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第4章 音が返ってくる場所

 レッスンが始まって一週間ほど経った、八月のはじめのことだった。


 その日は朝から雨で、美夏(みなつ)リビングでヴァイオリンを構えていた。窓の外にアイ川が白く霞んでいる。ルイが弓の角度を直しながら、美夏の右手首に軽く触れた。


「もう少し力を抜いて」


「ぬいてる」


「もう少し」


 美夏は眉をしかめたまま、もう一度弓を動かした。さっきよりは柔らかい音が出た。


「今のほうがいい」


「どっちが?」


「今の」


「なんで?」


「音が伸びてる。さっきのは途中で詰まってた」


 美夏はそれを聞いて、また弓を動かした。今度は自分で聴こうとしている感じがあった。ルイはそれを黙って待った。


 音が出た。また少し伸びた。


「いまのは?」


「いい」


 美夏は「んふっ」と笑った。


 そのとき、台所から陽翔(はると)が顔を出した。


「ルイ、少し聞いてもいいか」


「はい」


「この村の教会、セント・メアリー——知ってるか」


「ハイストリートの手前の。はい」


「理沙とそこで結婚式を挙げたんだ」陽翔は少し間を置いた。「管理してる方とも面識があって、週に一度、午前中なら鍵を貸してもらえることになった。石の建物だから響きがいいと思って。使うかどうかはルイに任せる」


 ルイは少しの間、考えた。


 家のリビングは悪くない。でも石の天井のある空間で音を聴かせてみたい、という気持ちは、美夏が音を出すようになったときからぼんやりとあった。まだ早いかとも思っていたが——。


「行ってみます」とルイは言った。


 美夏が「きょうかい?」と言った。話を聞いていたらしい。


「うん。教会で弾いてみる?」


「きょうかいってどんなとこ」


「石でできてる。天井が高い。静かな場所」


「がっこうみたいな?」


「もう少し厳かな感じ」


「おごそか?」


「……しずかで、おおきい感じ」


「おおきいのすき」と美夏は言った。それで決まった。


-----


 翌週の火曜日、午前中。


 理沙が一緒に来た。「野次馬」と本人は言ったが、ルイはそれだけではないのだろうと思った。夏生(なつき)は「俺は遠慮する、音楽の邪魔しても悪いし」と言って家に残った。


 村の教会は、家から歩いて十分ほどだった。コッツウォルズの石畳を歩いていくと、アイ川が右手に沿ってついてくる。八月はじめの朝の光が、石の壁に斜めに当たってはちみつ色に光っている。美夏はヴァイオリンケースをルイに持ってもらいながら、石畳の継ぎ目を踏まないようにしながら歩いていた。


「ここ踏んだらだめなの?」と理沙が聞いた。


「ふまないほうがおもしろい」


「そういうことね」


 教会の扉は、厚い木でできていた。陽翔から預かった鍵でルイが開けると、ひやりとした空気が出てきた。石の匂いがした。古い木と、かすかな蝋燭の匂いも混じっている。


 美夏は入り口で少し止まった。


「おおきい」


「そうだろ」


「てんじょうがたかい」


「石の天井だから、音がよく響く」


 美夏は天井を見上げたまま、「ひびく?」と聞いた。


「音が返ってくる。弾いたら分かる」


-----


 光は、身廊の高い窓から縦に差していた。埃が光の中でゆっくりと動いている。長椅子が左右に並んでいて、その真ん中の通路に、ルイは美夏を立たせた。理沙は後ろのほうの長椅子に座って、腕を組んだ。


「構えてみて」とルイが言った。


 美夏はケースを開けて——ラッチをパチ、と確かめながら——ヴァイオリンを取り出した。弓の毛をしめて、顎をのせて、姿勢を作る。この一週間で、それだけはずいぶん早くなった。


