第10章 海へ帰る
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日本の十二月は、冷えていた。
空が低く、山の輪郭がくっきりしていた。前の日に少し雪が降って、屋根の端にまだ白く残っていた。街の灯りが早い夕暮れの中に滲んで、窓の内側から見ると、どこも少しあたたかそうに見えた。
母の故郷の街は、クリスマスに大げさにならない場所だった。商店街に飾りつけがあって、ケーキ屋の前に列ができた。それくらいだった。派手ではなかった。でも、悪くなかった。
その夜、母と小さなケーキを食べた。
僕が近所の店で買ってきたものだった。苺とクリームの、ごく普通のケーキだった。食卓に置いて、ふたりで向かい合って、お茶を飲みながら食べた。
「去年も、ここのだったね」と母は言った。
「そうだったっけ」
「同じ店で買ってきてくれたの、覚えてない?」
「覚えてなかった」と僕は言った。
母は少し笑った。笑い方が、最初の頃より自然になっていた。泣くことも、まだあった。夢で父を見て、起きてからも泣いていることがあった。でも、ご飯を食べて、近所を歩いて、幼馴染と話すうちに、少しずつ戻ってきていた。完全ではなかった。でも、去年よりは確かに近かった。
食事の片付けをして、居間に戻った。母はテレビを見ていた。僕は窓の近くに座って、外を見ていた。
寒い夜だった。雪は止んでいたが、屋根の白さが街灯の光を受けて、外がすこし明るかった。
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スマートフォンが震えたのは、夜の九時過ぎだった。
夏生からだった。
「メリークリスマス。プレゼント代わりに、みーちゃんの演奏送る。学内コンサートの。」
それだけだった。短かった。夏生らしかった。
添付ファイルがあった。音声データだった。
しばらく、スマートフォンを持ったまま見ていた。
母が「誰から?」と聞いた。
「夏生から」
「朝倉さんの?」
「うん。みーちゃんの演奏を送ってくれた」
母はすこし間を置いてから、「みーちゃん、今いくつ?」と言った。
「十四歳になったはず」
「早いね」と母は言った。テレビの方を向いたまま、少しだけ遠い目をした。
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聞いたのは、母が眠ってからだった。
居間の灯りをひとつ消して、ソファに座った。イヤホンをして、再生した。
最初の一音で、何かが灯った。
上手い、とかそういうことではなかった。音の中に、時間があった。急いでいなかった。音が次の音へ渡される前に、少しだけ待っていた。その待ち方に、覚えがあった。
——次の音に、急がなくていい。
あの教会で、そう言ったのは僕だった。
曲はバッハのヴァイオリンソナタだった。でも、弓の動かし方の中に、あの「海と光」で弾いていたみーちゃんの感覚が滲んでいた。伸ばすところで待つ感じ、音の縁を薄くしようとする意志。あれから三年以上経っていた。でも、その感覚は消えていなかった。むしろ深くなっていた。
演奏が終わった。
イヤホンを外して、しばらくそのままでいた。
窓の外で、街が静かだった。遠くに街灯の光がいくつか見えた。
胸の中で、何かが動いた。止まっていたものが、すこし動いた。
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ケースを開けたのは、その夜遅くだった。
母は眠っていた。居間の灯りだけつけて、弓を取り出した。松脂を当てた。チューニングした。
鞄の底から「海と光」の楽譜を出した。折り目だらけになった紙を、丁寧に広げた。みーちゃんのパート。書き直した跡。もっとひかりを細くしようとした跡。
弓を構えて、最初の音を出した。
音が居間の空気に入っていった。
演奏会のホールでもなく、あの教会でもなく、日本の小さな家の居間だった。でも音は出た。ヴィオラの低い音が、畳の上に広がった。
のばすところで、少し待った。急がなかった。
みーちゃんのパートは音にできなかった。でもそこに空白があって、その空白の形が、みーちゃんの音の形だった。
まだ完成していなかった。でも、止まっていた音が、また息をし始めていた。
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「なんていう曲?」
振り返ると、母がドアのところに立っていた。
「起こしてしまった」
「ううん、目が覚めてたから」と母は言って、部屋の中に入ってきた。「なんていう曲か聞いてもいい?」
「……『海と光』」と僕は言った。
母は少し首を傾けた。「自分で作ってるの?」
「まだ途中。なかなか完成しない」
「海のモチーフがあるの?」
「ある」と僕は言った。
母がソファの端に座った。僕も、その近くに座った。
「昔、よく行ったね」と母は言った。「ブルターニュの海」
「うん」
