序章 はちみつ色の家
石畳が濡れている朝は、アイ川の音がいつもより近く聞こえる。
雨の日のロウアー・スローターは静かで、はちみつ色の石の壁が水を吸って、少しだけ暗い色になる。その色が、僕はなぜか好きだ。晴れた日より落ち着く、と言ったら変に思われるかもしれないけれど。
この村に来るようになって、もう何年になるだろう。最初は預け先だと思っていた。両親に「長期休暇はお世話になりなさい」と言われて、そういう始まりだった。今となっては、自分でも笑いそうになる。
ここが第二の家になるとは、あの頃は思っていなかった。
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僕がイートンに入ったのは、十三歳の頃だった。
両親は、僕を最初から音楽だけの世界に置くより、先にもっと広い場所へ入れたかったのだと思う。イートンを選んだのも、たぶんそのためだった
ふたりとも仕事で世界を飛び回っていた。会議のある都市に滞在して、また次の都市へ移る。そういう生活だったから、長期休暇のたびに僕の行き先を確保するのが難しかった。業者が手配した環境のなかでひとりで過ごす、ということが、イートンに来る前から何度かあった。特別不満だったわけではない。ただそういうものだ、と思っていた。
夏生と初めて話したのは、彼が十六歳で、シックスフォームからイートンに入ってきた頃のことだ。
ハウスの廊下で、彼が日本語で何かを呟いていた。独り言だったと思う。聞き取れたのは「めんどくさい」という一言だけだったが、それがフランス語にそのまま翻訳できる感情だったので、僕は思わず日本語で返した。
「わかる」
夏生が振り向いた。少し驚いていた。
「日本語、話せるの」
「少し。母が日本人なので。ただ家では英語とフランス語が多かったから、日本語は聞いて育った感じで——話すのは、少し鈍る」
それが最初の会話だった。そこから先は、気づいたら親友になっていた、という類のことで、過程を細かく説明できない。ふたりともそういうものを大事にしない性格だったのか、それとも寮生活という密度の濃さがそうさせたのか。たぶん両方だと思う。
夏生のことを、僕は最初「落ち着いた人だ」と思っていた。年齢より少し老けて見える、という意味ではなく、芯のある静かさがある、という意味で。あとから彼の家のことを少しずつ聞いて、なるほど、と思った部分があった。父親を幼い頃に亡くしていること。母親がひとりで彼を育てた時期があったこと。そういう話を、夏生は重そうに語らなかった。ただ事実として話した。その話し方が彼らしかった。
陽翔さんのことは、もう少し後に知った。
夏生の口から「うちにはるくんっていう人がいる」という話が出てきたのは、最初の学期が落ち着いた頃だったと思う。おかあさんより十二歳年下で、もうずっと一緒にいる人で、先に惚れたのははるくんのほうだったらしい、と夏生は言った。それもやはり、重そうに語らなかった。
「いい人なんだよ」と夏生は言った。「頭がいいし、落ち着いてるし。おかあさんに合ってると思う」
「複雑な気持ちはなかったの」と僕は聞いた。
「なかったとは言わない」と夏生は答えた。「でも、そういうことじゃないと思った」
僕にはその「そういうことじゃない」の意味が、すぐには分からなかった。でも後から、分かった気がした。
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ガーディアン契約の話が出たのは、夏生がシックスフォームに入ってきた冬のことだ。
長期休暇のたびに行き先を探す、という僕の事情を、いつだったか夏生に話したことがあった。学校側はガーディアン——休暇中に面倒を見てくれる保護者代わりの大人——を立てることを勧めていたが、僕はずっと業者任せにしていた。
夏生が理沙さんと陽翔さんに話してくれたのだと、後から知った。夏生から聞いたのではなく、陽翔さんに「夏生から聞いて、一度会ってみようということになった」と言われた。そういうさりげない動き方をする友人だった。
ロウアー・スローターに初めて来たのは、その冬休みだった。
