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23.佐伯幸太郎

 「こんにちはー。これよろしくねー。」

 小学校の校門を出たところに立ち、佐伯は一人で飴付きの自作チラシを配っていた。今日は減るペースが早い。この分だと用意した50部は一時間もあれば配りきれそうだった。左手に持った束を右手にスライドさせて、佐伯は四人組の小学生に素早くチラシを持たせていく。

 「おうちの人に見せてね。ここに飴もあるから。」

 「はーい。」「俺飴だけもらうー。」

 わいわいと去っていく小学生の背中が眩しい。佐伯は無言でその一団を見送ると、紙袋からチラシを補充して校門へ視線を戻した。寒風吹きすさび、唇が割れ手は凍えた。地道で効果の薄い仕事でも、佐伯にとってこのチラシ配りが一番心が休まる時間だった。


 2月の中旬に公立高校の倍率が発表された。塾生たちの志望する高校の倍率を指でなぞって一つ一つ確認していく。1.26、1.02、1.12、0.98、1.06、0.83、1.09――

 一番の懸念だった東高校の倍率は1.09だった。これはGOだ。この数字で日和ってたら受かるものも受からない。

 「1.26…… こりゃまた難しい倍率だな。」

 K女子高校。山中なら難なくこの数字でも突破するだろう。問題は陽子だ。佐伯は頭を掻いた。

 「……どうしたもんか。」

 佐伯は高校名と倍率をメモすると、県の志願者倍率情報のページを閉じた。リップクリームを塗って立ち上がると、佐伯は換気扇のスイッチを入れてじっと両手の爪を見た。


 「陽子。この後少しだけ時間取れるか?」

 授業終わりの教室に生徒たちが少なくなったタイミングで佐伯は声をかけた。

 「何?」

 陽子は帰り支度の手を止めない。

 「保護者の方も一緒に。」

 「あたし、変えないよ。」

 陽子は顔を見せない。

 「うん。わかってるから。それも含めて一緒に話そう。」

 「……」

 黙って鞄に荷物を入れる陽子の肩を叩いて、山中は何も言わずに教室から出て行った。


 「正直に申し上げまして、こちらの1.26倍という数字は――」

 「あたし変えないからね」

 「陽子黙って。先生の話を聞きましょう。」

 母親が右手で陽子を制した。陽子は背もたれに寄りかかって不貞腐れている。

 「はい。1.26倍という数字は決して簡単な数字ではありません。

 ……不合格になる可能性も十分あり得ます。」

 佐伯は母親の顔を見た。母親が陽子に視線を送る。陽子は指を遊ばせていた。

 「……志望校の変更も現実的な選択肢として、もう一度考え直してみてください。」

 佐伯は頭を下げた。

 「……わかりました。家でこの子と一緒に話します。」

 教室を出て行く親子の足音はほとんど聞こえなかった。佐伯は気配が完全になくなるまで顔を上げられなかった。


 次の日の陽子はあからさまに佐伯を避けた態度を見せた。問題演習中に教室を見回る佐伯が近づくと、わずかに椅子の上で位置を変えて背中を見せる。佐伯が教卓で解き方の説明を終えて生徒を見渡していくと、視線を落とした。

 何でこうもわかりやすいのかね。

 「陽子。」

 帰り際にかけた声を無視して陽子は教室から出て行った。佐伯は大きなため息をついて、まだ残っていた山中を見た。佐伯の視線に気づいた山中は怪訝そうな表情を見せた。

 「山中、陽子に明日から一時間早く来いって伝えてくれ。明日からな、一時間。」

 「何それ。」

 山中は相変わらずクールだ。その目や醸し出す雰囲気に、夢中になる男子が多そうなのも思わず納得してしまう。

 「頼んだぞ。それから末永にも同じことを伝えといてくれ。よろしくな。」

 「は? 意味わかんないんですけど。」

 そうぼやく山中を置いて佐伯は事務室に向かった。


 果たして翌日、陽子は一時間早く塾にやってきた。迎えた佐伯を見ようとしない。山中も一緒だ。

 山中は来なくてもいいんだけどな。

 佐伯は早速二人を空き教室に放り込む。もちろんそこには遥斗もいた。

 「ちょっと待ってろ。」

 佐伯は事務室からプリントとコンビニの袋を取ってくると、不思議そうにこちらを見る三人に向き合った。

 「今日からこの一時間で二人にはこのプリントをやってもらう。俺はここにいるからいつでも声をかけて何でも聞いてくれ。あ、山中は自習してていいからな。」

 遥斗と陽子に用意したプリントを配る。陽子はプリントの表と裏を確かめた。山中は頬杖をついてこちらを見ている。遥斗はシャーペンを握って問題を読み始めた。佐伯は教卓に戻ると、コンビニの袋からおにぎりを取り出して食べ始めた。

