第6章 小さな光
十歳になった美夏は、ひとりでヴァイオリンケースを背負って歩けるようになっていた。火曜日が土曜日に変わってから、もう何年も経った。
六月の朝は、早くから光が伸びる。
ロウアー・スローターの家は、その光をいつも庭の奥から受け取る。ハニーサックルが窓ぎわでほどけかけていて、開けっぱなしのドアから、川の湿った空気が入ってきていた。
美夏はキッチンのテーブルの端に楽器ケースを置いて、ひとつひとつ確認していた。
松脂をケースの隅から取り出す。弓の毛に、短い弧を描くように当てていく。何度か、何度か。指で弦を弾いて、チューニングペグを少し回す。手の動きに迷いがなかった。もう誰かに言われてやることではなくなっていた。
理沙が奥から声をかけた。
「楽譜、今日のは入ってる?」
「入ってる」
「靴は?」
「玄関に出した」
短いやりとりが、台所の音と混ざって消えた。
そのとき、テーブルに伏せてあった理沙のスマートフォンが震えた。画面を見て、理沙が少し笑った。
「夏生から」
陽翔がコーヒーカップを持ったまま覗いた。
画面には、こうあった。
「俺だけ会議で、はるくんばっかりみーちゃんと教会まで歩けるのずるい」
陽翔は一口コーヒーを飲んで、「貸して」と言った。理沙がスマートフォンを渡すと、陽翔は返信を打った。手元を見ずに、淡々と。
「なんて返したの」と理沙が聞いた。
「CEO権限、って」
理沙が吹き出した。美夏はケースから顔も上げずに言った。
「にぃに、いつもそういうこと言う」
「言う言う」と理沙が笑ったまま言った。「みーちゃんが大きくなっても言いそう」
美夏は少し考えてから、「うん、言いそう」と言った。それから立ち上がって、ケースを持った。
ファスナーを閉める前に、一度だけポケットに手を入れていた。古い紙の角が指先に触れた。くしゃくしゃになって、もう読むまでもないほど折り目のついたメモだった。取り出しはしなかった。ファスナーを引いて、ケースを肩にかけた。
陽翔がドアのそばに立っていた。何も言わなかったが、出る時間だということは分かった。
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教会まで、村の道を歩いた。
六月の草が畦に青く揺れていた。アイ川の水が低く光を流して、橋の手前で石に当たる音がした。美夏は少し先を歩いていた。陽翔は後ろから、急かさずについていった。
教会の前で、ルイは先に来ていた。
石段の下に立って、村の奥のほうを見ていた。川が光を細く返している、その方向を。美夏が近づくと、振り返った。
「早いじゃないか」
「るいとのほうが早い」
「今日は少し早めに来た」
そう言って、ルイは脇に抱えていた楽譜の束を見た。束というより、何枚かの紙を折って重ねたものだった。端が少し汚れていた。よく使い込んだというより、何度も書き直した、という感じの皺があった。
「今日は、少し別のことをしたい」
美夏は首を傾けた。
「いつものレッスンじゃなくて?」
「最初に少しやって、それから。——試してみたいものがある。まだ途中なんだけど」
「途中?」
「自分で作ってた曲。みーちゃんと弾いたらどう聞こえるか、確かめてみたい」
美夏は少しのあいだ、その紙の束を見ていた。それからルイを見た。
「わたしでいいの」
「みーちゃんでやりたい」
美夏はそれを聞いて、もう何も聞かなかった。うん、と短く言って、教会のドアを押した。
陽翔は石段の下に残って、川のほうを見ていた。
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石の扉を開けると、内側の空気が変わる。
外の光や音からひとつ切り離されたところに、別の時間が折り畳まれているような場所だった。美夏はもう慣れていたが、それでも毎回、扉を開けた瞬間だけは足が止まった。
窓から六月の光が斜めに入って、石床に長い四角を作っていた。埃が、その光の中でゆっくり動いていた。
いつものように、まず三十分ほどレッスンをした。音階、それから今取り組んでいる曲。美夏の音は以前より落ち着きが出て、速いパッセージで崩れにくくなっていた。ルイは聴いていて、何度かうなずいた。あまり言葉にしなかったが、美夏には分かった。
それが終わってから、ルイは例の紙を取り出した。
「これがみーちゃんのパート。ヴァイオリンで」
渡された楽譜を、美夏は立ったまま眺めた。シンプルな旋律だった。難しくはない。でも、何か、いつもと違う感じがした。音符の並び方というより、音符と音符のあいだの空白の取り方が、見慣れないものだった。
「この、伸ばすところ」
「うん」
「どこで切るの」
「好きなところで。ただ、次の音に急がなくていい」
美夏はもう一度楽譜を見た。次の音に、急がなくていい。
「弾いてみる?」と、ルイが言った。
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最初の合わせは、うまくいかなかった。
正確に言うと、美夏の音は正しかった。音程も、リズムも。でも、何かが噛み合っていなかった。ルイのヴィオラが床のほうへ低く流れていくとき、美夏のヴァイオリンはそれとは別の方向を向いていた。同じ曲を弾いているのに、同じ場所にいない感じがした。
