第5章 火曜日の約束
八月の終わりが近づくと、家の空気が少し変わった。
夏生のトランクが廊下に出てきた。ルイの鞄も、いつの間にか荷物が増えていた。ふたりが大学と音楽院へ戻る時期が来ていた。
美夏はそれを、ちゃんと分かっていた。
火曜日が来るたびに教会へ連れていってもらっていた美夏は、ある朝、理沙の隣に来て静かに聞いた。
「るいとがいなくなったら、きょうかいもなくなるの」
理沙は手を止めた。
「ルイに聞いてみたら」
「きいたらなくなるから、きかない」
理沙はしばらく美夏の顔を見て、「そっか」と言った。それ以上は言わなかった。
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その夜、夕食の後だった。
ルイが「少しいいですか」と言って、リビングに家族を集めた。珍しいことだったので、美夏も正座した。
「学期が始まっても、火曜日のレッスンは続けたいと思ってます」
陽翔が少し眉を上げた。
「ロンドンから?」
「はい。授業の曜日を確認しました。火曜の午前中は今のところ空けられる。電車で一時間半かかりますが——美夏の基礎が固まるまでの時期だと思ってるので」
理沙が何か言いかけて、止まった。
「ロンドンから来て、また戻るのか」と夏生が言った。「毎週」
「うん」
「それは……」夏生は言葉を選んだ。「お前らしいな」
「余計なお世話」
「そうだよ」
美夏はルイを見ていた。ルイが自分のために、ロンドンから来る、ということの意味を、四歳の頭でどこまで理解していたか分からない。でも理解よりも先に、何かが胸に届いた感じがした。
「るいと」と美夏は言った。
「うん」
「ほんとうにくるの」
「本当に来る」
美夏はしばらく考えて、それから「わかった」と言った。信じる、という意味の「わかった」だった。
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九月の最初の火曜日、美夏は朝から玄関の前に座っていた。
理沙が「まだ一時間あるよ」と言っても動かなかった。
約束の時間より少し早く、砂利を踏む音がした。美夏は立ち上がって、扉を開けた。
ルイが立っていた。少し息が上がっていた。駅からバスで近くまで来て、最後は歩いてきたのだろう。
「きた」と美夏は言った。
「来た」とルイも言った。
それだけだった。でもそれで十分だった。
美夏はヴァイオリンケースを持って、石畳の道を歩き出した。ルイがその隣を歩いた。九月のロウアー・スローターは、もう草の色が少し落ちていた。アイ川が秋の光を受けて、夏より静かに流れていた。
約束が、習慣になり始めた日だった。
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十月のある火曜日、前の週のレッスンの終わりに、ルイが美夏に言った。
「来週、試験があって来られない」
美夏は弓を下ろしたまま、ルイを見た。
「こられないの」
「うん。ごめん」
美夏はしばらく何も言わなかった。がっかりしていることは、顔に出ていた。ルイはそれを見て、鞄から小さく折った紙を出した。
「これ、読める?」
美夏は紙を受け取って、開いた。ひらがなで書いてあった。
じっと見つめてから、ゆっくりと声に出す。
「……けーすを、あけて……」
そこで止まって、ルイを見上げた。
「ちょっとだけ」
ルイは小さく笑った。
「そっか。じゃあ、読むよ。『けーすを あけて、やったところを ゆっくり ひいてみること。ゆみ まっすぐに。かならず またくる。るいと』」
読み終えて、美夏はもう一度ルイを見た。
「かならずくる、って」
「来る」
「ぜったい?」
「絶対」
美夏はメモを両手で持ったまま、少しの間下を向いていた。それから「わかった」と言って、ポケットにしまった。
翌週の火曜日、美夏は理沙と一緒に教会へ行った。扉を開けると、いつもの石の匂いがした。ルイはいなかった。いつもより静かだった。
美夏はケースを開けて、ヴァイオリンを取り出した。ポケットからメモを出して、もう一度見た。それからポケットに戻して、構えた。
弓をまっすぐに。
音が出た。石の壁が返した。来週また来る、とメモに書いてあった。美夏はそれを信じていた。
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翌週、ルイは来た。
美夏は「ちゃんとやった」と開口一番に言った。
「知ってる。理沙さんから連絡もらった」
