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第7章 来なかった土曜日

 七月の朝は、六月よりすこし重い。


 光の色がちがう。庭の奥まで届くのに、どこか白みがかっていて、ハニーサックルの花が先週より開いていた。川の湿り気がそのまま家の中に入ってくる感じは、同じだった。


 美夏(みなつ)はキッチンのテーブルの前に立って、ケースを開けていた。


 松脂、弓、チューニング。順番は決まっていた。手が迷わなかった。でも今朝は、それをしながら別のことを考えていた。


 伸ばすところ、もっと細くできる気がする。


 光みたいに、とるいとに言った。そう、とるいとは短く言った。その短さが、ちゃんと受け取ってくれた感じがした。


 だから今日、もう一度やってみたかった。


「みーちゃん、今日は俺が行くよ」


 奥から夏生(なつき)の声がした。陽翔(はると)がコーヒーカップを持ったまま、ダイニングから顔を出した。


「午前中、外せない打ち合わせが入った。夏生が行ってくれる」


「うん」と美夏は言った。ケースのファスナーを引いた。


 夏生がシャツの袖をまくりながらキッチンに来た。


「みーちゃん、準備できてる?」


「できてる」


「楽譜は?」


「入ってる」


「じゃあ行こうか」


 理沙がカップを片手に、ドアのほうへ目をやった。


「行ってらっしゃい。夏生、ありがとうね」


「いいよ。どうせ今日、暇だし」


 夏生はそう言ったが、美夏には少し嘘っぽく聞こえた。暇じゃないと思う、とは言わなかった。


 玄関を出た。


-----


 村の道を、夏生と並んで歩いた。


 先に行こうとしたら、「一緒に歩こう」と夏生が言ったので、並んだ。アイ川の音が、いつもより少し遠くに聞こえる気がした。草が暑さで少し重たく垂れていた。


「先週から弾いてる曲、なんて言ったっけ」と夏生が聞いた。


「海と光」


「そうそう。ルイが作ったやつ」


「まだ途中。るいとが直してくるって言ってた。わたしも、直したいところある」


「どこを?」


「伸ばすところ。もっと細くできる気がする」


 夏生がすこし笑った。「みーちゃん、それ本人に言ったの?」


「言った」


「なんて言ってた」


「そう、って」


「短いな」


「でもちゃんと聞いてた」


 夏生はそれきり何も言わなかった。橋を渡った。川が下で光っていた。美夏はケースの肩紐を握り直して、少し先を見た。


 教会の石の屋根が、木立の向こうに見えていた。


-----


 教会の前に着いた。


 石段がいつものように続いていた。ドアは閉まっていた。ルイはまだ来ていなかった。


 美夏は石段の下で、村の道の奥を見た。川が光を細く返している、その方向を。先週、ルイが立っていた場所だった。


「まだ来てないね」と夏生が言った。


「うん」


「何時だったっけ、約束」


「十時」


 夏生がスマートフォンを確認した。「あと五分あるな」


 美夏は石段に腰を下ろした。ケースを膝の上に置いた。川の音が、橋のほうからずっと続いていた。


 五分が過ぎた。


「るいと、時間まちがえたのかな」


「かもしれない」と夏生は言った。声は軽かった。


 もう五分経った。


 美夏はまだ道の奥を見ていた。誰も来なかった。石段の石が、じりじりと熱くなってくるのが分かった。


「直してくるって、言ってたから」と美夏は言った。


 夏生は何も言わなかった。


「曲、直してくるって。だから今日また、続きをやるはずで」


「うん」


「まだ来るよね」


 夏生がすこし間を置いた。「電話してみるよ」


 スマートフォンを取り出して、番号を呼び出した。


 しばらく鳴った。出なかった。


 もう一度かけた。出なかった。


 夏生がメッセージを打った。手元を見たまま、何も言わなかった。美夏はその横顔を見ていた。さっきと少し、表情が変わっていた。


「にぃに」


「うん」


「るいと、来る?」


 夏生は少し間を置いてから、「もう少し待ってみよう」と言った。


 美夏はまた道の奥を見た。川の音だけが続いていた。教会のドアは閉まったままだった。


-----


 家に戻った。


 戻る、と夏生が言ったとき、美夏は何も言わなかった。ケースを持って、立った。それだけだった。


 村の道を、来たときと同じように歩いた。夏生は何も言わなかった。美夏も言わなかった。川の音が、橋の下で同じように流れていた。何も変わっていなかった。ただ、教会には入らなかった。


 家のドアを開けたとき、理沙がキッチンから出てきた。


 夏生を見て、それから美夏を見た。


「どうしたの」


「来なかった」と夏生は言った。


 理沙の顔がすこし止まった。陽翔が奥から出てきた。


「ルイが?」


「電話も出ない。メッセージも返ってこない」


 短いやりとりが、部屋の中で小さく響いた。美夏はケースを持ったまま、そこに立っていた。置く場所を、まだ決めていなかった。


 理沙が「とりあえず座って」と言った。美夏はテーブルの椅子に座った。ケースは膝の上に持ったままにしていた。


 大人たちは、低い声で何か話した。美夏には全部は聞こえなかった。夏生が「念のため確認してみる」と言って、また電話をかけていた。


 川の音が、窓の外でまだ続いていた。


-----


 午後になって、夏生のスマートフォンが鳴った。


 出たのは別の部屋だったので、美夏には声がよく聞こえなかった。短く、何度か返事をしているのが分かった。それだけだった。


 夏生が戻ってきたとき、理沙が目で聞いた。


 夏生はすこし間を置いてから、「事故があったって」と言った。


 理沙が小さく息を吸った。


「ルイは?」


「本人は大丈夫。お父さんが……。お母さんも怪我をしてる」


 それきり、部屋が静かになった。


 美夏は椅子に座っていた。ケースはいつのまにか横に置いていた。大人たちの声が、今度は言葉になる前にとけていく感じで、遠かった。


 来なかった。


 来るはずだった。直してくると言っていた。続きがあるはずだった。


 でも、その日、るいとは来なかった。


-----



 みーちゃんと「海と光」を合わせた日から七日目の、土曜日の朝だった。


 事故の連絡が来たのは、教会に向かうはずだった時刻の、少し前だった。病院に着いたとき、父はもういなかった。母は手術室にいた。廊下の椅子に座って、僕はただそこにいた。