「お父さん、波が大きいと喜んでた」
「分かる」と僕は言った。「岩の上に立って、ずっと見てた」
母はすこし笑った。今夜二度目の、自然な笑い方だった。
「光のモチーフは?」
「それは……ロウアー・スローターの光」と僕は言った。「教会で教えてた時の音が、光に似てたから」
「みーちゃん?」
「うん」
母はそれきり何も言わなかった。ただ、窓の外を少し見ていた。
「ブルターニュ」と母はしばらくして言った。「また行けるかな」
「行けると思う」と僕は言った。「春になったら、どうかな」
母は答えなかった。でも、窓の外を見続けていた。その横顔に、遠いものを見ている色があった。
悪い遠さではなかった。どこかへ向かう遠さだった。
僕は楽譜を膝の上に置いたまま、その横顔を見ていた。海のモチーフは、ずっと自分の中にあった。父と母と、あの岩場と、波の音。そこへ、みーちゃんの光が差し込んできた。だから「海と光」になった。
今夜初めて、その曲の意味が、自分の中ではっきりした気がした。
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母が部屋に戻ってから、もう一度だけ弾いた。
今度は最後まで。音にならない部分は、空白のまま残した。でも、その空白も含めて、曲だった。
弾き終えて、弓を下ろした。
窓の外で、街はもう眠っていた。霜の中の灯りが、遠くにいくつか残っていた。
手帳を開いて、短く書いた。
「春になったら、フランスへ。」
それだけ書いて、閉じた。
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母がフランスへ帰りたいと言ったのは、それから数日後のことだった。
朝食のあと、お茶を飲みながら、母は「ブルターニュに戻りたい」と言った。春になったら、という言葉はなかった。ただ「戻りたい」と言った。それだけで十分だった。
「分かった」と僕は言った。「一緒に行く」
母は何も言わなかった。でも、カップを持つ手が、すこし落ち着いていた。
荷物の整理を始めると、思ったより時間がかかった。三年以上暮らした部屋には、少しずつ積み重なったものがあった。母の幼馴染が手伝いに来て、不要なものを分けて、必要なものだけ残した。引き払う日取りが決まって、航空券を取った。
母の故郷の街を出る朝、空は晴れていた。山が遠くに白く残っていた。
母は玄関を出るとき、一度だけ振り返った。何かを言うかと思ったが、何も言わなかった。そのまま歩き出した。
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フランスに着いたのは、三月の終わりだった。
パリを経由して、列車でブルターニュへ入った。窓の外に、見慣れた風景が戻ってきた。空の広さが違った。光の色が違った。地平線まで続く草地と、その先に見える水の気配。
母は窓の外をずっと見ていた。何も言わなかったが、肩の力が少し抜けていくのが分かった。
父と暮らしていた家は、そのままだった。隣人が管理してくれていた。鍵を開けて中に入ると、空気は冷たく、でも懐かしい匂いがした。
その夜、ふたりで家の掃除をした。父の荷物をまだすべて片付ける気にはなれなかった。でも、台所と寝室だけは整えた。それだけで、暮らせる形になった。
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ブルターニュの海岸へ行ったのは、翌日の午後だった。
母が「海を見たい」と言った。
車で海岸まで走った。春の海は、まだ冷たかった。風が強く、波が岩に当たって砕けていた。
駐車場から岩場へ降りる道を、母と並んで歩いた。海の音が、近づくにつれて大きくなった。
岩の上に立った。
海は灰色と青が混ざった色をしていた。水平線が遠かった。波が岩を越えて、しぶきが上がった。風が冷たく、コートの中まで入ってきた。
母がその風の中で、目を細めていた。
父がここに来ると、いつも岩の一番先まで行った。波がどんなに高くても、ぎりぎりまで立って、海を見ていた。岩の上で、風に向かって笑っていた。
その場所は今、空だった。
でも、波は同じだった。海の色も、風の冷たさも、岩の感触も、何も変わっていなかった。
「来られてよかった」と母は言った。
「うん」
「来るのが怖かった。でも、来られた」
僕は何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。
波が岩を叩いて、しぶきが散った。風が海の匂いを運んできた。母はそれを深く吸って、また水平線を見た。
海のモチーフは、ここにあった。ずっとここにあった。父が立っていたこの岩場、この波の音、この風の冷たさ。それが、「海と光」の海だった。
みーちゃんの光は、まだここには来ていなかった。
でも、いつか来る気がした。
波が返していった。風は続いていた。母はまだ、水平線を見ていた。
僕も、同じ方向を見た。




