第1章 おかえりの温度
七月のロウアー・スローターには、夕方がゆっくりと来る。
太陽がまだ沈みきらないまま、光だけが低くなって、はちみつ色の石の壁に横から差し込んでくる。アイ川のほうから草の匂いが届いて、村全体がぬるく、やわらかく、息をしている——そういう時間だ。
理沙は台所で手を動かしながら、玄関のほうに耳を向けていた。
砂利を踏む音が聞こえてきた。ひとつ。ふたつ。少し引きずるような、重いトランクの音。
「ただいまー」
夏生の声だった。低くなったとはいえ、帰ってきた瞬間だけは少し高くなる。昔からそうだ。
「おかえり」と理沙はエプロンで手を拭きながら廊下に出た。「ご飯、もう少しかかるから先に荷物だけ置いてきなさい」
「うん。あと、ルイも来た」
「知ってる」
知っている、というのは素っ気なく聞こえるかもしれないけれど、そうではない。ただ、ルイが来ることはこの家において特別なことではないというだけだ。駅からのタクシーの手配は陽翔が組んでいたし、夕食の量を少し増やしたのも理沙自身だ。ルイの好みはとっくに知っている。
玄関の石の上に、もうひとりの影が立っていた。
「……お邪魔します」
フランス語なまりの残る、丁寧な日本語だった。ルイはドアを後ろ手に閉めながら、少しだけ背をかがめるようにして理沙を見た。来るたびに、少し大人になっている気がする。
「おかえり」と理沙は繰り返した。今度は、そちらに向けて。
ルイは一瞬、何かに驚いたような顔をした。それからすぐに、やわらかく笑った。
「……はい。ただいま、戻りました」
ぎこちない間があったが、悪くなかった。
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リビングでは、陽翔がソファに片足を乗せて本を読んでいた。ルイの顔を見ると本を閉じ、特に驚きもなく立ち上がった。
「来たか」
「お久しぶりです、陽翔さん」
「久しぶりじゃないよ。十二月に会っただろ」
「それが久しぶりです」
「へえ」と陽翔は言い、それで終わりだった。
夏生がソファに倒れ込む。「腹減った」
「ルイ、座って。スーツケースはそこでいい」と陽翔は顎で示して、台所のほうへ消えていった。手伝いに行くのだろう。そういう人だ。
ルイはトランクをダイニングの壁際に立てかけて、言われた通り椅子を引いた。久しぶりに座るこの椅子の感触は、なぜかいつも記憶の通りだ。背もたれの少し左に傾く感じも、西の窓から差し込む光の角度も。
「はるくんと話すとき、日本語じゃなくていいだろ」と夏生が天井を見たまま言う。「英語のほうが早いし」
「日本語の練習になる」
「なってるの、あれで?」
「なってる」
ふたりの間で空気が少し弛んだ。この家に来るのが半年ぶりとは思えない速度で、いつものテンポに戻っていく。それがイートン以来のふたりのやり方だった。久しさを確認するより先に、続きから始める。
もっとも、ルイがこの家に来る理由は、夏生だけではない。そのことを夏生本人も知っているし、ルイも知っている。ただそれは、わざわざ言葉にするようなことでもなかった。
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台所のほうから、小さな足音が聞こえてきた。
とたとた、とたとた。廊下の端のほうから、勢いのついた足音。
ルイが振り向いた瞬間に、リビングの入り口に白いワンピースの子が現れた。
「るいと!」
三歳の美夏は、その言葉の半分を走りながら言っていた。危なっかしい速度でダイニングを突っ切って、ルイの膝のあたりに正面からぶつかるように抱きついた。
「おっと」
ルイは反射的に手を回して、その小さな体が倒れないよう受け止める。美夏はルイの服に顔を押しつけたまま、もごもごと何か言っている。
「みーちゃん、走らないって言ったでしょ」と理沙が台所から声を飛ばした。
「だってるいとが来たから」
それは反論になっていないが、誰も追及しなかった。
「ひさしぶり、みーちゃん」
ルイが日本語でそう言うと、美夏は顔を上げた。まん丸の目で、まっすぐにルイを見る。
「ひさしぶりじゃない。るいとが来るの、ずっと待ってたもん」
「そうか。ごめんな、時間がかかって」
「うん。でも来たからいい」
夏生がソファのほうでくつくつと笑った。「みーちゃん、お前厳しいな」
「にぃに、うるさい」
「こわ」