コッツウォルズの石の家というものを、僕はそれまで写真でしか知らなかった。実際に来てみると、想像より小さくて、温かかった。村の入り口から石畳が続いていて、アイ川が道に沿うように流れていて、家の壁がはちみつ色で——全部がゆっくりしていた。パリにも、ロンドンにも、そういうゆっくりさはない。
理沙さんが玄関を開けてくれた。エプロン姿だった。「いらっしゃい、遠かったでしょう」と言った。日本語だった。
僕は「お邪魔します」と答えた。その頃は今より日本語が頼りなかったから、声が少しこわばったと思う。
陽翔さんは台所から顔を出して、「来たか」とだけ言った。それだけだった。
夏生が「うん」と答えて、靴を脱いだ。当たり前のように、家に入った。
僕は少しの間、玄関で止まっていた。
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あの冬に何があったか、細かくは覚えていない。
覚えているのは、断片だ。陽翔さんが毎朝コーヒーを淹れていたこと。理沙さんが夕食のときに「食べられないものある?」と確認してくれたこと。一度答えたら、次からは聞かなくなった。覚えていてくれていた。夏生が家の中では学校と少し違う顔をしていたこと。リビングで理沙さんと陽翔さんと夏生の三人が同じ空間にいるとき、何かを言い合わなくても成り立っている静かさがあったこと。
理沙さんと陽翔さんが正式に結婚したのは、その少し後のことだと後から知った。あの冬の家の空気からは、籍が入っているかどうかなど関係のないくらい、ふたりはすでに夫婦だったけれど。
僕の家は、両親がいないことが多かった。だから「家族がいる場所」の温度というものを、実はよく知らなかった。
ロウアー・スローターの家は、僕が知らなかった温度をしていた。
それを「羨ましい」と思ったかどうか、正確には分からない。ただ、また来たいと思った。それは確かだ。
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翌年の春、夏生から話があった。
「おかあさん、子どもができたらしい」
食堂で、さらっと言った。さらっとしすぎていたので、僕は一瞬聞き返しそうになった。
「それは——」
「いいことだと思う」と夏生は言った。聞き返す前に、答えが来た。「はるくんの子どもだから、おかあさんにとっては二人目だけど、ふたりにとっては最初の子どもだし」
「複雑な気持ちはないの」とまた聞いた。
「ないとは言わない」とまた同じ答えが来た。「でも、そういうことじゃないと思う」
僕は黙った。今度は最初から、「そういうことじゃない」の意味が少し分かった。
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その後の数か月、夏生は変わったと思う。
変わった、というより、何かが増えた、という感じだ。いつも通りなのに、どこかそわそわしている。珍しいことだった。
理沙さんからメールが来ると、夏生はすぐ返信した。陽翔さんからの連絡も同じだった。女の子だと分かったのは、初夏の頃だったと思う。予定日のことを、寮の部屋で何度も確認していた。七月の後半、と言っていた。
夏生の誕生日は七月の前半だ。だから妹は、兄より少し遅れた夏に生まれてくる、と夏生は言った。それがなんとなく嬉しそうだった。同じ季節に生まれてくる、ということが。
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名前を考え始めたのは、女の子だと分かってすぐのことだったと思う。
寮の部屋で、夏生がノートに何かを書いていた。勉強ではなさそうだった。
「何してるの」
「名前」
「名前?」
「妹の。おかあさんたちが、俺に決めていいって言ってくれたから」
僕は少し驚いた。大事なことを、夏生に委ねたということだ。
「プレッシャーじゃない?」
「めちゃくちゃある」と夏生は言った。珍しく正直な顔をしていた。「一生その名前で生きていくわけだから。変なの付けたら申し訳ないし」
それから数週間、夏生は何かというと名前の話をした。
最初はかなり大量の候補があった。夏生がノートを見せてくれたとき、ページをめくるたびにびっしり書いてあって、僕は少し笑いそうになった。海、空、陽、光——夏や空や光に関係する漢字が多かった。
