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第8章 未完成の約束

七月の終わりに、美夏(みなつ)は十一歳になった。


 ルイと電話で話した翌日のことだった。


 朝倉家はいつものように朝を迎えた。理沙がケーキを焼いた。陽翔(はると)が誕生日のカードを用意していた。夏生(なつき)は出張で戻れないかもしれないと言っていた。


 でも昼過ぎに、玄関のチャイムが鳴った。


 ドアを開けると、夏生がスーツケースと花束を両手に持って立っていた。


「嘘、帰ってきてたの」と理沙が笑った。


「帰れたから。サプライズ」


「先に離れに荷物置いてきなさいよ」


「いいから。お祝い先」


 理沙が「もう」と言いながら、ドアを大きく開けた。夏生がスーツケースを引きずったまま上がり込んで、花束を美夏に差し出した。黄色いものと白いものが混ざっていた。


「ありがとう、にぃに」


「十一歳か」と夏生は言った。「早いな」


 食卓を囲んで、ケーキを食べた。川の音が窓の外でいつものように続いていた。家の中の光は穏やかで、笑い声も小さくあった。


 でも美夏は、テーブルの下でずっと、自分の手を見ていた。


 昨日、るいとの声を聞いた手だった。


 なくさない、とるいとは言った。みーちゃんのパートも、ちゃんと持っていく、と。


 その言葉が、まだ指先のあたりに残っていた。


 ケーキの蝋燭を吹いた。煙が細く上がって、消えた。


 新しい年齢が、そうやって始まった。


-----


 ルイがいなくなってから、最初の土曜日。


 美夏はひとりで教会へ行った。


 理沙が「一緒に行こうか」と言ったが、美夏は「ひとりがいい」と言った。理沙はすこし迷ってから、「分かった」と言った。


 村の道を歩いた。アイ川の音が橋の下から上がってきた。草は夏の色に変わっていた。


 教会の前に着いた。


 石段の下に立って、しばらく何も思わなかった。ただ、ここに来た。それだけだった。


 扉を押した。内側の空気が変わった。石の冷たさと古い木の匂いが混ざった、いつもの空気だった。


 窓から光が斜めに入っていた。


 美夏はケースを下ろして、ゆっくりと開けた。弓を取り出した。チューニングした。それからしばらく、何も弾かずにそこに立っていた。


 弾き始めたのは、自分の練習曲だった。


 音が石に当たって、戻ってきた。ひとりの音は、合わせたときとは違う。でも教会は同じように受け取って、同じように返してくれた。


 途中で、「海と光」の最初の数小節を弾いた。


 止まった。続きが分からなかった。いや、分からないのではなかった。ただ、続きはまだここにない、という感じがした。


 弓を下ろして、楽譜をしまった。


 それから残りの時間を、自分の曲だけで弾いた。


 教会を出ると、川の音がすぐに戻ってきた。石段を下りて、村の道を歩いて家に帰った。


 翌週も来た。その翌週も来た。


 美夏はここへ来ることをやめなかった。


-----


 秋になると、ウィリアムズ先生が珍しく静かになる時間があった。


 美夏が音階を弾き終えて、次の曲に入ろうとしたとき、先生はしばらく何も言わなかった。


「みーちゃん」と先生は言った。「今のA線、もう一度弾いてみて」


 美夏は弾いた。


「そこ、どうして少し遅くしたの」


「……音が変わる気がしたから」


「どんなふうに」


 美夏はすこし考えた。「急ぐと、音が薄くなる気がして。待ったほうが、石みたいになる」


 先生はそれを聞いて、また少し黙った。


「石みたいに」とくり返した。「なるほど」


 それきり何も言わずにレッスンを続けたが、そのあと理沙に短く話しかけた。美夏には聞こえなかった。理沙の表情が、すこしだけ変わったのだけが見えた。


 その夜、陽翔と理沙が何かを話していた。美夏には全部は聞こえなかった。ウィリアムズ、という名前と、ウィーン、という言葉が、低い声の中に混ざっていた。


 美夏は自分の部屋で、ケースを開けたまま天井を見ていた。


 ウィーン、と口の中でくり返した。


 何かが遠くで動いている感じがした。まだ形にはなっていない。でも、そこにある。


 川の音が窓の外で続いていた。


-----



 日本の冬は、乾いていた。


 ロンドンの湿った空気に慣れた僕の身体には、最初のうちは奇妙な感じがした。母の故郷の街は小さく、山が近く、冬になると白くなった。


 母はここで少しずつ落ち着いてきた。


 言葉が日本語に戻ると、表情がやわらかくなった。幼馴染に会い、子どもの頃に通った店に入り、知っている匂いの中に戻った。それだけで、何かが解けていくのが分かった。


 でも夜はまだ、時々ひどかった。


 父の夢を見るのだと、母は言った。目が覚めると隣にいないことに気づいて、泣いていることがある、と。そういう夜は僕が母の部屋へ行って、ただ隣に座った。何も言わなかった。それでよかった。


