第26話 消しゴム
翌日。
澪は少しだけ緊張しながら教室へ入った。
昨日の出来事が頭から離れない。
黒崎蓮。
あの鋭い目。
低い声。
そして教室全体を支配するような空気。
正直、怖かった。
だが不思議と後悔はしていない。
自分でも理由は分からない。
ただ、黙っているのは嫌だった。
教室へ入ると、すでに何人かの生徒が登校していた。
黒崎くんはまだ来ていない。
澪は小さく息を吐いた。
「おはよう」
隣の席の女子生徒が声を掛ける。
「お、おはよう」
「昨日すごかったね」
「え?」
「黒崎くんにあんなこと言う人初めて見た」
澪は困ったように笑った。
別に勇気があったわけではない。
ただ、身体が勝手に動いてしまっただけだ。
「黒崎くんって、そんなに怖い人なの?」
女子生徒は周囲を確認してから声を潜めた。
「怖いよ」
即答だった。
「中学の頃から有名だったらしいし」
「そうなんだ……」
「うん。だからみんな関わりたくないの」
その時だった。
教室の後ろの扉が開いた。
一瞬で空気が変わる。
黒崎くんだった。
誰とも目を合わせない。
挨拶もしない。
そのまま自分の席へ向かう。
教室のざわめきが消えた。
澪は思わず視線を向ける。
黒崎くんもこちらを見た。
目が合う。
一秒。
二秒。
黒崎くんは無言のまま窓際へ座った。
それだけだった。
しかし澪の心臓は少し速くなっていた。
(怒ってる……よね)
昨日のことを思い出す。
だが黒崎くんは何も言わなかった。
授業が始まり、午前中は何事もなく過ぎていった。
だが昼休み。
澪が友人たちと昼食を食べている時だった。
机の上に何かが落ちる。
コトッ。
消しゴムだった。
「え?」
見上げる。
黒崎くんが私の前に立っていた。
教室が静まり返る。
澪は思わず身構えた。
黒崎くんは無表情だった。
「落とした」
それだけ言う。
澪は首を傾げた。
確かにその消しゴムは私のものだった。
朝から無いと思っていた物だ。
「ありがとう……」
黒崎くんは返事をしない。
そのまま席へ戻った。
周囲の生徒たちも困惑していた。
何だったのだろう。
澪にも分からない。
だが。
黒崎くんの背中が少しだけ寂しそうに見えた。
――――――
放課後。
蓮は一人で帰路についていた。
駅とは反対方向。
住宅街を抜けた先。
そこには古びた三階建ての建物がある。
一般人が見れば事務所だと思うだろう。
しかし実際は違う。
組事務所だった。
扉を開く。
タバコの臭い。
酒の臭い。
怒鳴り声。
笑い声。
いつもの光景。
「おう、坊ちゃん」
「お帰りなさい」
組員たちが声を掛ける。
蓮は適当に返事をした。
興味はない。
好きでもない。
嫌いでもない。
生まれた時からそこにあった景色だ。
二階へ上がる。
組長室の扉が開いていた。
中では父親が書類を見ている。
黒崎組組長。
黒崎源造。
「帰ったか」
「うん」
「学校はどうだ」
「普通」
源造は書類から目を離さない。
「勉強はやれ」
「分かってる」
「高校は出ろ」
「分かってるって」
会話は短い。
いつも父親は勉強にはうるさかった。
暴力だけでは生き残れない。
頭の使える人間が上に立つ。
それが源造の考え方だった。
「お前には期待してる」
蓮は返事をしなかった。
期待。
その言葉が好きではない。
期待されるほど、この世界に魅力を感じていなかったからだ。
部屋へ戻る。
制服を脱ぎ、ベッドへ倒れ込む。
静かな天井を見上げた。
すると。
昨日のことが頭をよぎる。
『良くないと思います』
澪の声だった。
震えていた。
怖がっていた。
それでも逃げなかった。
黒崎は目を閉じる。
「なんなんだよ……」
普通なら黙る。
普通なら目を逸らす。
なのにあいつは違った。
その時。
一階から怒鳴り声が聞こえた。
続いて物が割れる音。
女性の悲鳴。
蓮はゆっくりと目を開く。
いつものことだ。
見慣れた光景。
聞き慣れた声。
昔は何も思わなかった。
だが最近は違う。
胸の奥に小さな違和感が残る。
窓の外を見る。
夕焼けが街を赤く染めていた。
「くだらねぇ……」
呟く。
だが。
その言葉とは裏腹に。
澪の声だけが、なぜか頭から離れなかった。




