第2章 キラキラした音のこと
ルイが来てから三日目の朝、美夏は理沙のエプロンを引っ張った。
「ねえ、みーちゃんもおんがくやりたい」
理沙は手を止めた。台所の窓から、七月の庭が見えていた。
「どうして急に」
「るいとがひいてたから」
前の晩、ルイがリビングでヴィオラを少し弾いたのだ。誰かに聴かせるつもりではなく、指慣らしのような、ひとりの時間のような弾き方だった。美夏はソファの端に座って、ずっと動かずに聴いていた。夏生が「みーちゃん、寝なくていいの」と言っても、「もうちょっと」と言って動かなかった。
「ばいおりんがいい」と美夏は続けた。「るいとのやつじゃなくて、たかいほうの」
「ヴァイオリン」
「うん。きらきらしてるやつ」
理沙はしばらく美夏の顔を見ていた。三歳の子どもの「やりたい」は、たいてい三日で変わる。でもこの子の目は、いつもより少し違う色をしていた。
「るいとに話してみたら」と理沙は言った。
「るいとに?」
「そう。みーちゃんが自分で」
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美夏がルイを見つけたのは、庭だった。
ルイは石のベンチに座って、楽譜を読んでいた。コッツウォルズの朝の光が芝生の上に斜めに差していて、アイ川のほうから水の音が届いている。美夏は草の上を歩いてきて、ルイの隣にぽすんと座った。
「るいと」
「うん」
「みーちゃん、ばいおりんやりたい」
ルイは楽譜から目を上げた。美夏はまっすぐに前を向いたまま、少しだけ顎を引いていた。どこか緊張しているような、でも決めてきたような顔だった。
「自分でやりたいと思ったの?」
「うん。るいとのおと、きれいだったから。みーちゃんはきらきらの」
「ヴァイオリン」
「そう」
ルイは少しの間、美夏の横顔を見ていた。
「おしえる?」と美夏が言った。昨日より少し小さな声で。
「……教えるよ」
「ほんとに?」
「本当に」
美夏は「んふっ」と笑って、それからルイの腕に少しだけ寄りかかった。承諾を確かめたら、もうそれで満足、という感じだった。ルイはまた楽譜に目を落としたが、しばらくの間、音符が頭に入ってこなかった。
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その日の午後、ルイは夏生に話した。
夏生は台所でジュースを飲んでいた。話を聞いて、「へえ」とだけ言った。
「みーちゃんが自分で来たんだ」
「そう」
「かわいいな」夏生はグラスを置いた。「で、どうするの。楽器どうする」
「それを考えてた」
ルイは少しの間、黙っていた。
「僕が持ってるヴァイオリン、みーちゃんに合うサイズなんだ」
夏生の目が少し変わった。「それ……お前が子どもの頃に使ってたやつ?」
「そう」
「まだ持ってたのか」
「うん」
夏生はしばらく何も言わなかった。ルイがそのヴァイオリンを今まで手放さずにいたことを、夏生はなんとなく知っていた。ヴィオラに転向してからも、実家に預けたままにするでも、売るでもなく、ずっと持ち歩いていた。訊いたことはなかったが。
「みーちゃんの誕生日、もうすぐだよな」と夏生は言った。
「知ってる」
それだけで、ふたりには充分だった。
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ロウアー・スローターの七月は、光が一年で一番長く残る。はちみつ色の石の壁がまだ明るいうちから夕暮れの橙を吸いはじめて、アイ川の水面がきらきらと揺れている。庭の草が伸びて、花が咲いて、村全体がゆっくりと、ひと息ついているような季節だ。
美夏が四歳になる日、ルイは朝から少し緊張していた。
家の玄関には、小さなリボンが飾ってあった。美夏が理沙と一緒に結んだものだ。美夏本人は白いワンピースに黄色いリボンをつけて、朝から落ち着きがなかった。プレゼントを開けるのが楽しみなのか、ただ誕生日が嬉しいのか、判別がつかない感じで家の中をうろうろしていた。
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ケーキを食べ終わって、プレゼントを開ける時間になった。
美夏は包みを受け取るたびに顔を輝かせた。絵本。理沙が選んだ花柄のポーチ。夏生からの小さなぬいぐるみ。そのたびに「わあ」と声を出して、大事そうに膝の上に並べた。
