3.佐伯幸太郎
最後のあいさつに来た三年生達とささやかなお祝いを終えた佐伯が事務室で一服していると、さっき帰ったはずの生徒二人が戻ってきた。
「何だお前ら。 忘れ物か?」
「違うよ先生。 澪が話があるんだって。」
「ちょっとやめてよ、結菜。 そういうんじゃないんだって。」
部屋のドアのところに立った結菜の後ろに隠れるように澪がいる。二人とも隣の市の公立女子高に合格した成績優秀な生徒だ。
「おいおい、何だよ話って。炎上とか晒しとかだったら勘弁してくれよなw」
からかうように佐伯が言うと、澪が「違います! そんなバカなことしません!」と言いながら大きく踏み出して中に入ってきた。
「どうした? 何かあったのか?」
灰皿で煙草を揉み消し、澪に向き直った佐伯が少しトーンを落として尋ねる。
「私、高校卒業したら、ここに戻ってきますから。」
澪は腹を決めたかのように言う。
「馬鹿言うなよ。ここは中学生までだ。大学生に教えられることなんてないよ。」
「違います! 今度は生徒としてじゃないです!」
澪の後ろで結菜が嬉しそうにヒューヒューと言っている。
「やめとけやめとけ、こんな塾。三年後なんて潰れてなくなってるかもしれないし、うちには人を雇う余裕なんてないよ。」
佐伯はヒートアップ気味な澪をなだめるように言った。
「でも今だって原田さんいるじゃん……」
澪が口にした原田さんというのは授業や雑務を手伝ってもらっているパートのおばさんだ。佐伯は澪のいじらしい健気さに感心した。
「……そうか。わかったよ。三年後な。それまでは潰さないようにしとくから、でもあれだからな、うちは現役六大学生しか採用しないからな。しっかり勉強はするんだぞ。」
佐伯の言葉を聞いた澪の瞳の奥に光が灯ったような気がした。
「わかった。絶対合格して戻ってくる。」
そう言って澪は後ろの結菜と視線を合わせた。
「よし、いい顔してるな。 気をつけて帰るんだぞ。」
「「はーい。」」
心なしか足取り軽そうに二人は出て行った。
生徒たちが出て行って一人になった佐伯は、椅子の背もたれに身体を預けて伸びをした。何の変哲もない天井を眺める。
「凄いな若い子のエナジーは……」
いつもと変わらないはずの部屋の空気が、今は寂しさで満たされてしまったような気がして、佐伯の口から自然とそんな言葉がこぼれた。
「これが青春ってやつなのか? いやいや俺だってまだまだ若者だっての。」
佐伯は自嘲気味に独り言を口にして灰皿を片付け、PCを立ち上げた。
『こんにちは 幸太郎さん! 何かお手伝いできることはありますか?』
学習サポートAIが温度のない声で話しかけてくる。
「よう、こないだ作ってもらった図形の問題、間違ってたぜ。」
『それは申し訳ありませんでした! ご指摘ありがとうございます。 どのあたりが間違いだったか、改めて教えていただけますか? すぐに確認して、正しい情報に修正させていただきます。』
「もうそれはいいんだ。こっちで修正して生徒達には正しい問題を出したからさ。それより気になる生徒のデータはあったかい?」
『それはお手数おかけしました。 今後は正確な情報をお届けできるよう気をつけます。
最近の気になるデータですね! 1件ありました。 3年生 16人が全員志望校合格です! 幸太郎さん! これは非常に優秀な結果です!』
画面に映し出された文字列に、思わず顔が緩んだ。「そうだなぁ 皆頑張ってたもんなぁ……」ほんの一か月前の生徒たちの鬼気迫った空気が懐かしい。
佐伯の経営する塾は、これで二年連続で全員志望校合格を達成したことになる。去年は八人。今年は十六人。佐伯は自分の拳が強く握られていることに気づいた。実際、「全員合格」という文言は、入塾の判断をする権限を持っている親に響くことが多い。個人経営の小さな塾にとっては死活問題に直結する大きな要素だ。握られていた拳が安堵からくるものだとわかって、佐伯は深く背もたれに沈み込んだ。
その時、机の上に置いた佐伯のスマートフォンが震えひと際大きな音を立てた。思いのほか大きく反応をしてしまった佐伯は、一呼吸おいてから電話に出る。
「はい 進学教室ガクシンです。」
「……えぇ ……えぇ ……はい、わかりました。末永遥斗君ですね。 ……えぇ、それではお待ちしております。」
そう言って電話を切ると、佐伯は耳の形が残ったスマートフォンの画面を拭った。




