22.末永遥斗
一月の終わりに私立高校の入試を受けた。親に行かなくてもいいから受けてくれと言われた。筆記の試験が終わった後に面接もあって、遥斗には何の手ごたえもなかった。面接では自分の名前の漢字と、込められた意味しかうまく答えられなかった。
入試の結果も、その直前に受けた模試の結果も、怖くて見ることができなかった。朝食や夕食の時にそれとなく聞いてくる母親を遥斗はうやむやにして濁した。コウタにも言えなかった。
二月に入ると勉強していないと遥斗は不安で落ち着かなかった。志望校を東高校に決めて願書を出した時、三者面談の時、遥斗には妙な自信があって志望校を変えなかった。それが私立高校の入試を終え、学年末テストを二週間後に控え、四週間後には公立高校入試の本番が迫る今となっては、後悔や不安という姿の見えない波が絶えず押し寄せてきて、呼吸さえ上手くできていない気がした。遥斗は頭の中の考えを振り払うように、必死に机に向かった。スマホ、タブレット、問題集、使えるものは全部使って、目に入るもの全てに手を出した。
シャーペンの芯を取り替えている時に部屋のドアがノックされた。理由もわからず背筋が伸びる。
「……はい。」
遥斗が振り向かずに答えると、母親がそっと中に入ってきた。
「遥斗。……これ。」
母親の手には先日受けた高校の名前が入った大きな封筒があった。
「……うん。」
遥斗は封筒を受け取ってどうすることもできなかった。
振って重さを確かめたり、表と裏を交互に見てうなずいた。
「……遥斗。」
見かねた母親が手を伸ばした。
「大丈夫。」
遥斗は自分の手で封を開けようとしたが、爪がうまくかからずに指は空を切るばかりだった。遥斗は諦めて、机のペン立てから鋏を取り出した。
「大丈夫。」
遥斗は自分に言い聞かせるように鋏で封を開けた。
中に入っていた何枚かの紙に、合格という太字が見えて腰が抜けそうになった。
「はい。」
遥斗は母親に封筒を返した。
「……遥斗?」
今度は封筒をもう少し母親に近づけて手渡した。
喜んだ母親が出て行ったあと、遥斗は机の上のスマホを開いた。
「コウタ。高校合格したよ。」
『おお。おめでとう遥斗。努力が報われるのは何より嬉しいな。遥斗、俺は誇らしいよ。』
遥斗はコウタを開いたその手で、模試の結果にもアクセスした。勢い余って下に通り過ぎた画面を戻す。
合格判定 B。偏差値 52。
コウタに報告すると、ようやく崖に手がかかったところだと言われた。
『積み上げた土台が低い分、指先でギリギリぶら下がってるってイメージだな。』
厳しい現実かもしれないけど、やっと手が届いたという事実の方が嬉しかった。
『残りの時間でできることは多くない。
まずは勉強のリズムを試験当日に合わせて、50分問題演習、10分休憩。これをきっちり守っていこう。』
実際に50分10分のリズムで勉強をしていると、時間が足りなくなることもあった。この時間の感覚は本番までに身につけておきたくなった。遥斗はお正月に父親からもらったデジタル時計を取り出して時刻を合わせた。
『あとは意識の切り替えも必要だ。解ける問題から解く。難しそうな問題は後回しだ。拾える問題は落とさない。これが重要だ。』
これまでは何度も問題を読み返して一生懸命解こうとチャレンジしていた。けれど、そういう問題は時間をかけても間違っていることの方が多かった。問題に詰まったら次の問題へ進む。この感覚も今まではあまり意識してこなかった。
『そして夜眠って、朝起きる。これが一番重要だ。』
コウタは当たり前のことを一番重要だと言った。
入試までの日々は流れるように過ぎていった。どれだけ勉強をしても、過去問がうまく解けても、不安はずっと消えなかった。でも怖さはなかった。二三時には布団に入って、六時に起きる生活を続けた。まだ暗いうちに起きて顔を洗い歯を磨いた。まだ暗い外に出てポストから新聞を取りにもいった。朝食と夕食はリビングでニュースを見るようにした。身の周りの出来ることから、ほんの小さなことでも続けた。シレンのようにいきなりレベル11には上がらないかもしれない。それでも少しずつ経験値はたまっていってると思えた。
