5.佐伯幸太郎
「お疲れ様です原田先生。」
金曜最後の授業を終えた佐伯が、先に授業を終えて事務室にいた原田信朱に声をかけた。
「どうですか、四月も二週経ちましたけど、そっちのクラスの様子は?」
新年度になって何人か増えた生徒のことについて原田の意見も聞いておきたかった。八年間教師としての経験を持つ原田の言葉は信用できる。
「あ、お疲れ様です佐伯先生。」
奥でコーヒーを淹れていた原田が、佐伯のマグカップを持ってこちらにやってくる。佐伯は「ありがとうございます。」と言ってそれを受け取り、原田の言葉を待った。
「そうですねー……」そう言って自分の席に腰を下ろした原田は、机の上のコーヒーに手を伸ばし一口すすった。つられて佐伯も椅子に座り、甘めのコーヒーを口に含んだ。
「まぁ、例年通り……って感じじゃないですか。授業で詳しくできなかったところもAI使って自分で調べたりする子もいますし、こっちの説明に『AIと違いまーす』って言われるのももう慣れちゃいましたよ。」
そう言って授業用のタブレットに視線を落とした原田はどこか寂しそうだった。AIに自分の居場所を奪われるような、無力感を抱えているのだろう。もちろん佐伯にもその感情はあった。
「昭和にはAIなかったですもんね。」
「ちょっと! 私は昭和じゃありません!」
佐伯の軽口に原田はいつもの笑顔で返した。「もぉ、佐伯先生とそんなに変わらないのに。」とぶつくさ言いながら立ち上がると、残っていたコーヒーを飲み干してシンクの方へ行った。
「ただ、ちょっと気になる生徒はいます。」
自分用のマグカップを洗い、帰宅する準備を始めた原田が言った。ーー来たな。佐伯は思った。
「……末永ですか?」
「えぇ、……彼、ちょっと私の手には余るというか……」静寂が聞こえた。佐伯は動かない。言い淀んでいた原田の口が開く。「……もしかしたら手に負えない気がします。」
「……わかりました。一度こっちで面談してみます。」
「ありがとうございます。助かります。」
そう言って原田はバッグを肩にかけ、「お疲れ様です。」と事務室から出て行った。
原田を見送って入口の鍵を閉めた佐伯は、事務室に戻って換気扇をまわした。グォォという音が低く響いて部屋の空気が少し動いた。引き出しから灰皿を取り出して置き、胸ポケットから取り出したマルボロメンソールを一本咥えて火をつける。最初の一服を大きく肺に吸い込み、煙を換気扇に向かってゆっくり吐き出した。
「……今年は一筋縄じゃいかんかもな。」
最後の煙とともにそんな一言を漏らした佐伯は、灰皿に押し付けて煙草の火を消し、換気扇のスイッチを切ってPCの前に座った。無言のモニターが佐伯を迎える。冷めてしまったコーヒーを一口飲み、画面の奥をぼんやりと眺める。
「なあ、うさぎと亀の話、知ってる?」
『はい、もちろんです! イソップ寓話の有名なお話ですよね。 「油断大敵」や「地道な努力が大事」という教訓でよく語られますがーー』
(サボってるうさぎ、なら話は早ぇんだけどなあ……)
映し出された回答を一瞥して佐伯はため息をついた。
翌週の火曜日、三年生の授業を終えた佐伯は事務室に戻らず、教室で生徒たちが帰るのを待っていた。一人二人と「さようならー」と言いながら軽く会釈をして帰っていく。佐伯も一人ひとりに声をかけて見送る。隣の教室から椅子を引く音が続けて聞こえ始め、授業が終わった気配があった。佐伯は教卓から「お前らもさっさと帰れ。」と言いつつ教室にまだ残っていた生徒に帰宅を促した。
「失礼します。」
前のドアが開いて、末永遥斗が顔をのぞかせた。
「あ、末永君こっち。ここの前の席座って。」
佐伯は遥斗に教卓の前の席に座るよう手招きした。
「え?! 何? 末永居残り? 先生あたしも居残りしたいです!」
背を向けて山中と話していた陽子が、末永を見るなりやたら大きな声で言った。
「何言ってんだ。そんなんじゃねーからはよ帰りなさい。親も迎えに来てるんだろ?」
「えーー」と不満げな様子の陽子は、渋々鞄を持ち上げ、「幸太郎、またね。」とボソっと言い残して教室から出て行った。その後ろでペコペコと頭を下げながら、山中も続いた。佐伯は「はいはい。」と流しながら、山中の背中を見送りドアを閉めた。
(まったくあいつらはこっちの気も知らずに……)
半年ほど前に、送迎の車がうるさいと匿名の電話があった。また同じようなトラブルを起こすわけにはいかない。用心しておくにこしたことはなかった。
(ま、用心してたって問題が起こらないとは限らないんだけどな。)振り返って改めて遥斗を見た佐伯は、心を決めて遥斗の隣の席に腰をおろした。
「ごめんね、騒がしくて。 どう?塾には慣れた?」
「まぁ……普通です。」
遥斗は下を見ている。
「そう。学校は? 3年生になって何か変わった?」
「いや……別に。」
「行きたい高校とかって、もう決まってる?」
「……まだ。」
こちらには顔を向けずに答える。
「そっか。お母さんは? 塾のこと何か言ってた?」
「……何も。」
「ふーん、なるほどねー。まぁそんなもんか。言うて俺も中三の頃なんて何も考えてなかったもんな。」
「……」
「じゃあ、あれだ。普段は家でどうしてんの?
