放課後、涼は下駄箱の前に立っていた。
手には一枚の紙。
『助けてください』
震えるような文字。
紙に触れると、黒い影が見える。
恐怖と不安。
助けを求める感情。
それが細い糸となってどこかへ続いていた。
すると横から声がした。
「涼!」
ヒナが、心配そうな顔をしてこちらを見ている。
「その手紙……」
「うん」
「行くの?」
涼は頷く。
「ヒナ」
「なに?」
「先に帰ってて」
ヒナは目を瞬かせた。
涼は少し考えてから続ける。
「怖いことかもしれない」
「危ないかもしれない」
「だから先に帰っていいよ」
それは追い払う言葉ではない。心配しているのだ。
ヒナにも分かっていた。だから少しだけ笑う。
「涼」
「何?」
「私たち、いつも一緒でしょ」
涼は黙る。
「だったら行くよ。心配だもん」
ヒナはそう言って歩き出した。
涼は小さく息を吐く。
そして。
「ありがとう」
そう、ヒナに言った。
ヒナは楽しそうでも、嬉しそうでもあった。
⸻
涼は【真理の瞳】で、細く黒い糸を辿り、住宅街へ向かっていた。
そして、学校からずっと感じていた背後の気配に振り返える。
「蒼真!」
物陰から神宮寺蒼真が顔を出した。
「なんでバレたんだよ」
「学校からずっと気づいていたさ」
「マジか」
蒼真は頭を掻く。
「どうしてついて来た?」
「気になるから」
「何が?」
「お前が」
「ボクを?」
「そう」
「なぜ?」
沈黙。
ヒナが目を丸くする。
蒼真は慌てて両手を振った。
「違う違う!」
「そういう意味じゃない!」
「いや、少しはそういう意味も……」
「あるのか!?」
涼が一歩下がった。
蒼真は頭を抱えた。
「その反応はいらない」
ヒナが吹き出した。
少しだけ空気が軽くなる。
⸻
やがて三人は公園へ辿り着く。
公園のベンチには二人の女子生徒がいた。
結衣と彩乃。
どちらもクラスメイトだ。
だが、特別親しいわけではない。
結衣が涼に気づき、立ち上がった。
「え?……どうして、ここが」
その言葉で涼は理解した。
手紙を書いたのは結衣だった。
黒い糸は、結衣を通じて彩乃に繋がっていた。
彩乃を助けるために、助けを求めたのだ。
彩乃が顔を上げる。目の下には濃い隈があった。
涼たちは静かに近づく。
話を聞くと。
彩乃の父親は最近、酒を飲むと、怒鳴る。暴れる。
そして、昨日は手も出るようになった。
母親は止められない。
家族は三人だけ、誰も助けてもくれない。
彩乃は家に帰るのが怖かった。
逃げ出したい。
涼は黙って聞いていた。
そして、話に出てくる父親という存在が、理解できなかった。
前世で勇者だった頃。
父とは守る者だった。
王も。騎士も。師も。
強い者は弱い者を守る。
それが当然だった。
「父親なのだろう?」
涼は呟いていた。
彩乃が顔を上げる。
「え?」
「ならば守るのではないのか」
彩乃は寂しそうに笑った。
「そんな人ばっかりじゃないよ」
涼は言葉を失った。
そうなのか。
この世界では違うのか。
その時だった。
彩乃の黒が揺れた。
彩乃が振り向くその先、おそらく家の方向で、巨大な黒が見えた。
涼の表情が変わった。
今までの、転生してから見てきた黒とは何か違う。
嫉妬でもない。
怒りでもない。
執着でもない。
まるで生き物。
蠢く黒。
それは、微かに見覚えがあった。
前世。
魔物たちを蝕んでいたもの。
魔王の魔力?
「行こう」
涼は、落ち着いた声で言った。
⸻
彩乃の家は近かった。
新興住宅街の一角にある、ごく普通の家だった。
玄関に近づくほど黒は濃くなる。
玄関の中から怒鳴り声が聞こえた。
物が倒れる音。
彩乃の身体が震える。
玄関ドアを開くと、父親が現れた。
酒臭い。目が血走っている。
だが、涼が見ていたのはその背後だ。
黒い蛇のようなもの。
父親の首や胸へ巻き付いている。
呼吸をするように膨らみ、縮む。
まるで寄生虫だ。
「誰だてめぇら!」
父親が怒鳴ると、黒が膨れ上がった。
彩乃が怯える。
涼は家の中に入った。
前世なら剣を抜いていた。
魔物を斬るために。
だが、今は違う。
涼は、手を伸ばす。
黒へ。
直接。
そして、黒い蛇を掴む。
黒い蛇が暴れた。
悲鳴のような音が聞こえた気がした。
「がぁっ!?」
父親が苦しむ。
涼は驚いていた。
(触れられる)
(なら、引き剥がせる)
勇者の力は変わっていた。
引く。
黒い蛇が男の身体から剥がれる。
その瞬間、父親が激昂した。
拳を振り上げる。
速い。
普通の高校生なら避けられない。
だが。
涼の目には見えていた。
拳の軌道。
筋肉の動き。
重心。
全て。
避けられる。
そう判断した。
しかし、その前に腕が伸びた。
蒼真だった。
父親の拳を掴んでいる。
拳はびくともしない。
涼は少しだけ驚いた。
涼が動くよりも早く、蒼真はすでに先手を取っていた。
「そういう大人」
蒼真の目が冷たい。
「大嫌いなんだよ」
父親が睨む。
蒼真は逸らさない。
「俺も殴られてた」
静かな声だった。
「中学までな」
誰も喋らない。
「だから分かる……。子どもに手を出す親が、どれだけ最低か」
父親は言葉を失った。
そして、先程までの濁った目が少しずつ変わっていく。
男は彩乃を見た。
震えている娘を。
怯えている娘を。
その顔が歪む。
苦しそうに。
後悔するように。
「俺は……」
男が呟く。
「何を……」
彩乃が目を見開いた。
父親のそんな顔を見たのは久しぶりだった。
ほんの少し前。
こんな暴力を振るわなかった父親。
その面影が少しだけ戻っていた。
彩乃が泣いた。
結衣が、彩乃の肩を抱く。
ヒナも涙ぐんでいる。
蒼真は気まずそうに頭を掻いた。
涼はその光景を見ていた。
未来は分からない。それでも。
「よかった」
涼は、小さく呟いた。
ヒナも横で、涙ぐみながら頷いていた。
ふと。
涼は右手に違和感を感じた。そして見た。
黒に触れた場所。
そこに一瞬だけ。
黒い痣のようなものが浮かんだ。
そして、涼の腕に張り付き、消えていった。
⸻
同刻、遠く離れた夜の街のあるスナックで、一人の女が微笑んだ。
「へぇ……」
妖艶な笑み。
赤い瞳が妖しく細められる。
女はグラスを揺らした。
「勇者もこちらに来ていたのかしら」
氷が小さく鳴る。
「私は、家族に、なんてことを」
「きっと疲れていたのよ。でも、お酒はほどほどにしてくださいね」
「お父さん、お母さん!」