 「今?」

 山中がぶっきらぼうにツッコむ。

 「しょうがないだろう。俺は本当は休憩中なんだ。今年は二人も頑固な受験生がいるからな。」

 佐伯は笑い話のように語って遥斗と陽子を見た。

 「……先生って、瞳のこと好きだよね。」

 陽子がボソっと口にした。

 「ああ、そうだなあ。俺は山中のことが大好きだなあ。山中は学年一位だもんなあ。」

 陽子が先生と呼ぶことに違和感があったが、佐伯は大げさに答えた。

 「ムカつく。」

 陽子は不機嫌そうな顔になった。山中は耳を赤くしてテキストを広げた。

 「俺は末永も好きだなあ。素直にコツコツやってきたもんなあ。」

 「え?」

 遥斗は驚いて一瞬止まった。

 「俺は陽子も好きだなあ。明るくてムードメーカーだけど、繊細な面も持ち合わせて思いやりのある――いつもの陽子が好きだなあ。」

 陽子の持つシャーペンが宙を彷徨っている。

 「陽子。志望校変える気ないんだろ? だったら死ぬ気でこの2週間やれ。4Q残り3分10点差、最後まで走り切って逆転してみせろ。」

 佐伯は陽子の机の前にしゃがみこんで正面から言葉を送った。

 「……」

 陽子は遊ばせていたペンを握ると勢いをつけてプリントに走らせた。

 「よーしその調子だ。」

 佐伯は教卓に戻ると、二つ目のおにぎりを頬張った。

 

 三月九日。いよいよ今日は公立高校の合格発表だった。佐伯は八時前に塾の駐車場に車を止めた。ソーラーパネルに反射した朝陽が眩しい。鍵を開けて中に入ると電気とエアコンのスイッチを入れた。電話の自動応答を切り替える。電気ケトルの水を入れ替えて、PCの電源を入れた。静音ファンが回り、起動音が流れる。佐伯は薄手のダウンジャケットに手を突っ込んでお湯が沸くのを待った。

 「おはようございます。」

 原田が少し遅れて出勤してきた。流石の原田の顔にも緊張が滲んで見える。

 「遂にこの日が来ましたね。」

 原田は鞄を置いてコートを脱いだ。

 「毎年毎年、この日は緊張せずにはいられませんね。」

 佐伯は笑顔を作ろうとしたが上手くいかなかった。

 原田は机の引き出しから大きな模造紙を取り出すと、ホワイトボードに広げた。三年生21人全員の名前が手書きで並んでいた。七人×三列。各生徒の名前の右側には余白が取ってある。合格の報告を受けたら赤い太ペンで花丸をつけていくのだ。丁寧にマグネットで貼り終えた原田は、腕を組んで満足そうだった。前時代的でアナログな方法だったが、原田らしくもあって気分が和んだ。

 「今年は誰が一番乗りですかね?」

 原田が振り返った。右手には既に赤ペンが握られている。

 「原田先生、ちょっと気が早いですよ。合格発表は九時からですよ。まだ一時間もあるんですから。」

 佐伯は窘めるように言った。スマホを机の上に出し、モニターには全画面でメールソフトを開いている自分も同じか。冷たくなったコーヒーを口に流し込んだ佐伯は思った。


 九時を過ぎると待ってましたとすぐに電話が鳴った。電話の前に陣取っていた佐伯が原田と顔を見合わせる。

はやる気持ちを抑えて、二回コールの音が鳴り終わってから受話器を取った。

 「はい。進学教室ガクシンです。」

 電話の向こうに頭を下げる佐伯が原田に向けて親指を立てる。原田は静かに手を叩いてペンの蓋を開けた。生徒の名前の隣に花丸が足された。

 一件目の電話が終わる前に今度はスマートフォンが振動する。受話器を耳に当てたまま佐伯は左手を机のスマホに伸ばした。その瞬間、左の脇腹に鋭い閃光が走って顔が歪む。佐伯は声を出さずにその場でもんどりうった。身体をくねらせて涙を流しながら受話器を置く。改めて原田にOKサインを送ると、不思議そうな顔をしていた原田は思いきり吹き出して笑った。佐伯はまだ痛む脇腹を揉みながら、「攣っちゃいました。」と照れ笑いを浮かべた。