 悲しむ前に、やることがあった。


 保険の手続き、葬儀社との打ち合わせ、書類へのサイン。僕の名前を書くたびに、少し遠い感じがした。でも手は動いた。動かすしかなかった。


 母が個室に移ったのは、二日目の夜だった。


 身体の怪我は、時間が解決する、と医師は言った。ただ、心のほうが、と言って、医師はすこし言葉を選んだ。不安定になっている。夫を突然失った衝撃が大きい。なるべく、そばを離れないように気をつけること。


 夜、母の病室に座っていると、母は「帰りたい」と言った。


「どこへ」と聞くと、「日本に」と言った。


 母の故郷は、日本の中部の小さな街だった。父と出会う前、長い時間を過ごした場所だ。英語で考えることが、今は辛い、と母は言った。日本語で、知っている人のそばにいたい、と。


 断れない、と思った。


 母がそこへ帰りたいと言うなら、僕はそこへ行く。それだけのことだった。


 手続きが動き始めると、早かった。まだ父が死んだことが現実になっていないうちに、様々なことが息を継ぐ間もなく決まっていった。


 航空券、荷物、住む場所の手配。母の友人が日本から連絡をくれた。いくつかの電話を受けて、いくつかを折り返した。気づくと夜になっていた。窓の外が暗くなっていても、まだ何かをしていた。


 そのあいだずっと、頭のどこかに「直してくる」という言葉があった。


「海と光」の楽譜が、鞄の底に入っていた。病院にも、一緒に持ってきていた。みーちゃんのパートがある。のばすところがある。もっとひかりを細くできる気がする、とみーちゃんは言った。


 でも、鞄から出せなかった。


 三日目の夜、朝倉家にもう一度電話した。


 出たのは理沙さんだった。事故のこと、約束を守れなかったこと、母の心がかなり不安定になっていること、母が故郷の日本に帰りたがっていること、自分も一緒に行くことになること。できるだけ短く、でも必要なことだけを話した。今はまだみーちゃんに直接は話せないこと。もう少し待ってほしいこと。


 理沙さんは静かに聞いていた。それから、「お母さんのこと、日本のこと、私からみーちゃんに話しておくね」と言った。「落ち着いたら、今度はみーちゃんと話してあげて」


 電話を切って、しばらくそのまま座っていた。


 窓の外は暗かった。病院の廊下の音が、遠くからしていた。


-----


 数日後の夕方、理沙は美夏の部屋のドアをノックした。


「みーちゃん、少し話してもいい?」


 美夏はベッドの端に座っていた。ケースは壁に立てかけたままだった。あの土曜日からずっと、そこにあった。


 理沙は隣に座って、すこし間を置いてから話した。


 ルイのお父さんが、事故でいなくなったこと。お母さんが怪我をして、心もとてもつらい状態にあること。お母さんの生まれた場所が日本にあって、そこへ帰りたがっていること。だからルイも、一緒に日本へ行くことになること。


 美夏は黙って聞いていた。


「るいと、大丈夫かな」と、しばらくしてから言った。


「……ルイのことが心配?」


「ひとりじゃない?」


 理沙はすこし間を置いた。「ひとりじゃないと思う。でも、つらいと思う」


 美夏はケースを見ていた。それから窓の外を見た。川の音が、いつものように続いていた。


「るいと、また電話してくれる?」


「してくれると思うよ」と理沙は言った。「みーちゃんに、ちゃんと話したいって思ってると思うから」


 美夏はそれきり何も言わなかった。理沙も、それ以上は言わなかった。


-----


 また電話が来たのは、翌日の夜だった。


 理沙が出て、少し話して、「ちょっと待って」と言った。それから美夏のいる部屋のドアをノックして、開けた。


「みーちゃん、ルイから」


 美夏は立った。


 スマートフォンを受け取って、耳に当てた。


「……みーちゃん」


 声が聞こえた。遠かった。でも確かにルイの声だった。


「るいと、大丈夫?」


 間があった。


「……ごめんね」


「約束、守れなくて」


 美夏は何も言わなかった。


「行くつもりだったのに、行けなかった」


「うん」と美夏は言った。「ママから聞いた」


 しばらく沈黙があった。


「るいと」と美夏は言った。


「うん」


「『海と光』だけは、作ってね」


 間があった。


「……みーちゃん」


「わたし、もっとひかりを細くできる気がしてた。だから、曲、なくさないで」


 ルイはすぐには答えなかった。


「……なくさない」


 声が、すこし低くなっていた。


「みーちゃんのパートも、ちゃんと持っていく」


「うん」


 それきり、どちらも何も言わなかった。川の音が続いていた。


 電話が終わった。理沙にスマートフォンを返した。それから、壁に立てかけたケースのそばに行って、しばらくそこに立っていた。


 触れなかった。でも、離れなかった。


 川の音はいつものようにずっと続いていた。その夜も、その次の夜も。

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