第3章 最初の音
誕生日から五日後、美夏は朝ごはんを食べ終わるなり、リビングに走っていった。
ヴァイオリンケースは、棚の低いところに置いてあった。美夏が自分で取り出しやすいように、陽翔がそこを空けておいたのだ。美夏はしゃがんで、ケースをじっと見て、それから触らずに戻ってきた。
「きょうおしえる?」
ルイはまだコーヒーを飲んでいた。
「今日教える」
「ほんとに?」
「本当に。でも朝ごはんはちゃんと食べた?」
「たべた」
「僕も食べ終わったら」
美夏はテーブルに戻って、ルイの向かいに座った。ルイがコーヒーを飲むのを、じっと見ていた。
「……みてる?」
「みてる」
夏生がトーストをかじりながら、「怖いな」と言った。理沙が「みーちゃん、ルイが落ち着いて飲めないでしょ」と言った。美夏は「でも、はやくのんでほしい」と答えた。夏生は吹き出しそうになった。
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レッスンは、リビングでやることになった。
庭でもよかったが、七月の午前中はもう日差しが強い。ロウアー・スローターの夏は、石の家の中のほうが涼しい。アイ川のほうから風が届いて、カーテンがゆっくりと揺れている。
ルイはソファを少し動かして、真ん中に空間を作った。美夏はその横に立って、ケースを抱えていた。
「まず、ケースの開け方から」とルイは言った。
「しってる。ここをパチってするんでしょ」
「そう。でも、開ける前にやることがある」
「なに」
「ケースを床に置く。立ったまま開けない」
美夏は言われた通りにした。しゃがんで、ケースをそっと床に置いて、ラッチに手をかける。
「パチって……」
「ゆっくり」
「……パチ」
蓋が開いた。白い布の中に、赤みがかった褐色のヴァイオリンが収まっている。美夏は顔を近づけて、しばらく見ていた。
「きれいね」と理沙がソファから言った。
「うん」と美夏は言ったが、今日はそこで止まらなかった。「どうやってだすの」
「弦を持たない。木のところを持つ」とルイが言いながら、美夏の隣にしゃがんだ。「ここ。ネックっていう」
「ネック」
「そう。覚えなくていいけど、この細いところを持って、そっと持ち上げる」
美夏はルイの指の置き方を見て、まねた。小さな手でネックを持って、ゆっくりと持ち上げる。
「できた」
「できた。じゃあ、次は弓」
弓の持ち方は、少し時間がかかった。どの指をどこに置くか、ルイが一本ずつ位置を直した。美夏は集中していたが、途中でふと弓の毛を見て「ねえ、これなに?」と聞いた。
「馬の尻尾の毛だよ」
「え」美夏はしばらく弓を見た。「うまの?」
「そう」
「……かわいそう」
「使わせてもらってるんだ。だから大事に使ってあげて」
「うん」美夏はまた弓を握り直した。
夏生がソファの端でくつくつと笑った。陽翔はそれを聞いて、少し目を細めた。
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構えに入ったとき、美夏は最初の壁にぶつかった。
顎当てに顎をのせて、肩でヴァイオリンを支えて、弓を弦の上に置く——文字にすれば三つのことだが、四歳の体でそれを同時にやるのは、かなり難しい。
「あごがいたい」
「最初はそう。慣れる」
「いつ?」
「少しずつ」
美夏はもう一度やってみた。顎をのせる。でも今度は弓の角度がずれた。ルイが右手に軽く触れて、角度を直した。
「こう」
「こう……」
しばらくそのまま止まって、美夏はじっと自分の手元を見ていた。
「みーちゃん、すごい集中してる」と夏生が言った。
「うるさい、にぃに」
「はいはい」
「夏生、静かにして」と理沙が言った。
「俺なんにもしてないんだけど」
ルイは苦笑しながら、美夏に向き直った。
「姿勢、今すごくいい。そのまま」
「このまま?」
「そのまま弓を動かしてみて。長く使わなくていい。ほんの少しだけ」
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最初の音は、ギギッ、という音だった。
美夏はヴァイオリンから顎を離して、弓を下ろした。顔が、少しだけくもっていた。
「……へんなおと」