ルイの番になったとき、美夏はちょっと首を傾げた。包みが長細かったから。
「あけていい?」
「どうぞ」
美夏がリボンをほどいて、紙を破って——中から出てきたのは、小さなヴァイオリンケースだった。
美夏は少しの間、それを見ていた。それからルイを見た。
「ばいおりん」
疑問ではなく、確認だった。
「そう」
「るいとの?」
「……僕のだよ」
美夏はまた、ケースを見た。小さな手でそっと触れて、それからルイを見上げた。
「くれるの?」
「みーちゃんにあげる」
美夏はしばらく何も言わなかった。ルイには、その沈黙が長く感じられた。
「あけていい?」と、やがて小さな声で言った。
「開けて」
ラッチを外すのは難しかった。ルイが手伝って、蓋を持ち上げると——赤みがかった褐色の木が、白い布の中に収まっていた。小さい頃のルイが使っていた、四分の一サイズのヴァイオリン。
美夏は触ろうとしなかった。ただ、見ていた。
「きれい」
ぽつりと言った。
「そうだろ」
陽翔がテーブルの向こうから、静かに口を開いた。
「ルイ、それ……ずっと持ってたやつだよな」
ルイは少し間を置いて、「はい」と答えた。
「手放さなかったのに」
「みーちゃんに渡すなら、いいと思って」
理沙が何も言わなかった。夏生も言わなかった。その沈黙は、責めているのではなく、ただ受け取っている種類の沈黙だった。
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美夏がケースを膝に持ったまま、ルイを見上げた。
「るいとは、おっきいのだよね。なんでちがうの」
ルイは少し考えてから、正直に話すことにした。
「最初はヴァイオリンを弾いてたんだ。みーちゃんくらいのとき。それがそのヴァイオリン」
「じゃあ、なんでかわったの」
「音が違ったから、かな。ヴァイオリンの音は、キラキラしてる。でも僕には、もう少し落ち着いた音のほうが合ってた。ヴィオラの音って、もっと深くて、影みたいな感じがするんだ」
「かげ?」
「影。キラキラじゃなくて、もう少し暗いほうの色。でもそっちのほうが、ルイには似合ってたから」
美夏は少し考えた。
「かなしくないの」
「全然」とルイは言った。「自分に合う音が分かったほうが、嬉しかった」
「ふーん」と美夏は言って、またヴァイオリンを見た。それからルイを見た。「このばいおりんは?」
「きれいな音が出るんだ、それ。僕には合わなかったけど、音はずっと好きだった。みーちゃんなら、このヴァイオリンの音が出せると思う」
「みーちゃんが?」
「そう」
美夏はしばらくの間、下を向いていた。照れているのか、考えているのか、ルイには分からなかった。それから顔を上げたとき、美夏はまっすぐにルイを見た。
「ちゃんとおしえる?」
「ちゃんと教える」
美夏は「んふっ」と笑った。それからケースを両手で大事そうに抱え直して、胸に引き寄せた。自分で選んで、自分のものになった、ということを、その小さな体全体で確かめるように。
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その夜、夕食の後、夏生がルイに聞いた。
台所で洗い物をしている理沙と、リビングで美夏を寝かしつけている陽翔の声が、遠くに聞こえている時間だった。
「なんで今まで手放せなかったの」と夏生は言った。コーヒーのカップを両手で持ちながら。
「……きれいな音が出るから。ヴィオラに転向して、もうヴァイオリンは弾かなくなったけど、あの楽器の音だけは好きだった。自分には合わなくても、音そのものは手放せなかった」
「それをみーちゃんに渡した」
「みーちゃんが庭に来て、自分でやりたいって言ったとき——この子だと思った。この子ならあのヴァイオリンの音が出せるって」
夏生はしばらく黙っていた。カップを置いて、腕を組んで。
「重いな」と言った。
「子どもへのプレゼントにしては、ってこと?」
「そうじゃなくて」夏生は少し笑った。「お前がそこまで考えてたって、ちょっと重いなって思っただけ」
「……余計なお世話だ」
「そうだよ」
ふたりの間で、また空気が弛んだ。窓の外でアイ川が低く鳴いている。七月の夜は、まだかすかに明るくて、長い。
美夏がまだ四歳で、ルイが彼女にヴァイオリンを教えていくことになる最初の夜。このとき夏生は、その先のことなど何も想像していなかった。
ルイも——おそらく、そうだったと思う。