 演奏の仕事は、断った。


 一件だけ受けようとしたとき、母が玄関で立ちすくんでいた。出かけることを言ったわけではない。ただケースを持っていたら、それだけで分かったのだと思う。


 引き返した。


 ケースを部屋に置いた。翌日、仕事を断った。


 音楽をやめたわけではなかった。部屋で毎日練習した。作曲の依頼は、在宅でできる範囲だけ続けた。それで十分だった。今は、それだけでいい。


「海と光」は、鞄の底に入ったままだった。


 何度か開いた。みーちゃんのパートを見た。伸ばすところがある。もっとひかりを細くする、と言っていた。その言葉はまだ、紙の上に残っていた。みーちゃんと合わせた翌日、少しだけ手を入れていた部分があった。光をもっと細かくしようとした跡が、書き直した線の上に残っていた。


 でも続きが書けなかった。


 書けない、というより、ここで書くものではない気がした。この曲はロウアー・スローターの石と、アイ川と、あの教会の空気でできている。それをここで無理に続けても、別の曲になってしまう。


 だから、待った。


 待つ、という感覚は初めてだった。演奏家として生きてきて、常に次へ向かっていた。でも今は、待つことが唯一正しい気がした。


-----


 春になって、夏生から連絡が来た。


 ネスティアの仕事で名古屋へ行く用事があるから、ルイのところへ寄ってもいいか、と言った。


 来てくれ、と僕は言った。


 夏生が来たのは、午後の遅い時間だった。母の実家の近くに借りている小さな家で、僕は玄関を開けた。夏生は仕事帰りのまま、鞄を持って立っていた。


「遠かっただろ」と僕は言った。


「名古屋から一時間半くらい。大したことない」


 部屋に上がってもらって、お茶を出した。夏生は部屋を少し見回した。楽譜の束が積まれていた。机の上には鉛筆が何本か転がっていた。


「みーちゃんは元気?」と僕は聞いた。


「元気だよ。でも、教会に行き続けてる」


「ひとりで?」


「ひとりで。毎週欠かさず」


 それを聞いたとき、胸の中で何かが動いた。


「ウィリアムズ先生が、少し前から何か言ってるらしい」と夏生は続けた。「まだ具体的じゃないけど、進路の話が出始めてる」


「そうか」


「美夏は、僕のこと、聞いてくる?」と僕は聞いた。


「たまに聞くよ」と夏生は言った。「『るいとは元気?』って。ただそれだけ。引きずってる感じじゃなくて、どこかに置いておく感じで聞いてくる」


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 窓の外に、春の光が平らに続いていた。


 そのとき、奥の部屋から母の声がした。


「ルイ」


 低く、でも呼ぶ声ははっきりしていた。夏生がいることは伝えてあった。それでも、少し経つと、また呼んだ。


「すぐ行く」と僕は母の部屋の方向へ言った。それから夏生を見た。「少し待ってもらえるか」


「もちろん」


 母の部屋へ行って、隣に座った。何があったわけではなかった。ただ、声がしなくなると不安になる、と母は言った。ここにいる、と僕は言った。しばらくそうしていた。


 戻ると、夏生は窓の外を見ていた。何も聞かなかった。


「見ての通りだ」と僕は言った。


「うん」と夏生は言った。それだけだった。


 鞄を開けて、楽譜を取り出した。くしゃくしゃに折り目がついた紙を、丁寧に広げて、夏生の前に置いた。


「これ、みーちゃんに渡してほしい」


 夏生は楽譜を見た。


「海と光」


「まだ途中。でも、みーちゃんが言ってたところ、変えようとした跡がある。光をもっと細くしようとした部分」


 夏生はしばらく楽譜を見ていた。


「渡していいのか」


「約束したから」と僕は言った。「なくさない、って。ちゃんと持ってる、って。それを、形で渡したかった」


 夏生は楽譜を受け取って、丁寧に折って、鞄のポケットに入れた。


「分かった」


「完成したら、また持っていく」と僕は言った。「それはまだ先になるけど」


 夏生はお茶を飲んだ。それから、「ゆっくりでいいよ」と言った。「みーちゃんも、どこにも行かないから」


 夏生が鞄を持って立ち上がり、部屋を出ようとしたとき、机の脇をかすめた拍子に、鉛筆が一本床に落ちた。


「あ」と夏生が拾った。


「持っていってくれ」と僕は言った。


「え?」


「楽譜と一緒に。書くときに使ってたやつだから」


 夏生はすこし間を置いてから、楽譜を入れた鞄のポケットに、鉛筆も一緒にしまった。


 何も言わなかった。でも、受け取ってくれたのが分かった。


-----


 夏生が帰ってきたのは、初夏の夕方だった。


「みーちゃん、ちょっといいか」


 美夏は本を読んでいた。夏生が隣に座って、折りたたんだ紙を差し出した。


「ルイから」


 美夏は紙を受け取った。広げた。


 楽譜だった。


 見たことのある旋律だった。「海と光」の、みーちゃんのパートだった。でも、最初に渡されたものとは少し違っていた。のばすところに、細かい指示が書き加えられていた。光をより細かく、滑らかにしようとした跡が、書き直した線の上に残っていた。