学校から帰ってきました、自分の部屋に入って鞄を置きました、制服も脱いで楽な格好になりました、はい、ここで何をする?」
「……ゲーム? とか?」
初めて遥斗は顔を上げた。
「いいね、ゲームね。何のゲーム? FPSとか?」
「……シレン。」
「何て? シレン? 風来のシレン?」
遥斗は黙ってうなずいた。
「マジ? 俺も昔やってたよw うわ懐かしいなー。で、ゲームをやりました。さて次は何をしよう? 自分の机に座ります。はい。」
「宿題?」
「お、ここで宿題か。もちろん、タブレット使うよね? よしじゃあタブレット出そうか。」
そう言われて遥斗は鞄の中からタブレットをゴソゴソと取り出した。画面をタップして学習サポートAIを開く。
「ちょっと見させてねー。」そう言いながら佐伯は端末の画面をのぞき込んだ。「うん、じゃあそこの宿題ってタブをタップして、そうそう、お、いいじゃん。全部終わってるね。」(これは……)佐伯の右眉がわずかに上がる。
「はい。」
「じゃあ一回ホームに戻ってもらって、うん、そう、そこを下にスクロールしてもらって。」
遥斗は佐伯の言葉に従って何の抵抗もなく宿題のタブをタップし、ホームに戻ってAIとの対話ログを遡って見せた。
「うんうん、ありがとう。オーケーオーケー。」
遥斗の学習サポートAIを見せてもらった佐伯は大きく息を飲んだ。ーー宿題のレベルが低すぎる。小学校高学年でも見ないようなゲーム風のものや動画の宿題ばかりが遥斗の画面には並んでいた。AIの”個別最適化”ここに極まれり、という感じだ。(これでは小学三年生ではないか。それに……)
AIとの対話も少なすぎる。遥斗は決して勉強のできる方の生徒ではない。いやむしろ最下層に位置する生徒だ。そういう子のAIとの対話履歴は「教えて」や「わからない」で埋まっている場合がほとんどだったが、遥斗の対話は一週間に一つあるかないかだ。古いのは半年前のものもあったので、定期的にログをクリアしている様子もない。このレベルの生徒なら膨大な対話履歴があっても良さそうなのに、遥斗にはその形跡が全くなかった。
「遥斗はさ、AI使ってる?」
「はい。」
遥斗は?を前面に出したような顔で佐伯を見た。
「いや使ってるだろうけど、ここはどうなの? とか、これはどうなってる? とか、これは? これは? みたいな。」
「なんか……このAI変な答えばっかりっていうか……一回AIの答え書いたら×だったことがあって……」
「そっか。」
なるほど。欲しい回答を引き出せないんだな。聞きたいことを言語化できない、あるいは言語化してもズレて伝わってしまう。学習サポートAIは、最初は生徒自身に考えさせるように設計されている。考え方やヒント、公式は提示しても、ピンポイントでいきなり答えそのものを引き出すことは難しい。そう考えると遥斗とは絶望的に相性が悪いのかもしれない。
「……遥斗、スマホ持ってるか?」