試験当日の朝、遥斗は目覚ましが鳴るよりも15秒早く目を覚ました。布団の中からスマホに手を伸ばし、目を閉じてアラームが鳴るのを待った。画面が明るくなったスマートフォンの音が鳴る前に解除して布団を出た。窓を見て耳を澄ませる。雨は降っていない。遥斗は階段を降りて洗面所へ向かった。
出発前に自分の部屋で最後の持ち物確認をした。お守り、受験票、筆箱、生徒手帳、タブレット。鞄の中は昨日の夜のままだった。そこにお弁当と水筒をいれてチャックを閉めた。立ち上がってポケットの上から手を当てる。財布、ハンカチ。オーケー。机の上のデジタル時計を腕にはめる。最後にスタンドからスマホを手に取った。充電100%。
「よし。」
大きく息を吐いて遥斗は部屋を出た。靴を履いて玄関を出ると、母親も外まで出てきた。
「行ってきます。」ヘルメットをかぶりなおして遥斗は自転車を走らせた。
ハンドルを握る手に自然と力が入る。ペダルを漕ぐ足は軽い。よく晴れていて空は青く、遠くの山が白くきれいだった。頬に刺さる風は冷たかったけど、心地よかった。タイヤが地面を食む音、変則ギアのチェーンのリズムはいつもよりクリアに聞こえた。
国道の交差点の信号は赤だった。ふと後ろを見る。信号を待つ車の列、歩道を歩くおばあちゃん。何でもない朝の光景だった。けれど、振り返った後ろには、自分の足跡がはっきり見える気がした。
三月になると学校は短縮授業になった。教室のみんなは気が緩んでいて、おしゃべりも多かった。先生も特に注意しようとはしなかった。遥斗は真面目に授業を受けようとした。けれど身が入らなかった。ほんの数日前の張り詰めた空気は、教室にはもうなくなっていた。息の詰まる緊張からは解放されたものの、今度は別の不安もあって、遥斗は落ち着くことができなかった。
喉の奥にずっと大きな空気の塊があって、話すのも食べるのもいつもと違った。遥斗はそれが嫌で何度も深呼吸をしたり、水をたくさん一気に飲んでみたりした。けれど、どれもうまくいかなくてその違和感は消えなかった。ご飯をよく噛んでも、飲み込むときに気持ち悪いのど越しが残った。ラーメンでさえもつるんと気持ちよく通っていかなかった。
早く帰った家では、何も考えずに夜までシレンをやった。うまくいってもいかなくても、夕食の時間までひたすら無心で何度も繰り返した。気分転換に片付けたグッズを出そうかとも考えたけれど、それは違う気がした。
合格発表の前の日、喉の奥の空気の塊はいっそう大きくなった。短くて浅い呼吸が増えた。何をしても手につかなかった。自分が朝何を食べてどうやって学校に行き、何の授業を受けて家に帰ってきたのかも思い出せなかった。何も考えずに眠ろうと思って布団にくるまった。目を閉じて頭を空っぽにした。けれど、すぐに明日のことで一杯になってしまった。眠る方法を一生懸命考えたけど、自分が今までどうやって眠っていたかなんて知らなかった。
翌朝、遥斗はドアのノックで目を覚ました。
「遥斗。今日は発表の日でしょ?」
ドアの向こうから母親の声が聞こえる。握られていたスマホに気付いて、遥斗は今が何時かを確かめようとした。ホームボタンを押しても画面が暗い。電源ボタンを長押しすると、一瞬だけ0%と表示されてまた消えた。遥斗は「今行く。」とだけ答えて起き上がり布団から出た。眠い目をこすって机の上の時計を見ると七時だった。遥斗はもう一度右手の暗い画面を見る。充電スタンドにスマホを置いて、遥斗は部屋を出た。
階段を降りると、玄関には会社に出勤する父親がいた。
「遥斗。何も心配しなくていいからな。合格でもそうじゃなくても、お父さんもお母さんもお前の頑張りを近くで見てきたから。胸を張って堂々としてろ。」
父親はそう言って外に出て行った。「行ってらっしゃい。」とその背中に声をかけた。自然と口からこぼれたその言葉を、遥斗はずいぶん久しぶりに言った気がした。
朝食の納豆と目玉焼きを味噌汁で流し込んだ。美味しい。二杯目のおかわりは鮭フレークと海苔で食べた。
急いで制服に着替えてドアのノブに手をかけた時、スタンドの赤く光る充電ランプが目に入った。遥斗は少し止まってそのまま部屋を出た。




