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果てしない海 ~終焉の魔眼と真理の瞳~  作者: kooy
第2章 この世界の闇

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第38話 (黒い獣)勇者の代償

――ドンッ!!

鈍く重い衝撃音が住宅街へ響いた。


「ぐあっ!」

蒼真の身体が地面を大きく跳ね、アスファルトを転がる。

制服の腹部には鋭い爪で引き裂かれたような裂け目が走っていた。


「蒼真!」

ヒナの悲鳴が響く。


「だ、大丈夫!」

蒼真は歯を食いしばりながら身体を起こした。

痛みはある。

だが、骨は折れていない。

それよりも理解できなかった。

(何だ……今の)

橋本には触れられていない。

それなのに、自分は何か巨大なものに殴り飛ばされた。

見えない何が。

そんなものが、この世にあるはずがない。


「リョー!」

ヒナが涼を見る。

だが、返事はなかった。

涼は橋本ではなく、その背後を見つめていた。

瞳は驚愕に大きく見開かれている。


(黒が……)

橋本の身体から溢れ出した黒は、もはや人にまとわり付く霧ではなかった。

完全に形を持っている。

巨大な獣だった。

人の二倍はある体躯。

全身は煙のような黒で覆われているのに、その輪郭だけは異様なほど鮮明だった。

長く伸びた腕。

地面を抉るほど鋭い鉤爪。

大きく裂けた口からは、棘のような牙が幾重にも並んでいる。

そして。

真紅の瞳だけが、生き物のようにゆっくりと動いた。


ギロリ。

その視線が涼を捉える。

「……やっぱり」

涼は息を呑んだ。

(見えている)

橋本自身ではない。

黒い獣が、自分を見ている。

まるで。


『何を見ている』

そう問い掛けてくるようだった。


「涼!」

蒼真が叫ぶ。

「何が起きたんだ!」


その声で涼は我に返る。

琴音の前では、橋本はこちらを睨んでいた。

「離れろォ!」

「琴音は僕のだァ!」

「返せェ!」

その叫びに合わせるように、黒い獣も牙を剥く。

橋本の感情と完全に同調している。


(橋本先生が黒を操っているんじゃない)

(黒が橋本先生を動かしている)

その瞬間。

涼の中で、過去の記憶が蘇る。

魔王軍との戦い。

橋下での戦い。

黒へ呑み込まれ、自我を失っていく人たち。

(同じだ)

黒は感情では終わらない。

膨れ上がれば、人を支配する。


「リョー!どうしたの?」

ヒナの声が震える。

「何があったの?」


もちろん、誰にも見えていない。

見えているのは涼だけだ。


「ヒナ」

静かな声だった。

「下がって」

「え?」

「蒼真も、下がって!」

その声色に、ヒナは息を呑んだ。

いつもの優しい涼ではない。


それは、勇者として戦っていた頃の。

静かで、決意だけを宿した声だった。


「蒼真!」

「琴音とヒナをお願い」


蒼真は訳が分からないまま眉をひそめる。

「お、おい!」

「一人で行くな!」


だが、涼はもう前だけを見ていた。

黒い獣もまた、ゆっくりと身体を沈める。

獲物へ飛び掛かる直前の肉食獣のように。

空気が張り詰める。

誰にも見えない獣が、涼を見据えていた。


「橋本先生」

涼は静かに呼び掛ける。

橋本の耳には届かない。

黒い獣だけが反応した。

低く。

腹の底へ響くような唸り声を漏らす。

「グルルルル……」

その音だけで空気が震える。


(やっぱり)

(この黒は、生きている)

涼はゆっくりと右手を前へ伸ばした。

狙うのは橋本ではない。

黒い獣の腕。

あれに触れれば。

干渉できる。

今まで何度もそうしてきた。

黒を受け止め。

排除し。

その人たちを救ってきた。


(でも、この黒は違う……)