「最初はそう」
「きらきらじゃなかった」
「うん」とルイは言った。急かさずに。「でも今のも音だよ」
「あれが?」
「弦が鳴った。音が出た。最初はみんなそういう音から始まる」
美夏はしばらく黙っていた。ルイは何も足さなかった。
それからルイは美夏の右手を軽く持って、弓の持ち方を少し直した。
「弓を長く使おうとしなくていい。ここから——」と弓の根元のほうを示して、「ここまでだけ。短く、まっすぐに」
「まっすぐ?」
「そう。弦に対してまっすぐ。斜めにならないように」
美夏はまた顎をのせた。今度は少しゆっくり、丁寧に。弓を弦に当てて、呼吸をして——
ルイが小さく「ゆっくり」と言った。
美夏が弓を動かした。
細くて、かすかで、でもさっきとは違う音が出た。震えているけれど、まっすぐな音。弦が空気を揺らした、という感じのする音だった。
美夏が止まった。
「……でた」
声が少し高くなっていた。
「出た」とルイは言った。
「いまのが?」
「今のが音だよ」
美夏はまた弓を動かした。今度はもう少し長く。また同じような、細くてまっすぐな音が出た。美夏の顔が、ぱっと開いた。
「でた、でた! るいと、でたよ!」
「出てる、出てる」
「みてた?」
「見てた」
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リビングが、少しだけ違う空気になった。
理沙はソファから立ち上がって、台所との境のあたりに来ていた。腕を組んで、柔らかい顔で見ていた。陽翔は本を閉じていた。いつの間にか、読むのをやめていたらしい。夏生は何も言わなかったが、さっきまでの軽口の気配がなくなっていた。
「じょうずだった?」と美夏がルイに聞いた。
「上手というより、ちゃんと音が出た」
「どっちがいいの」
「どっちも大事。でも今日は、音が出たほうが大事」
美夏はそれを少し考えて、「そっか」と言った。納得したのかどうかよく分からない顔だったが、不満でもなさそうだった。
「もういっかいやる」
「今日はここまで」
「え」
「最初のレッスンはこれで十分。次にやることが残ってたほうがいい」
美夏は少し口をとがらせた。でも「わかった」と言った。思ったより素直に。
ルイはヴァイオリンを受け取って、弦の松脂を拭いた。美夏はそれをじっと見ていた。
「つぎはなにをおしえてくれるの」
「弦が四本あるのは知ってるか」
「しらない。かぞえてない」
「四本ある。今日は一本だけ使った。次はもう一本触ってみよう」
「よんほんぜんぶつかったらどうなるの」
「曲が弾けるようになる」
美夏の目が、少し大きくなった。
「きょく?」
「そう。曲」
「みーちゃんも、きょくがひけるの?」
「練習したら」
「どのくらい?」
「みーちゃんが諦めない限り、弾けるようになる」
美夏はしばらく考えた。それから「あきらめない」と言った。あまりにあっさりと言ったので、ルイは少し笑いそうになった。
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ヴァイオリンをケースに戻す作業も、ルイは丁寧に教えた。
布で本体を拭いて、弓の毛をゆるめて、ケースの決まった場所に置く。美夏は一つひとつ確かめながらやった。最後にラッチをパチ、と閉めて、「できた」と言った。
「できた」
「これ、まいかいやるの?」
「毎回やる」
「めんどくさい」
「大事なものだから」
美夏はケースを持ち上げて、棚の低いところに戻した。それから振り返って、ルイを見た。
「るいと」
「うん」
「きょう、ありがとう」
ルイは少し意外な気持ちになった。お礼を言われるとは思っていなかった。
「どういたしまして」
「つぎ、いつ?」
「明日でもいいし、あさってでもいい。みーちゃんがやりたいときにおいで」
「あした」
「分かった」
美夏は「んふっ」と笑って、台所のほうへ走っていった。理沙に何か言いながら消えていく。ルイはリビングに残って、空になった真ん中の空間を少しの間見ていた。
カーテンがまた揺れた。アイ川の音が届いた。七月の午前中の光が、石の床の上に長く伸びていた。
始まった、とルイは思った。
ただそれは、言葉より先に、音としてそこにあった。




