第35話 (黒い獣)黒の囁き
校門から、生徒たちが次々と姿を現す。
部活動を終えた者。
友人と笑い合いながら帰る者。
一人でイヤホンを耳に差し、足早に駅へ向かう者。
その光景を、一人の男が離れた歩道橋の陰から静かに見つめていた。
黒いキャップを深く被り、マスクで口元を隠す。
その腕には、一眼レフカメラが抱えられていた。
望遠レンズは、まっすぐ校門へ向けられている。
「……まだかな」
その声は、どこか期待に満ちていた。
待ち合わせ相手を待つ恋人のように。
やがて。
「あっ……」
男の表情が緩む。
校門から、一人の少女が姿を現した。
肩まで伸びた黒髪。
控えめな笑顔。
友人たちに囲まれ、どこか安心したように微笑んでいる。
(僕だけの琴音。大人しい雰囲気が堪らないなぁ)
「今日も可愛いね」
男は優しく呟く。
カシャ。
シャッター音が鳴る。
また一枚。
カシャ。
「笑ってる……」
カシャ。
「その笑顔、僕だけに見せてくれたらいいのに」
カシャ。
一枚撮るたびに、男の口元が緩んでいく。
その様子を見れば誰もが異常だと思う。
だが男自身には、その自覚がまるでなかった。
心配なのだ。
事件のあと、琴音はひどく怯えていた。
だから見守っている。
危険な男が近付かないように。
誰かに傷付けられないように。
自分が守らなければならない。
それが当然だと思っていた。
「今日は元気そうだ……」
少し安心したように微笑む。
しかし、その笑顔は次の瞬間に消えた。
「……ん?」
琴音の隣へ、一人の男子生徒が歩み寄った。
短く整えた髪。
日に焼けた肌。
大きなスポーツバッグを肩へ掛けている。
「誰だ?」
男は望遠レンズを向ける。
カシャ。
「どこかで見がことがあるな……」
その男子生徒は自然に輪へ加わると、楽しそうに笑い始めた。
琴音も、小さく笑っている。
「近い……」
男の眉がぴくりと動く。
「なんで、そんなに笑うんだ」
爪が、無意識に口元へ運ばれる。
ぎりっ。
歯が爪へ食い込んだ。
「……嫌だな」
その声には、少しだけ苛立ちが混じる。
「そんな男と話さなくてもいいのに」
シャッターを切る手が止まらない。
カシャ。
カシャ。
カシャ。
一人ひとりの顔を確認するように撮り続ける。
琴音の周りには、どんな人間がいるのか。
守るためには、知る必要がある。
彼らが駅前へ歩き始める。
男も距離を保ちながら、その後を追う。
人混みに紛れれば、気付かれることはない。
「今日は人混みが多くて助かるな」
小さく笑う。
誰も、自分を見ていない。
それが少しだけ嬉しかった。
⸻
駅前へ着くと、琴音たちは一軒のカフェへ入っていった。
白を基調とした、おしゃれな店。
ガラス張りの外観は店内がよく見える。
「ここかな」
男は道路を挟んだ向かい側を見上げる。
雑居ビル。
非常階段。
屋上。
男は急いで階段を上がっていった。
屋上へ着くと、フェンス越しにカフェがよく見える。
「今日はここにしよう」
しゃがみ込み、一眼レフを構える。
望遠レンズの先には、楽しそうに笑い合う琴音たちの姿が映っている。
ファインダーいっぱいに、琴音の姿が映る。
「……可愛い」
カシャ。
「笑ってる」
カシャ。
「今日は安心してるね」
カシャ。
「良かった……」
まるで父親が娘の成長を見守るような、穏やかな笑みだった。
だが、その視線だけは異様に粘ついている。
(やっぱり僕が見守ってあげないと)
(僕以外の男なんて近づけさせいない)
「僕しか守れないからね」
その時だった。
カフェの中で、一人の男子生徒が立ち上がった。
「……?」
男は反射的にレンズを向ける。
ズーム。
さらにズーム。
ファインダーいっぱいに、その顔が映し出される。
そして。
橋本の表情が凍り付いた。
