8.佐伯幸太郎
佐伯はまだ誰もいない事務室に入ると鞄を机の脇に置き、PCの電源をつけてから換気扇をまわした。ケトルに残っていた水を流しに捨て、蛇口をひねって新しく水を入れる。ケトルをスタンドに乗せてからマグカップとインスタントコーヒー、スティックシュガー二本、灰皿を取り出して沸騰を待ちつつ一服する。煙草を吸い終わったころにコーヒーを淹れたマグカップを持って机に戻り、授業用のAIを開く。佐伯のルーティンだった。
六月下旬に行われた三年生の県内模試の結果を一人ずつ手作業で入力していく。二十一人分の入力を終えて、今度は別のAIを開いてログを確認する。一通り目を通した後、マグカップを持って流しへ行き、灰皿と一緒に洗っていると、原田が出勤してきた。佐伯は少し驚いて、手を拭うのもままならないうちに机に戻ってPCの画面を閉じた。
「おはようございます原田先生。今日は少し早いですね。」
濡れた手をズボンで乾かしながら佐伯は言った。
「おはようございます。えぇ今日はプリンターを使わせてもらおうと思って早めに来たんです。何見てたんですか? パソコン。」
「あぁ。県内模試の結果を入れてたんですよ。」
「あー三年生の。相変わらず大変ですねーこの時期の三年生は。いろいろ重なって。最後の大会、県内模試、そしてまた来週には期末でしょう? 私も中三の時はそんなハードなスケジュールをこなしていたのかしら?」
「まぁ、遥か昔のことですからね、覚えてないんじゃないですか?」
「もぉ!」
少し怒ったような表情を見せながら、原田は鞄から自分のノートPCを取り出し「プリンタ借りますからね。」と言って自分の作業へと入っていった。その様子を見て佐伯は「冗談ですよ。」と付け加えてから、PCに向き直り大きく息を吐き出してまた授業用のAIを開いた。
「そういえば、末永遥斗君、あれからどうですか?」
佐伯は入力の合間に何でもないことを聞くように原田に尋ねた。
「え? 何ですか?」
原田は何かにてこずっている様子で、佐伯の方を見ない。佐伯はゆっくり立ち上がって原田の後ろに立ち、PCのモニターを覗いた。「あー、これです、これ。これがここのプリンターの名前です。」佐伯がそう言うと原田は「あ! こっち? やだもう。」と慌ててプリンタを接続しなおし、ようやく一息ついて佐伯に向き直った。
「それで、誰でしたっけ? 遥斗君?」
「そうですそうです。前に言ってたじゃないですか? 私にはどうのこうのって。」
プリンタが紙を吐き出し始める。
「あー。遥斗君ね。もしかしたら私の勘違いだったかもしれません。」
「というと? 何かあったんですか?」
佐伯は待つ。
「何かあったっていうか。……私、最初に彼を見た時、目に光がないっていうか、生気がないっていうか、何て言うんですか? その……」
原田が口ごもる。
「いいですよ、言ってください。」
「いるじゃないですか? 私も教師八年とここで二年ちょっとですか? 教育の現場に携わってきましたけど、本当にどうしようもないっていうか、手の施しようがない子って。」
原田の目は真剣だ。
「どうぞ、続けてください。」
佐伯は促す。
「私、遥斗君は最初そういう子だと思ってたんです。それであの時はそう言ったんですけど。」
「わかります。俺もそう思ってたんで。」
「けど、最近は、最近ってここ一か月くらいですけど、授業も真面目に聞いてるし、いや、最初から真面目は真面目だったんですけど、最初の方は無機質? な感じだったんです。でも最近は血が通ってるっていう気がしますね。」
「おお。いいじゃないですか!」
佐伯は外国人のようなリアクションで応える。
「いや、ただの私の勘違いかもしれないですけど。だって相変わらずワークの問いも間違いが多いですし、授業中に当てて答えても何言ってるかわからないくらいボソボソと答えてますから。でもね、なんか温度を感じられるなって。そんな気がしますね、今は。」
「そうなんですね。それは良かった。じゃあ今後はしばらく様子を見ますか。」
「はい、また何か気づいたら言います。」
原田はそう言うと立ち上がってプリンタの紙を束ねてコピー機の方へ行った。佐伯は自分の机に戻る途中で小さく拳を握った。
佐伯は残っていた二年生の分の入力を鼻歌まじりでこなしていた。
「何の歌ですか?」
コピー機から戻ってきて、プリントの束を整えながら原田が聞く。
「『閃光少女』ですよ。知ってますか?」
「せんこう少女?」
原田はピンと来ていない。
「知らないんですか? 東京事変ですよ。」
佐伯は嬉しそうに答えた。
「東京事変? って古っ! 何年前の歌うたってんですか。あーやだやだ。これだからおじさんは、あーおじいさんだねもうこれは。」
原田も嬉しそうにここぞとばかりにやり返す。佐伯も返せる言葉もなくただ笑う。
「あ、ちょっと今から買い出し行ってくるんで何か飲みます? もしあればついでに買ってきますよ。」
佐伯は作業の手を止めて立ち上がった。
「あら、じゃあお言葉に甘えて。お茶を一つ。」
「わかりました。梅昆布茶買ってきます。」
原田が「ちょっと!」と言うのを背中で聞いて、佐伯はPCも閉じずに事務室から出ていった。