本能が叫んでいる。

触れるな。

危険だ。

今までの黒とは比べ物にならない。

それでも。

助けられるのは、自分しかいない。

「……ごめんなさい。」

誰へ向けた言葉だったのか。

涼自身にも分からなかった。


そして。

黒い獣の腕が振り下ろされる。

涼は半歩だけ下がり、その攻撃を避ける。


黒い腕が鼻先を掠める。

風圧だけで髪が大きく揺れた。

その一瞬。

無防備になった獣の腕へ。

涼の右手が触れる。


掴む。

そして、力を入れる。

その瞬間。

黒い獣の腕が、音もなく崩れ始める。

まるで乾いた土が風にさらわれるように。

黒い粒子となって砕け、渦を描きながら涼の右腕へ吸い込まれていく。


「ギャァァァァァッ!!」

黒い獣が叫ぶ。

その咆哮は橋本の悲鳴なのか。

獣自身の叫びなのか。

分からなかった。


橋本は突然頭を抱え、その場へ膝をつく。

「やめろ……」

「やめて……」

「僕の琴音を……」

その瞳からは涙が溢れていた。


しかし涼には、その声すら遠く感じる。

流れ込んでくる。

黒が。

膨大な黒が。

腕から肩へ。

肩から胸へ。

そして身体の奥深くへ。

(多い……!)

今までとは比べものにならない。

一人分の感情ではない。

まるで何年も積み重ね続けたような絶望が、一度に押し寄せてくる。


「ぐっ……!」

呼吸が止まる。

胸を何か巨大な岩で押し潰されるように苦しい。

膝が震える。

立っていられない。

それでも。

右手だけは離さなかった。

(まだだ)

(まだ終わってない)

勇者として、何度も魔物と戦ってきた。

だから分かる。

途中で手を離せば、この獣はまた暴走する。

橋本自身もきっと耐えられない。


「はぁ……っ」

息を吸う。

だが肺へ空気が入らない。

代わりに流れ込んでくる。

橋本の感情。

橋本の記憶。

橋本の叫び。

視界がゆっくりと暗く染まっていく。

現実の景色が消える。

ヒナも。

蒼真も。

琴音も。

橋本も。

すべて黒に溶けた。


          ◇


そこは世界ではなかった。

果てしなく広がる黒。

空も。

地面も。

境界すら存在しない。

黒だけが螺旋のように続いている。


その黒の螺旋の中を、無数の写真が漂っていた。

一枚。

また一枚。

風もないのにゆっくりと揺れている。


涼は、その写真を見る。

そこには。

学校の昇降口。

廊下。

教室。

体育館。

すべてに琴音が映っていた。

笑っている琴音。

本を読んでいる琴音。

友達と話す琴音。

遠くから盗み撮りされた写真ばかり。


「今日も可愛い」

どこからか声が聞こえる。

「今日も笑ってる」

「今日も綺麗だ」


写真が増える。

増える。

増える。

やがて写真は数え切れなくなった。

そのすべてが琴音だった。

(これが……)

(橋本先生の心)


その瞬間だった。

一枚の写真へ、黒い染みが広がる。

じわり。

インクを垂らしたように。


そして。

写真の中の琴音へ、黒い棘が突き刺さった。

写真は破れ。

裂け。

黒い棘へ変わっていく。


『あいつが』

禍々しい声だった。

写真という写真が、黒い棘へ変貌する。

『あいつが悪い』

『神宮寺……。あいつが。あいつが』


無数の黒い棘。

その一本一本から、橋本の憎悪が流れ込んでくる。

「琴音は僕のものだ」

「誰にも渡さない」

「邪魔者は消えるべきだ」

「僕が救ってあげる」

その言葉は、もはや愛情ではなかった。

執着。

独占。

支配。

それらが形を持ち、黒となって世界を覆っていく。


「うっ……!」

涼は胸を押さえた。

息が苦しい。

鼓動が速まる。

頭が割れそうだ。

黒はさらに奥へ、奥へと続いている。

そして、その最も深い場所から。

今までとは違う、小さな声が聞こえた。

「……苦しい」

その声だけは、とても弱かった。


誰にも届かないほど、小さく。

「置いて……いかないで」

「ひとりは……嫌だ」

「助けて」

その声を聞いた瞬間。

涼は目を見開く。

(……違う)

(これが、橋本先生の本当の黒だ)


怒りではない。

憎しみでもない。

その奥底にあったもの。

誰にも届かなかった、孤独。

誰にも理解されなかった、悲鳴。

橋本自身すら押し込めてしまった、心の叫び。

その悲鳴が。


一気に涼へ流れ込んできた。


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