「るいとのメモ、もってた」
「見せて」
美夏はポケットから、少しくしゃくしゃになったメモを出した。ルイは受け取って、それを見て、それから美夏に返した。
「捨てていいよ」
「すてない」
ルイは何も言わなかった。
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季節が、変わっていった。
秋が深まると、教会の高い窓から差す光の角度が低くなった。十一月になると、石の壁が夏より冷たくなって、美夏がレッスンを終えると頬が赤くなっていた。ルイがコートのポケットにカイロを入れてくるようになったのは、その頃からだ。
美夏の姿勢が、少しずつ変わっていった。
最初の頃は、構えるたびに顎当ての位置がずれた。弓が斜めになった。でも秋の終わりには、ルイが手を添えなくても構えられるようになっていた。体が、場所を覚えていた。
冬になると、教会の空気がひと回り締まった。石の匂いに、かすかに湿った冷たさが混じるようになった。
美夏はときどき、弾きながら目を閉じた。
ルイがそれに気づいたのは、十二月のレッスンだった。美夏が目を閉じたまま、一本の音を伸ばしていた。石の壁がそれを受け取って、ゆっくりと返していた。美夏は目を閉じたまま、その返ってくる音を聴いていた。
ルイは何も言わなかった。邪魔をしたくなかった。
音が止んで、美夏が目を開けた。
「……ながいほうが、よくきこえる」
「うん」
「ながく弾いたほうが、もっとかえってくる」
「そうだな」
「なんで」
「弦が長く震えるから。空気がたくさん動く」
美夏はそれを聞いて、「ふーん」と言った。でもすぐに「もういっかい」と弓を構えた。今度は最初から、少し長めに弓を使った。
ルイは、この子は耳が育っている、と思った。技術が追いつくのは時間の問題だ、とも。
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春になると、教会の窓から差す光の角度が少し高くなった。石の床に落ちる影が短くなって、空気が少しだけ柔らかくなった。
美夏は簡単なメロディを弾けるようになっていた。
一本の弦の上で音が動く、というだけのことだったが、音と音がつながった瞬間に、美夏の表情が変わった。
「……うた、みたい」
「そう。それが旋律」
「せんりつ」
「音がつながると、旋律になる」
美夏はもう一度、同じフレーズを弾いた。石の空間に、短いメロディが広がった。行きと帰りで、音の色が少し違って聞こえた。
「あ」と美夏が言った。
「何」
「いくときと、かえるときで、ちがう」
ルイは少し驚いた。
「弓を押すときと引くときで、音が変わる」
「なんで」
「弦の震え方が違うから。よく気づいたな」
美夏は誇らしそうにした。それから「もっとおしえて」と言った。
ルイはその春から、弓の方向を意識させることを少しずつ教え始めた。教えながら、この子に教えることは面白い、と思っていた。こちらが言う前に、耳で気づく。
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二度目の夏が来た。
教会の扉を開けると、八月の熱い空気がひやりとした石の冷たさに変わる瞬間がある。美夏はその瞬間が好きだった。毎週、扉を開けるたびに、少しだけ立ち止まった。
美夏五歳になっていた。
教会のレッスンは、もう美夏の火曜日の当たり前になっていた。雨でも来た。ルイが少し遅れても、美夏はケースを抱えて扉の前で待っていた。家族の誰も「今日はやめたら」と言わなくなっていた。そういうものだ、という空気になっていた。
五歳の夏、美夏は初めて「弦を替える」という作業をルイに見せてもらった。古い弦を外して、新しい弦を張っていく。美夏はその間、一言も話さずに見ていた。
「いつかみーちゃんも自分でやれるようになる」とルイは言った。
「むずかしそう」
「難しい。でもできるようになる」
「るいとはいつできるようになったの」
「……十三か、四歳くらい」
「みーちゃんもそのくらい?」
「みーちゃんのほうが早いかもしれない」
美夏は「んふっ」と笑った。褒められることには、いつも素直だった。
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その夏の終わりに、ルイは陽翔と理沙に話があると言った。
レッスンの後、美夏を庭に出してから、リビングで話した。夏生も残った。
