第三話「名前はまだ、雪の途中」
4話まで一気に投稿します。
朝になっていた。
……と言っても、カーテンの隙間から差し込む光がそう言っているだけで、和雄にとってはまだ「夜の延長」みたいなものだった。
「起きてるか」
ソファの方に声を投げる。
返事はない。
代わりに、かすかな気配。
見ると、女――雪女は窓際に立っていた。
カーテンを少しだけ開けて、外を見ている。
日差しが当たっているはずなのに、そこだけ温度が低い気がする。
「溶けないのか」
和雄が聞く。
「溶けない」
振り返らずに答える。
「ちょっと弱るけど」
「便利なのか不便なのか分からんな」
「不便」
即答。
和雄はコーヒーを淹れる。
豆を挽く音が、静かな部屋に広がる。
雪女が振り返る。
「それ、好き」
「匂いか?」
「うん」
「飲むか?」
「いらない」
昨日と同じやり取り。
少しだけ、形ができてきている。
和雄はマグを手にして、テーブルに座る。
「で」
一口飲む。
「名前、どうする」
雪女は少しだけ首を傾げた。
「必要?」
「あると便利だ」
「どう便利?」
「呼べる」
それだけ言う。
雪女は少し考えて、
「じゃあ必要」
と結論を出した。
単純だ。
「なんかあるのか、希望」
「白いのがいい」
「ざっくりしてるな」
「あと、冷たい感じ」
「そのままだな」
和雄は顎に手を当てる。
しばらく考える。
(雪、白、冷たい……)
安直すぎると面白くない。
でも変に捻ると、この女に合わない。
「……ユキ」
とりあえず口に出してみる。
雪女は反応しない。
「普通すぎるか」
「普通ってなに」
「よくあるってことだ」
「よくあるのはだめ?」
「だめじゃないけど」
和雄はもう一口コーヒーを飲む。
少し苦い。
「お前、長く生きてるんだろ」
「うん」
「じゃあ、名前くらいちょっと特別でもいい」
雪女はじっと見ている。
「特別って?」
「呼ばれたときに、お前だって分かるやつ」
しばらくの沈黙。
時計の音。
遠くの車の走る音。
雪女がぽつりと言う。
「じゃあ、それがいい」
「どれだよ」
「まだないやつ」
無茶を言う。
和雄は笑う。
「注文多いな」
「だって初めてだから」
その言葉に、少しだけ引っかかる。
初めて。
名前も、恋も、多分全部。
和雄はテーブルに指でリズムを刻む。
トン、トン、と静かに。
ふと、窓の外を見る。
冬の空は薄く青い。
「……シラ」
口から出た。
雪女が少しだけ反応する。
「しら?」
「白、の音を少しだけ残した」
「うん」
「で、軽いだろ」
「軽い?」
「呼びやすい」
雪女はその音を繰り返す。
「シラ」
少しだけ間を置いて、
「シラ」
もう一度。
今度は少しだけ、温度が乗った。
「どうだ」
雪女――シラは考える。
長く、静かに。
やがて、こくりと頷いた。
「いい」
「そうか」
あっさり決まる。
「今日からシラだな」
「うん」
シラは自分の名前を、もう一度小さく呟く。
「シラ」
その音が部屋に落ちて、ゆっくり馴染んでいく。
まるで最初からそこにあったみたいに。
和雄はその様子を見ながら、ふと思う。
(……名前がつくと、違うな)
ただの“何か”じゃなくなる。
そこにいる理由が、少しだけ輪郭を持つ。
シラがふと顔を上げる。
「ねえ、和雄」
「なんだ」
初めて名前を呼ばれる。
少しだけ、くすぐったい。
「恋、どうするの」
現実に引き戻される。
和雄は肩をすくめる。
「そうだな」
少し考えてから、
「まずは人間に慣れろ」
と言った。
「慣れる?」
「そうだ。会話とか、距離とか」
シラは首を傾げる。
「あなたとはできてる」
「俺は例外だ」
「なんで」
「……なんとなくだ」
自分でもよく分からない。
でも確かに、普通じゃない。
「他のやつとも話してみろ」
和雄は続ける。
「コンビニの店員でもいいし、その辺の客でもいい」
「食べてもいい?」
「だめだ」
即答。
「恋する前に終わる」
「そっか」
少しだけ残念そうに言う。
和雄は苦笑する。
「まずはな」
指を一本立てる。
「“好きになる”ってのがどういうもんか、覚えろ」
シラはその指をじっと見る。
「分からない」
「だろうな」
「どうなるの」
和雄は少し考える。
言葉を探す。
でも、うまく出てこない。
代わりに、こう言った。
「……気づいたら、そいつのこと考えてる」
シラは瞬きをする。
「今みたいに?」
「いや、それは違う」
「違うの?」
「ああ」
きっぱり言う。
シラは少しだけ不満そうに目を細めた。
「じゃあ分からない」
「そのうち分かる」
和雄はコーヒーを飲み干す。
カップを置く音が、小さく響く。
「まあ、焦るな」
「焦ってない」
「ならいい」
シラはまた窓の方を見る。
昼の光の中で、その輪郭は少しだけ薄い。
でも確かにそこにいる。
名前を持った存在として。
「シラ」
和雄が呼ぶ。
「なに」
すぐに返事が来る。
その速さが、少しだけ嬉しい。
「今日は外、行くぞ」
シラが振り返る。
「恋?」
「いや」
和雄は軽く笑う。
「その前段階だ」
夜じゃない街に出る。
人間の中に混ざる。
そして――
誰かを、好きになる練習。
シラは小さく頷いた。
「分かった」
その目は、少しだけ楽しそうだった。
シラは距離感が分かっていないですからね〜
これから慣れないと恋もできないぞシラ