「……神宮寺」
その名を呟いた瞬間、全身から血の気が引く。
忘れるはずがない。
あの日。
自分の人生を壊した生徒。
教師として積み上げてきたものを、一瞬で奪った存在。
「どうして……」
呼吸が荒くなる。
「どうしてお前が、琴音の近くにいる?」
爪を噛む。
貧乏ゆすりが止まらない。
視界が小刻みに揺れる。
しかし、次の瞬間。
橋本の口元が、不気味に歪んだ。
「ああ……そうか」
笑っていた。
「そういうことなんだね」
ゆっくりと頷く。
「やっぱり運命だったんだ」
神宮寺が現れた。
琴音の前に。
また自分の前に。
偶然なはずがない。
これは運命だ。
「邪魔しているのは……神宮寺だったんだ」
その瞳には、確信だけが宿っていた。
「大丈夫……」
優しく語り掛けるように呟く。
琴音へ向かって微笑んでいた。
(今度こそ、僕が助けてあげるからね)
橋本はフェンスへ身を寄せたまま、カフェの中を見つめ続けていた。
神宮寺が琴音へ何か話し掛ける。
琴音が小さく笑う。
「…………」
橋本の頬が引きつる。
「そんな顔……」
カシャ。
神宮寺が隣へ座る。
「近い!」
カシャ。
「それは違うよ」
琴音は優しい。
だから勘違いされる。
利用される。
騙される。
だから。
「僕が守らなきゃ」
橋本は真剣だった。
神宮寺の存在が許せない。
あの日のことが脳裏へ蘇る。
職員室。
怒号。
警察。
手錠。
保護者の冷たい視線。
学校を去る自分。
全部。
全部。
「許せんない!」
爪を噛む。
ぎりっ。
血の味が広がる。
それでも止まらない。
「神宮寺がいなければ」
「僕は先生のままで」
「琴音も安心して学校へ通えて」
「毎日、笑って」
「全部、元通りだった」
そうだ。
神宮寺が邪魔をした。
あいつさえいなければ。
琴音は今も自分の近くにいた。
「そういうことか」
橋本は納得したように何度も頷く。
「運命は教えてくれているんだ」
神宮寺を。
排除しろと。
その瞬間だった。
『___そうだ』
橋本の思考とは違う。
それでいて、自分自身が考えたようにも聞こえる声。
橋本は眉をひそめる。
「……?」
周囲には誰もいない。
風だけが吹いている。
なのに。
頭の奥で、誰かが囁く。
『邪魔だ』
橋本は息を止めた。
『神宮寺が』
「……そうだ」
思わず答えていた。
『あれがいる限り』
『琴音は救われない』
「そうなんだ……!」
橋本の鼓動が早まる。
『邪魔なものを退かせればいい』
橋本は静かに目を閉じる。
「邪魔なもの……」
『神宮寺蒼真。邪魔だ』
橋本はゆっくりと笑った。
その笑顔は、どこまでも穏やかだった。
「助けてあげなきゃ」
その時。
カフェの中で、神宮寺が立ち上がった。
窓の外を見つめている。
橋本のいる、この屋上を。
「……?」
橋本は一瞬だけ身を低くする。
見えているはずがない。
距離は十分ある。
ましてやフェンスの陰だ。
なのに。
神宮寺は真っ直ぐこちらを見ているようだった。
「まさか……」
橋本の背中を冷たい汗が流れる。
その瞬間。
頭の奥の声が、言った。
『気付かれた』
『だから』
『もう始めよう』
橋本の身体が震える。
橋本の足元の影が、不自然に揺れた。
風は吹いていない。
それなのに。
影だけが、生き物のように蠢く。
足首へ絡みつき。
黒い液体のように身体へ染み込んでいく。
『安心しろ』
『私がお前を守る』
⸻
カフェの扉が開く。
琴音たちが店を出てくる。
橋本はゆっくりと立ち上がり、一眼レフを肩へ掛けた。
その瞳には、先ほどまでの焦りはもうない。
あるのは確信だけだった。
「大丈夫」
優しく微笑む。
「今度こそ、僕が守ってあげる」
橋本は階段へ向かって歩き出す。
その足元で、影が音もなく笑っていた。




