第9章 新しい街で育つ光
ウィーンの九月は、思ったより静かだった。
石畳の道に、朝の光が平らに落ちていた。トラムが通り過ぎると、線路の音が低く続いて、消えた。カフェの前に椅子が出ていて、誰かが新聞を読んでいた。
美夏は寮の窓からその通りを見て、ロウアー・スローターとは何もかも違う、と思った。
川はなかった。石造りではあったが、あの村の石とは色が違った。空気も乾いていた。イギリスの湿った朝に慣れた身体には、最初の数日は違和感があった。
でも、嫌いではなかった。
寮の部屋は小さかった。ベッドと机と、ケースを立てかけるための壁。窓から見える屋根の並びが、夕方になるとオレンジ色になった。その色を見るのが、最初の数日の、小さな楽しみになった。
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美夏が入学した学校は、ウィーンの中心部に近いところにある音楽専門のギムナジウムだった。
世界中から若い演奏家が集まっていた。実技の試験を通ってきた子たちが、同じ廊下で練習室の空き時間を争っていた。授業のあいだも、どこかの部屋から誰かの音が漏れていた。弦、ピアノ、管。それが学校の空気だった。
入学してすぐ、美夏は廊下に立って、その音を聞いた。
こういう場所なのだ、と思った。怖いとは思わなかった。ただ、ここにいる意味を、自分で持っていないといけない気がした。
同じ寮の子たちは、いろんな国から来ていた。チェコ、韓国、日本、イタリア。共用のキッチンで顔を合わせ、少しずつ名前を覚えた。英語で話したり、身振りで伝えたり、笑ったりした。ここでは誰もが多少よそ者で、それが逆に気楽だった。
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担当のシュタイナー先生は、白髪まじりの小柄な女性だった。最初のレッスンで、美夏に一曲弾かせた。弾き終わると、少し間を置いてから言った。
「どこで育ったの」
「イギリスのコッツウォルズ地方にある、ロウアー・スローターという村です」
「川のそばで?」
「はい。アイ川という川が」
先生はすこし考えてから、「なるほど」と言った。「音の間に、ゆったりとした気配がある」
美夏はその言葉の意味を、すぐには分からなかった。でも、悪いことではない、という感じはした。
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十月になると、少し慣れてきた。
練習のペース、授業の流れ、食堂の混む時間、寮の廊下の音の消え方。そういう小さなことが積み重なって、暮らしになっていった。
同じクラスのアナという子が、昼によく声をかけてくれるようになった。チェコから来た、ヴァイオリンの子だった。
「美夏って、毎日いちばん早く練習室に来てるよね」
「そう?」
「そう。気づいてなかったの?」
美夏は首を傾けた。「早く来ないと、空き室が取れないから」
「みんなそれを分かってて、でも早く来れてないんだよ」とアナは笑った。「美夏は本当に真面目だ」
そういうやりとりが、少しずつ積み重なった。友達と呼べるかどうか分からなかったが、隣に誰かがいる感じは、じわじわとあった。
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週末になると、夏生が来た。
ほぼ毎週のことだった。寮の前の通りに、見慣れたジャケット姿で立っていた。
「早い」と美夏は言った。
「暇だったから」と夏生は言った。
「暇なわけないでしょ」
「じゃあ、みーちゃんに会いたかったから」
美夏はすこし黙ってから、「……行くよ」と言って歩き出した。
一緒に食材を買って、夏生のアパートに戻った。アパートは寮から歩いて十五分ほどのところにあった。キッチンが広めで、夏生は料理が得意だった。美夏が楽譜を広げているあいだに、夏生が何か作った。たいてい食べ慣れたものだった。
「なんで作れるの、こんな」とある週末に美夏は言った。
「みーちゃんが生まれてから、ご飯の当番が増えたから」
「わたしのせいなの」
「感謝してほしいくらいだ」
美夏は「ありがとう」と小さく言って、また楽譜に目を落とした。キッチンの方で、夏生が笑った。
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十一月のある週末、寮の前で友達に会った。
韓国から来たソヨンという子で、ピアノの子だった。夏生を見て、少し目を丸くした。
「お兄さん?」
「うん」と美夏は言った。
「毎週来てるよね」
「……まあ」
「すごい、過保護じゃない?」とソヨンは笑った。悪意はなかった。ただ率直だった。
美夏はすこし言葉に詰まった。
「別に、来なくていいって言ってるし」
「でも来てるじゃん」
「……来るから」
夏生はそのやりとりを少し離れたところで聞いていたが、何も言わなかった。ソヨンが行ってから、「来なくていいって言ってたの?」と夏生は言った。
「言ってない」
「言ってたじゃないか今」
「……気にしないで」
夏生はすこし笑った。「来るよ、来週も」
美夏は「分かってる」と言って、先に歩き出した。すこし早足だったが、夏生はそれに合わせた。
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シュタイナー先生が、美夏の音について何かを掴んだのは、十二月のレッスンだった。
その日、美夏はあるパッセージを弾いていた。先生の指示通りに弾いて、一度止まった。それから先生の指示とは少し違う弾き方を、自分でやってみた。
止まって、先生を見た。
「今のは?」と先生が言った。