「美夏の基礎は、この一年でずいぶん育ちました。耳もいい。このまま続けるなら、週に一度だけでなく、継続して見てもらえる先生が近くにいたほうがいいと思っています」
陽翔が少し間を置いてから、静かに言った。
「それに来年の春、ルイくんは音楽院を卒業するだろう。さすがに毎週は、難しくなるよな」
ルイは少しの間、答えなかった。
「……はい。毎週は、難しくなります」
「心当たりがあるのか」と陽翔が聞いた。
「音楽院の先生に相談しました。チェルトナムに、子どもを教えるのが得意な先生がいると聞いています。紹介してもらえるか確認しています」
理沙が「美夏には話した?」と言った。
「まだです。家族の意向を先に聞きたかったので」
リビングが少し静かになった。ルイが全部を抱え込もうとするのではなく、美夏の周りを整えようとしている、ということが、家族の全員に伝わっていた。
「頼む」と陽翔は言った。短く、でもはっきりと。
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新しい先生——ウィリアムズ先生は、チェルトナムで長く子どもにヴァイオリンを教えてきた人だった。白髪混じりで、声が穏やかで、最初のレッスンのときに美夏に「きみは弓の使い方がいいね」と言った。
美夏は「るいとにおそわった」と即答した。
木曜の午後にウィリアムズ先生のレッスンが始まった。陽翔が車を出して、チェルトナムまで送ることが多かった。基礎の積み重ね、音階、少しずつ曲らしいものへ。火曜の教会はルイのまま、木曜が先生の日になった。
ウィリアムズ先生のレッスンと、ルイの教会のレッスンは、役割が違った。先生は土台を丁寧に固めた。ルイは美夏の音を聴いて、次に向かう方向を示した。美夏はそれを、どちらが大事とは言わずに、両方受け取っていた。
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二度目の秋が深まった頃、ルイがレッスンの後に美夏に言った。
「来年の春から、音楽院を出て、ロンドンで仕事が増える。だから毎週火曜にここへ来るのは、難しくなる」
美夏は手を止めた。
「きょうかい、こなくなるの」
「毎週は来られなくなる。でも——」
「でも?」
「月に一回、まとめてたっぷりやる形にしたいと思ってる。時間を長くとって、ウィリアムズ先生のところで積み重ねてきたことを、一緒に整理しながら進む」
「まとめてって?」
「二時間、三時間。みーちゃんが持つなら、もっと」
美夏は少し考えた。
「いままでとおなじのほうがよかった」
「うん、そうだな」
「でも」美夏は顔を上げた。「るいとがくるなら、いい」
ルイは少しの間、美夏の顔を見ていた。
「来る」
「ぜったい?」
「絶対」
美夏は「わかった」と言った。信じる、という意味の「わかった」だった。それはいつも、同じ顔をしていた。
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春が来た頃、形が変わった。
ルイが音楽院を出て、ロンドンでの仕事が始まった。それまで木曜だったウィリアムズ先生のレッスンは、週二回に増えた。美夏の基礎は、その先生が継続して見る形になった。教会は、毎週火曜から月に一度の土曜へ。それはただ、そういうことだった。
翌月の最初の土曜日、ルイが来た。
教会の扉を開けると、いつもの石の匂いがした。光の角度は、春のものになっていた。美夏はケースを開けて、ヴァイオリンを取り出して、いつもの場所に立った。二年以上、ここに立ってきた場所だった。
「なんか、ひさしぶりなかんじがする」と美夏は言った。
「三週間ぶりだから」とルイが答えた。
「でも、またこれたからいい」
美夏はそう言って、少しだけ目を細めた。それから弓を構えた。
音が出た。石の壁が返した。
その響きは、二年前と同じで、でも美夏の音は全然違っていた。太くなっていた。まっすぐになっていた。弦の震えが、空気をちゃんと動かしていた。
ルイはそれを聴きながら、この二年間のことを思った。雨の火曜日。カイロを渡した冬。目を閉じて音を聴いていた美夏の顔。くしゃくしゃのメモ。
「るいと」と美夏が弾きながら言った。
「うん」
「また来月も来る?」
「来る」
「そのつぎも?」
「来る」
美夏は「んふっ」と笑って、もう少し弓を長く使った。音が伸びて、石の空間に広がって、戻ってきた。
形は変わる。でも約束は、同じところにある。
ロウアー・スローターの春の光が、高い窓から縦に差していた。埃がゆっくりと、光の中を動いていた。