 美夏はしばらく、その紙を見ていた。


「るいと、元気?」


「元気だよ。仕事もしてる。ただ、今はまだ動きにくい状況が続いてる」


「お母さん、まだつらい?」


「少し落ち着いてきてるって。でも、もう少し時間がかかる」


 美夏はもう一度楽譜を見た伸ばすところの、書き直した跡を指でなぞった。


「覚えてたんだ」


「覚えてたんだと思う」


 美夏は楽譜を丁寧に折って、ケースのポケットに入れた。


 そのとき、夏生がポケットから短い鉛筆を一本取り出した。


「あー。そうだ、これ、楽譜の間に挟まってたんだっけ」と夏生は言って、にっと笑った。


 美夏は鉛筆を受け取った。短く、何度も削った跡があった。先がすこし丸くなっていた。


 古いメモが指先に触れた。くしゃくしゃになった、るいとの字のメモ。


 楽譜はその隣に収まった。鉛筆も、そこに入れた。


 みっつが、同じ場所にあった。


-----


 ウィリアムズ先生が、秋のレッスンの終わりに理沙を呼んだ。


 美夏はケースを片付けながら、ふたりの話がすこし聞こえた。


 プレカレッジ、という言葉が聞こえた。ウィーン、という言葉も。オーディション、それから、来年の秋、という言葉も。


 美夏は手を止めた。


 先生がこちらを見た。


「みーちゃん、聞こえてたでしょ」


「……すこし」


「どう思う?」


 美夏は先生を見た。それから理沙を見た。理沙は何も言わなかったが、答えを急かさない目をしていた。


「行きたい」と美夏は言った。


 声は小さかった。でも迷っていなかった。


「るいとのため、じゃなくて」と理沙が静かに聞いた。


 美夏はすこし考えた。


「自分の音のため」


 理沙がすこし目を細めた。


 先生が「分かった」と言った。「じゃあ、準備を始めましょう」


 その夜、家族で食卓を囲んだ。夏生も来ていた。


 陽翔が「ウィーンのことは、ちゃんと調べてみよう」と言った。理沙が「オーディションの日程を先生に確認しないと」と言った。


 夏生は珈琲を飲みながら、「じゃあ俺も近くに部屋借りるか」と当然のように言った。「ネスティアの鬼CEOのしごきのおかげで、どこにいても仕事こなせるようになったしな」


 陽翔が小さく咳払いをした。


「最初からそのつもりだったでしょ」と理沙が返した。


「みーちゃんが一人で行くのに、何もしないわけにいかないだろ」


「にぃに、ついてきすぎ」と美夏は言った。


「ついてくんじゃなくて、近くにいるだけ」と夏生は言った。「みーちゃんは寮だろ。俺は別のアパート。仕事はどこでも回せるから」


 美夏はすこし考えてから、「……まあ、いいか」と言った。


 夏生が「ありがとう」と言って、また珈琲を飲んだ。


 理沙が笑った。陽翔も、すこし笑った。


-----


 その夜、美夏はケースを開けた。


 楽譜を取り出した。「海と光」の、まだ途中の楽譜。


 弾いてみた。


 伸ばすところで、少し待った。急がなかった。音は部屋の中にひろがって、窓の外で続いているアイ川の音に、ゆっくり溶けていった。


 まだ完成していない。でも、そこに続きがある。


 それだけで、十分だった。


 それから、いくつかの季節が過ぎた。オーディションがあり、準備があり、書類があり、また練習があった。時間はゆっくりと、でも確かに積み重なっていった。


 十三歳の秋、美夏は旅立った。


 前の日の夜、荷物をまとめた。ケースは最後に確認した。弓、松脂、チューニングペグ。メモと楽譜と鉛筆がポケットにある。全部、ある。


 当日の朝、空気は涼しかった。


 ロウアー・スローターの家の庭で、ハニーサックルがまだ少し残っていた。川の音が、橋の向こうからいつものように聞こえていた。


 陽翔が玄関に立っていた。理沙は目が赤かったが、笑っていた。


 夏生が「荷物、持つよ」と言った。


「自分で持てる」と美夏は言った。


「知ってる」と夏生は言った。「でも、持たせてくれ」


 美夏はすこし考えてから、「じゃあ、これだけ」と言って、一番小さなバッグを渡した。


「それケーブル類しか入ってないやつじゃないか」


「うん」


 夏生が笑った。理沙も笑った。陽翔も、すこし笑った。


 美夏はもう一度、庭の奥を見た。光が庭に入ってきていた。川の音が続いていた。石造りの家の壁が、朝の色を受けていた。


 教会は村の奥に、今もあるはずだった。


 全部を胸に入れて、美夏は玄関を出た。


 ケースは自分で持った。歩いた。川の音が後ろに遠ざかって、それでもまだ、しばらく聞こえ続けた。


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