「音が急いでいる気がして。待ったほうがいいかと思って」
「待ったほうがいい、と思った根拠は」
「……前の音の余韻が、まだ残っているうちに次へ行くと、薄くなる気がするので」
先生はしばらく美夏を見ていた。
「もう一度、今の弾き方で」
美夏は弾いた。
先生が何も言わずに窓の方を見た。それから「そのままにしておきなさい」と言った。「それが、あなたの音の在りかだから」
美夏はその言葉を、部屋に帰ってからも考えていた。
在りか。自分の音の、在りか。
ケースのポケットに手を入れた。古いメモ、楽譜、短い鉛筆。みっつが、まだそこにあった。
るいとが「まっすぐなのは、もうできてる」と言った日のことを、静かに思い出した。
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年が明けて、春になった。
街に光が増えて、石畳が白くなった。トラムの音が、朝もう少し早くから聞こえるようになった。カフェの椅子が、また外に並んだ。
美夏は練習室の窓から、その通りを見ることがあった。
ロウアー・スローターとは、何もかも違った。川はなかった。教会も、あの石の空気も、ここにはなかった。
でも、音はここでも育った。
アイ川の音に溶けていった音が、今はウィーンの石畳の朝に溶けていった。どちらも、美夏の音だった。
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十四歳になったころには、学校の生活が日常になっていた。
練習室の癖も、食堂のメニューの周期も、先生たちのそれぞれの流儀も、分かってきた。アナとソヨンと三人で、授業の合間に中庭に出るようになっていた。
アナが「美夏って、弾くとき何を考えてるの」と聞いたことがあった。
「音の、待ち方」と美夏は言った。
「待ち方?」
「急がないこと。次の音に、すぐ行かないこと」
アナはしばらく考えてから、「なんかそれ、美夏らしい」と言った。
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秋が深まり始めた頃、学校でクリスマス前のサロンコンサートの出演者が発表された。美夏の名前も、その中にあった。
大きな舞台ではなかった。学校の中にある小さな石造りのサロンで、生徒と先生の前で弾く、それだけの演奏会だった。でも美夏には、そのくらいの大きさがちょうどよかった。音がどこまで届いて、どこで返ってくるのか、自分で聴ける気がしたからだ。
曲が決まってからの数週間、練習は少しだけ変わった。ただ正しく弾くのではなく、どこで待つか、どこで急がないかを、自分で選ばなければならなかった。シュタイナー先生は細かくは言わなかったが、ときどき短く「そこは急がなくていい」とだけ言った。
アナが練習室の外で聴いていて、「美夏、その曲だといつもより静かだね」と言ったことがあった。美夏は自分では分からなかったが、たぶんそうなのだろうと思った。静かなまま届く音にしたい、と、その頃にはもう思っていた。
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コンサートは、十二月の半ばに行われた。
客席は数十席ほどで、学生と先生が座っていた。アナとソヨンも来ていた。それから、いちばん後ろの列に、夏生がいた。
仕事用の小型レコーダーをさりげなく鞄から取り出して、机の端に置いた。美夏には録音のことは言っていなかった。
美夏の出番は、プログラムの中ほどだった。
舞台に出て、一礼した。弓を構えた。
弾き始めたとき、最初の一音で、静かになった。客席の静けさではなく、音そのものが持っている静けさ、とでもいうような。
曲は、バッハのヴァイオリンソナタだった。
伸ばすところで、少し待った。急がなかった。音がサロンの石の壁に当たって、帰ってきた。帰ってきた音は、行ったときと少し変わっていた。
その一瞬、どこかでアイ川の湿った匂いがした気がした。石床の上で埃が光の中をゆっくり動いている、あの教会の空気。ほんの一瞬で、消えた。
でも、確かにあった。
最後の音が消えてから、少しのあいだ静けさが続いた。それから拍手が来た。
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演奏が終わって、廊下で友達と話していた。アナが「今日の美夏、また違った」と言った。「なんか、もっと広くなった感じがした」
「広く?」
「音が。弾いてる場所より広い感じ」
美夏はその言葉を、すこし考えた。
夏生は遅れて廊下に来て、「良かったよ」とだけ言った。
「録音してたでしょ」と美夏は言った。
夏生がすこし目を逸らした。「……バレてた?」
「なんとなく」
「データ、送ってほしい?」
美夏はすこし間を置いた。
「うん」と言った。「あと、もう一人に」
夏生は何も聞かなかった。でも、分かっていたと思う。
「分かった」と夏生は言った。
廊下の向こうから、アナとソヨンが「美夏、早く来て」と呼んでいた。
美夏は「行く」と言って、そちらへ歩いた。
夏生はその後ろ姿を、少しのあいだ見ていた。
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学校を出ると、ウィーンの夜はもう暗かった。
石畳の上に街灯の光が伸びていた。どこかの広場から、クリスマスマーケットの明かりがにじんでいた。トラムが一台、音を立てて通り過ぎた。
美夏はコートの前を合わせて、少し空を見た。
冬の空は低く、でも澄んでいた。
アイ川の音が、遠くでまだ続いているような気がした。ここにはないのに。でも、消えたわけでもない。
美夏はケースを持ち直して、歩き出した。