「弾く前に、一回だけ聴いてみて」


「なにを?」


「この場所の音。何も弾かなくていい。しずかにしてみて」


 美夏は不思議そうな顔をしたが、黙った。


 しばらく、静寂があった。


 石の壁が静かに息をしている。外からアイ川の音が、遠くかすかに届く。風が高い窓ガラスをわずかに揺らした。美夏はそれを、ヴァイオリンを構えたまま聴いていた。


「……しずかだね」とやがて言った。


「うん。弾くと、この静かさに音が混じる。それが響き」


「わかんない」


「弾いたら分かる」とルイは繰り返した。「じゃあ、いつもの音を出してみて。一本だけ」


-----


 美夏が弓を動かした。


 いつもの、細くてまっすぐな音だった——はずだったが、何かが違った。音が出た瞬間に、石の壁と天井がそれを受け取って、少しだけ膨らませて返してきた。


 美夏が弓を止めた。


「……あれ」


「分かったか」


「おとが、かえってきた」


「そう。それが響き」


 美夏はもう一度弓を動かした。また返ってくる。短い音でも、長い音でも、弦が震えるたびに石の空間がそれを受け取った。美夏の顔が、だんだんと変わっていった。驚きから、興味へ、それから——何かに引き込まれていくような顔へ。


「もっとながくひく?」


「やってみて」


 美夏が弓を長く使った。音がひとすじ、石の空間に広がった。揺れて、広がって、壁に当たって戻ってくる。自分が出した音が、自分に返ってくる。美夏はその間、弓を動かしながら、目を少し丸くしたまま動かなかった。


 音が止まった。余韻が、少しだけ天井のあたりに残った。


「みーちゃん」とルイが言った。


「……なんか、おとがおおきくなった」


「石が一緒に鳴ってる」


「いしが?」


「この壁も、天井も、音を受け取って一緒に鳴る。だから大きく聞こえる」


 美夏はぐるりと壁を見回した。それから天井を見て、また弓を構えた。


「もういっかい」


「どうぞ」


-----


 それからしばらく、美夏はひたすら弾いた。


 うまい弾き方ではなかった。角度がずれたり、弓がすべったり、音が途切れたりした。でも美夏はあまり気にしなかった。音を出すたびに返ってくるものに、夢中になっていた。


 ルイは口を出さずに見ていた。今日は技術の話をする日ではない、と思っていた。


 後ろの長椅子で、理沙が静かに見ていた。膝の上で手を組んで、美夏の後ろ姿を見ていた。


 しばらくして、美夏が振り返った。


「ねえ、るいともひいて」


「僕が?」


「うん。るいとのやつで」


 ルイは少し考えてから、鞄からヴィオラのケースを出した。今日は持ってきていた。なんとなく、そういう気がしていたから。


 弓に松脂をつけて、構えて、一音だけ弾いた。


 ヴィオラの音が、教会に広がった。美夏のヴァイオリンより低くて、深くて、石の壁がそれをゆっくりと受け取った。余韻が長かった。美夏は目を閉じていた。


 音が消えてから、しばらくして目を開けた。


「……かげのおとだ」


「うん」


「でもきれいだった」


「ありがとう」


 ルイはそれを言えたことが、なぜか少し嬉しかった。


-----


「今日はここまでにしよう」とルイが言ったのは、美夏が弓を持ったまま長椅子に腰かけて、天井を見上げ始めたときだった。


「まだいたい」


「また来週来る」


「らいしゅうもくるの?」


「ここは週に一回使える。だから毎週火曜日に来よう」


「まいしゅう?」


「美夏が来たいなら」


「くる」と美夏は即答した。「ぜったいくる」


 ヴァイオリンをケースに戻す作業を、美夏はいつもより丁寧にやった。布で拭いて、弓の毛をゆるめて、ケースに置く。ラッチをパチ、と閉める。


 立ち上がって、もう一度だけ天井を見上げた。


「おうちと、おとがちがう」


「うん」


「ここでひくの、すき」


 ルイは何も言わなかった。でも美夏の言葉は、石の壁に少しだけ残るような気がした。


-----


 帰り道、美夏は理沙の手を繋いで歩いた。石畳の継ぎ目は、行きほど気にしていなかった。


「みーちゃん、楽しかった?」と理沙が聞いた。


「うん。おとがかえってくるの、びっくりした」


「ルイに連れてきてもらってよかったね」


 美夏は隣を歩くルイを見上げた。


「ありがとう、るいと」


「どういたしまして」


「またらいしゅうもつれてきてくれる?」


「連れてくる」


 美夏は「んふっ」と笑って、また前を向いた。石畳を踏んで、アイ川の音を聞きながら歩いていく。


 ルイはその後ろ姿を見ながら、今日の音のことを思った。細くて、まだ頼りないけれど、あの石の空間で確かに鳴っていた音。美夏が「かえってくる」と言ったときの顔。


 この場所で、これからも音が積み重なっていく。


 そう思ったら、なんとなく、胸が高鳴った。

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