美夏はルイの膝の上によじ登って、満足そうに落ち着いた。ルイはその重みを受け取って、特に何も言わなかった。この子はいつもこうだ。来るたびに、ここが自分の居場所だと言うように迷わず来る。
るいと。
最初にそう呼ばれたのは、もう少し前のことだ。まだうまく言葉が出てこなかった頃の美夏が、「るいといっしょ、るいといっしょ」と繰り返すうちに、いつの間にか「るいと」になった。家族の誰もそれを直さなかった。正確な発音より、その言葉に入っている何かのほうが大事だと、おそらく全員が感じていたから。
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食事前の少しの時間、美夏はルイのそばを離れなかった。
ルイが鞄を開けると、美夏がのぞき込む。楽器ケースが出てきたとき、「それなに」と小さな指で触れようとした。
「ヴィオラっていうんだ」
「しらない」
「ヴァイオリンはしってる?」
「ばいおりん?……てれびでみた」
「そう。ヴァイオリンに似てる。でもこっちのほうが少し大きい」
美夏はじっとケースを見た。何かを考えているような、考えていないような顔だった。それからルイを見上げる。
「あけていい?」
「ダメだよ、みーちゃん」と理沙が通りがかりに言った。「ルイの大事なものでしょ」
「いや、少しだけなら」とルイが言った。
理沙が少し眉を上げたが、止めなかった。
ルイはケースのラッチを外して、蓋を持ち上げた。青みがかったグレーの布の中に、褐色の楽器が収まっている。美夏は息を止めた。ただ見ているだけで、触ろうとはしなかった。
「きれい」
ぽつりと言った。
「そうだろ」
「ねえ、るいとのやつ、おっきい」
「そうだね、ちょっと大きい」
「おとは?」
ルイは少し考えて、弓を取り出した。理沙がまた通りかかったが、今度は何も言わなかった。
一音だけ、短く弾いた。
低くて、深い音が部屋に広がった。美夏は動かなかった。目だけが、楽器のほうを見ていた。
音が消えてから、しばらくして美夏が言った。
「きれいなおとね。でも、わたし、たかいのほうがいい」
何気ない一言だったはずだ。でもルイは、その言葉が耳に落ちた瞬間、少しだけ止まった。
ヴァイオリン。
なんとなく、という感覚は言葉にしにくい。ただ、この子の声の高さ、よく動く目、笑うときの開き方——この子が出す音は、きっとこちらではないと思った。もっときらきらしたものが、この子には似合う。ヴィオラの落ち着いた影より、光の粒のような音が。
「そうだな」とルイは言った。「みーちゃんには、たぶん高いのが合うと思う」
美夏は嬉しそうに「でしょ」と言った。意味は分かっていないかもしれないけれど、肯定されたことは分かる。ルイはそのはずんだ顔をしばらく見ていた。
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夕食は賑やかだった。
理沙が作った肉じゃがと、陽翔のグリーンサラダと、夏生がどこかで買ってきたコッツウォルズのパン。日本の食卓の空気が、コッツウォルズの石造りの家の中にごく自然に広がっている。ルイはその組み合わせを奇妙だと思ったことがない。最初からこれがこの家だったから。
ルイは最初の数分だけ「自分でよそいます」と言い張ったが、理沙に「座って」と言われて諦めた。この家では客として遇されることと、家族として遇されることの境界が、来るたびに少しずつ後者に傾いている。それは居心地が良いことだと、最近ようやく素直に思える。
美夏は夕食の途中で眠くなった。
それが分かったのは、ルイの隣に座っていた美夏が、少しずつ体を傾け始めたからだ。最初は背もたれに。次に、テーブルの縁に腕を乗せて。
「みーちゃん、眠いなら先に」と理沙が言いかけた瞬間、美夏はルイの腕にぽすりと額を乗せた。
テーブルがすこし静かになった。
「るいと、いっしょ」
眠そうな声でそう言った。意味は「一緒にいて」なのか「一緒でよかった」なのか、おそらく本人にも分からない。でも言葉はその空気に溶けて、誰かが笑って、陽翔が理沙に何か目で伝えて、夏生が「かわいいな」と小声で言った。
ルイは動かなかった。
美夏の重みを感じながら、この家の夕暮れの光を見ていた。七月のロウアー・スローターはまだ明るく、石の壁が橙を吸ってやわらかく光っている。窓の外のアイ川の音。
肉じゃがの湯気。夏生がパンをちぎる音。理沙がグラスを置く音。
このときはまだ、それで十分だった。