「共通点があるね」と言った。
「夏生まれだから」と夏生は言った。「俺も夏生まれで、妹も夏に生まれてくる。それなら夏に関係する字がいいと思って」
「きみの名前も夏だね」
「そう。夏生。俺が夏に生まれたから」
そのとき夏生は少し間を置いて、ノートを見た。
「美しい夏、っていう意味の名前にしたいと思ってる」
「どう書くの」
「美夏。みなつ」と夏生は言った。声に出してみたのは、たぶんそれが初めてだった。「美しい夏、で、みなつ」
僕は声に出してみた。「みなつ」
「どう思う」
「いい名前だと思う」
夏生はしばらくノートを見ていた。それから静かに、「そうだな」と言った。決まった、という声だった。
理沙さんへのメールの文面を、夏生は何度も書き直した。僕は横でヴィオラを弾いていたが、夏生が「これどう思う」と画面を見せてくるたびに弓を止めた。最終的にどんな文面になったか、正確には覚えていない。ただ、送信ボタンを押した後の夏生が、少しだけ肩の力を抜いたのを覚えている。
数時間後、理沙さんから返信が来た。夏生は画面を見て、何も言わなかった。でも、顔を見れば分かった。
「よかったね」と僕は言った。
「うん」と夏生は言った。それだけだった。
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美夏が生まれたのは、七月の後半だった。夏生が十七歳になって間もない頃のことだ。
その週は、来年のギャップイヤーの件もあって夏生に休暇前の手続きがいくつか残っていた。僕のほうも休暇前の確認があって、しばらく学校に残っていた。
その日、同じ部屋で順番を待っているあいだも、夏生はずっとそわそわしていた。先生に何度か名前を呼ばれても、一拍遅れて返事をしていた。連絡が来たのは午後の遅い時間で、夏生は寮の部屋に戻るなり携帯を確認して、「生まれた」と言った。
「おめでとう」と僕は言った。
「ありがとう」と夏生は言った。それから少し笑った。珍しい笑い方だった。何かがこみ上げているのを、抑えているような。
その夜、夏生は美夏の写真を何枚も見ていた。画面を見せてくれた。小さかった。当たり前だけれど、とても小さかった。
「みなつ、だ」と夏生は言った。生まれてきた子どもに、名前が初めて実感として追いついた、という声だった。
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手続きが終わると、夏生は飛んで帰るように準備した。
僕も一緒にロウアー・スローターへ向かった。電車でモートン・イン・マーシュまで行って、そこからタクシーで村へ入った。車窓から石垣と牧草地が続いていく。夏生はその間ずっと携帯を触っていた。写真を見ていたのか、メッセージを読んでいたのか、どちらかだったと思う。
家に着くと、理沙さんが赤ちゃんを抱いていた。陽翔さんがその隣にいた。夏生が駆け寄るように近づいて、しばらく美夏の顔を覗き込んでいた。何か話しかけていたが、聞こえなかった。
僕は少し離れたところで、その場面を見ていた。
理沙さんと陽翔さんと夏生と、生まれたばかりの美夏。家族がひとり増えた、という当たり前のことが、その場所に静かに広がっていた。石の家の中に、夏の光が差していた。
それは僕が入っていける場面ではなかった。でも、そこにいてよかったと思った。
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あれから何年経ったか、数えるより先に季節で覚えている。
美夏が初めて「るいと」と呼んだ日。火曜日の教会に通い始めた夏。カイロをポケットに入れてくるようになった冬。弦を替える作業を、一言も話さずに見ていた夏。
今でも、この家に来るたびに「お邪魔します」と言う。言い続けている。でも玄関の内側に入ったとき、石の匂いと、台所の温度と、アイ川の遠い音が届くたびに——僕は正直、お邪魔している気があまりしない。
それがこの家のことを、どこから話すか迷う理由だ。
始まりを正確に言えないほど、もうここに馴染んでいる。