 最初の報告を受けた後、朗報は堰を切ったように矢継ぎ早に舞い込んできた。ホワイトボードの赤い花がみるみる増えていく。塾の公式アカウントにも生徒たちから続々とメッセージが届いた。佐伯は電話の対応を原田に任せて、無理な姿勢を取らないように机に座ってメッセージを一つ一つ確認していく。短く一言だけのもの、掲示板の自分の番号を写した画像付きのもの、笑顔の自撮り、生徒一人ひとりの顔がはっきりと目に浮かぶ。それぞれ形は違っても送られてくる嬉しさは変わらなかった。噛みしめるように丁寧に確認する間にも、未読の数字は増えていった。

 電話が静かになり、届いたメッセージも全て読み終えた。花丸の数は18。報告がなく、合否不明な三人は山中、陽子、遥斗の三人だ。並んだ名前を見て不吉な考えが頭を過った。額に嫌な汗が滲む。(いや、まさかな。)佐伯は念のためメールソフトを更新してみた。――新着メッセージはありません。スマホのホームボタンに人差し指で触れ、待ち受け画面を見る。2035/03/09 10:25。通知は何もなかった。背筋に冷たいものが走った。

 「……佐伯先生どうします? 私お家に連絡してみましょうか?」

 居ても立っても居られない原田は、胸の前で祈るように両手を組んでいた。

 「いや、待ちましょう。」

 電波が悪くて繋がらないだけかもしれない。通信制限がかかってて使えないだけかもしれない。何の根拠もなかったが、そういう可能性もあると自分に思い込ませて平静を保つしかなかった。

 さっきまでは全く聞こえなかったファンの音が耳につく。エアコンは思い出したようにフル稼働を始めたようだ。佐伯は首を振った。しかし頭はうまく働かなかった。三世代前のグラフィックカードでフレームレートを最高値に設定してしまった時のように、佐伯の脳は激しい処理落ちを起こしていた。

 スマホの画面が明るくなり、一瞬遅れて振動した。反射的に右手に持った画面に目を向ける。――黒瀬陽子。

 指紋認証でメッセージを開く。

 陽子から送られて来たのは、この塾の写真だった。コンビニの面影が色濃く残る建物と、駐車場の端に止められた古い軽自動車。遠くから撮られた一枚らしく窓の掲示物はよくわからなかったが、間違いなくこの塾の写真だった。

 佐伯は画像の意味するものがわからなかった。(何故今この写真を……?)

 !

 直感的に閃いた佐伯は外に向かって走り出した。

 「陽子!」

 外には右手でスマホを構えた陽子がいた。隣には山中もいる。二人とも制服を着て晴れやかな顔をしていた。

 「陽子。お前。」

 佐伯がその場から動けずにいると二人は目を合わせてからVサインを作った。

 「マジか。」

 崩れ落ちそうになる膝をなんとか踏ん張ってこらえた。良かった。佐伯は肺の中の空気をいっぺんに全部吐き出した。

 「ビビらせないでくれよ、ほんと。結果がどうあれ連絡入れろと言っただろう?」

 「瞳がね、直接言いたかったんだって。」

 山中、お前の仕業か。二人が並んでこちらへ来る。

 「先生。合格しました。ありがとうございました。」

 山中は深々とお辞儀をした。

 「ああ。合格おめでとう。山中のことは何も心配してなかったよ。」

 佐伯は山中を労った。

 「あたしも合格しました。ありがとうございました。」

 陽子も腰を折って頭を下げた。

 「おめでとう。」

 そう口にしたはいいが、聞かずにはいられなかった。「お前本当に合格だったのか?」

 顔を上げた陽子がスマホを高々とかざす。画面には掲示板の数字が並んでいた。中央には確かに陽子の受験番号が写っていた。

 「よくやった。よくやったな二人とも。本当に合格おめでとう。」

 佐伯は力いっぱい手を叩いて祝福した。

 山中と陽子の二人は遅れてやってきた原田にも合格を報告する。原田は二人とハグをして背中を優しくたたいた。その光景に涙が零れてしまいそうになった。

 「じゃああたしたち学校戻らなきゃだから行くね。」と言って二人は学校の方へと歩いていった。途中で陽子が振り返り大きく手を振る。佐伯も原田もそれに応える。山中は小さく頭を下げた。遠ざかる二人の後ろ姿にはいつまでも光が当たって見えた。佐伯は見えなくなるまで見送った。


 事務室に戻るといくらか落ち着くことができた。目に入った時刻は10:41。埋まっていない名前は残り一つ。佐伯はスマホに新しい通知がないことを確認した。右手でマウスを動かして、PCのAIをクリックしてログを開く。振り返って原田を見ると、ペンの蓋を閉じて花丸をつけ終わったところだった。