ルイが弓を下ろした。
「合ってる」
美夏は少し顔を上げた。
「でも、きれいすぎる」
「……きれいすぎる?」
「きちんと弾こうとしてる。分かるんだけど、今日はそこじゃなくて」
美夏はルイの顔を見た。怒っているわけではない。困らせようとしているわけでもない。ただ、本当のことを言っている。
「海の上の光は、同じ形で揺れない」
美夏は少しのあいだ、黙った。
「揺れていい、ってこと?」
「少しくらいは」
「まっすぐじゃなくていいの」
「まっすぐなのは、もうできてる」とルイは言った。「今日は、まっすぐじゃないほうを」
美夏は楽譜を見た。それからルイを見た。それから、窓の光を少しのあいだ見ていた。
「……やってみる」
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二度目は、違った。
最初の音を出したとき、美夏は何か変えようとしていたわけではなかった。ただ、急がなかった。音を次の音へ渡す前に、少しだけ待った。その待ち方が、さっきとは違っていた。
ルイのヴィオラが先に鳴っていた。低く、石床のほうに根を張るような音だった。美夏のヴァイオリンが入ったとき、その上に乗った。乗ったというより、触れた、という感じだった。
教会の石が音を受け取って、返した。
奥に行って、帰ってくるまで、少し時間があった。その時間のあいだに、音が変わって戻ってくる感じがした。ルイのヴィオラが影をつくっていた。美夏のヴァイオリンがその上で何かを細くひかりにしていた。ステンドグラスから落ちた青い色が、石床でゆっくり動いていた。
弾いている途中で、美夏は一度だけ、音の中に景色を見た気がした。海ではなかった。光でもなかった。ただ、何か広いものの上に、自分の音がいるような感じだった。
曲が終わった。
しばらく、ふたりとも動かなかった。教会の静けさが、じわじわと戻ってきた。
それから美夏が言った。
「今の、なんていう曲」
ルイは少しのあいだ黙っていた。
「……『海と光』」
美夏はその言葉を聞いて、楽譜を見た。それから窓の光を見た。
「うみと、ひかり」と、口の中でくり返した。
ルイはもう何も言わなかった。美夏も聞かなかった。でも、その沈黙は不思議と静かで、どこも欠けていなかった。
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教会を出ると、川の音がすぐに戻ってきた。
石段を下りたところで、陽翔が川のほうから歩いてきた。迎えにきたというより、村の道を散歩していたという感じで。
美夏が石段を下りながら言った。
「またやれる?」
「直してくる。もう少し、みーちゃんに合わせて」
「直す、どこを」
「まだ決めてない。でも弾いてみて、分かった部分がある」
「わたしも、直したいところある」
ルイは少し眉を上げた。
「どこ?」
「あの、伸ばすところ。もっと細くできる気がする。光みたいに」
「そう」とルイは言った。その言い方は短かったが、何かをちゃんと受け取った音がした。
三人で村の道を戻った。川が六月の光をゆっくり流していた。美夏はケースを肩に、少し先を歩いていた。
次がある、と思っていた。ルイは直してくると言った。自分も、直せる気がした。
それだけのことだった。でも、それで十分だった。
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◇
夜、部屋が静かになってから、わたしはベッドの横にケースを置いた。
階下では、ママとパパの声がたまに聞こえた。言葉になる前にとけて、家の中の空気になっていく感じの、小さな声だった。川の音も、窓の外でずっと続いていた。
ケースを開けた。
ポケットの端から、古いメモが少し見えていた。引っ張り出して、広げた。もう折り目がありすぎて、ひらがながつぶれているところがある。それでも読めた。何度も読んだから、読まなくても分かる。
「……けーすを あけて、 やったところを ゆっくり ひいてみること。 ゆみ まっすぐに。 かならず またくる。 るいと」
今日のことを、もう一度なぞるように思い出した。
最初の合わせは、うまくいかなかった。きれいすぎる、とるいとは言った。まっすぐすぎる。そのとき、すこし悔しかった。でも怒っているわけじゃないのは分かった。ただ、もっと先があるって言われた気がした。
二度目は違った。
急がなかった、ただそれだけだった。それだけで、なにかが変わった。るいとの音の上に、わたしの音が触れた感じがした。教会の石が受け取って、返してくれた。奥から戻ってきた音は、行ったときと少し変わっていた。
海と光、って、るいとは言った。
わたしが「ひかり」なのかな、と思った。でもそれを聞いたら、なんか照れくさかったから、聞かなかった。るいとも言わなかった。でも、そういうことなのかもしれない、とは思っている。
るいとは、直してくるって言った。
じゃあ、わたしも、直しておく。
次、もっとひかりを細くできる気がする。
メモを丁寧に折って、ポケットに戻した。ケースのファスナーを閉めた。
川の音はいつものようにずっと続いていた。