 「電話してみましょう。こっちでちょっと携帯にかけてみます。」

 佐伯はスマホを耳に当てる仕草をした。原田は「私も家の方にかけてみます。」と子機を手に取った。

 電話帳を開いてスライドさせ遥斗の番号を選んでタップする。スピーカーの奥からコール音が聞こえた。電話は生きている。頼む出てくれ。佐伯のスマホを持つ手に力が入った。原田も受話器を耳に当てたまま右に左に落ち着きがない。佐伯はコール音を20回聞いてから電話を切った。原田の方にも当たりはなかったようだ。

 「……留守みたいですね。」

 原田は持っていた子機をスタンドに戻した。

 「こっちは呼び出し音は鳴るんですけどね、出ないです。留守電にも切り替わりません。」

 佐伯は手のひらを上にして両手を肩の位置まで上げた。同時に遥斗に何かあったかもしれないという考えが現実味を増してきた。胃の中に突然石が湧いたような不快な違和感が現れる。時間を置いてもう一度かけてみたが、やはり繋がらなかった。

 佐伯は保護者から送られてきていた長文のメールに返信をしていた。他にすることがなかったというのもあるが、手を動かしていたかった。文面が浮かんでこずにタイピングの手が進まない。AIに代わりに考えてもらおうかとも思ったが、そういう気にはならなかった。佐伯は背もたれに寄りかかると、背中を伸ばして息を吐いた。天井の模様に意味を探して、上手くいかずに諦めた。

 痺れを切らした原田が「お昼買いに行ってきます。」と言って鞄を持って外に出て行った。11:23。佐伯は自動ドアが閉まる音を聞いてから、立ち上がって換気扇を回した。ホワイトボードに並んだ20の花を一つ一つ数える。一年の記憶が一人一人の名前に紐づいて湧き上がってくる。火をつけた煙草のフィルターを焦がす匂いがして、佐伯は吸い殻を灰皿に押し付けた。灰皿をしまおうと引き出しを開けた時、自動ドアの開く音がした。

 (お? 原田先生ずいぶん早いな。)

 「こんにちは。」

 低く乾いて聞き取りにくい声がした。

 反射的に駆け出す。

 事務室の前に遥斗の姿があった。

 「遥斗!」

 この馬鹿野郎が! この時間までどこをほっつき歩いてたんだ! 何を考えてやがる!

 「……遥斗。どうした?」

 佐伯は喉から勝手に飛び出して行こうとする言葉を抑えて聞いた。

 「あの、合格だったんで。」

 合格だと?! 合格なら何でそれを報告しないのか!

 「……そうか。おめでとう。」

 佐伯は遥斗の両肩を掴んで前後に揺らした。「連絡がなかったから、心配してたんだ。」

 「えっと、スマホ持ってなくて。」

 スマホがなくても連絡する手段はあるだろうが。

 「そうだったのか。公衆電話とか誰かに借りるとか考えなかったんだな。」

 「あ、はい…… 高校まで行って、番号見て、合格で、それで学校に一回戻って……」

 佐伯はたどたどしく答える遥斗を抱き寄せて、その背中を叩いた。

 「おめでとう! よくやった。よくやったよ本当に。」

 佐伯はそれ以上の言葉が出てこなかった。

 「ありがとうございます。」

 佐伯は身体を離して改めて遥斗を上から下まで眺めた。うんうんと無言で頷く。

 「……それでスマホを持って出なかったんだな。」

 「あの…… 充電なかったから。」

 「よし、受験票は持ってるな?」

 佐伯は遥斗から受験票を預かると、PCで東高校の速報サイトを開いた。遥斗の言葉を疑っているわけではない。この目で確かめたかった。数字の並ぶ画面の中から、手に持った受験票に記された番号を探す。

 手元とモニターを2度確認して笑みがこぼれた。傍らの遥斗の肩を無意識に叩く。

 「おめでとう!」

 心から遥斗を祝う言葉が出た。

 受験票を鞄にしまい、自転車の鍵をまさぐる遥斗について事務室を出た。

 「卒業式の日、お祝い会あるからな。お前も来いよ。」

 遥斗は振り返ってコクリと小さく首を縦に振った。佐伯は自動ドアに手をかけて自転車にまたがる遥斗を見ていた。その顔には不敵な笑みを浮かべている。

 「遥斗! まだ糸井凛子は好きなのか?」

 漕ぎだしたペダルを止めてブレーキを強く握った遥斗が、目を見開いてこちらを振り返ろうとしているのが見えた。

 佐伯は何も言わずに事務室へ戻った。

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