第11章 海と、光と
湯が沸く音がした。
ルイがリビングから顔を上げると、母が台所に立っていた。流しの前で、ゆっくりポットを傾けている。
何でもないことだった。
でも、ルイはしばらく手を止めたまま、その後ろ姿を見ていた。
窓が少し開いていて、湿った風が薄いカーテンを揺らしていた。海からの風だ。日本の空気とは違う、磯の気配をわずかに含んだ重さがある。光は白っぽく、柔らかい。まだ朝の早い時間だった。
「座りなさい」と母が言った。振り向かずに、でも確かめるように言った。「もうすぐできるから」
ルイは椅子を引いて座った。テーブルの上にはすでにパンが出ていた。バターナイフも、ジャムの瓶も。
いつの頃からか、朝の支度を母がするようになっていた。ブルターニュに戻ってから、二度目の春になっていた。最初は気づかないふりをしながら横に立っていたが、今は台所に立つ母の背中を、ただ見ていられるようになっていた。
それで十分だ、とルイは思っていた。
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母が自分でメモを書くようになったのは、冬が終わる頃だった。
買い物のリストを、小さな紙にていねいに書いて、冷蔵庫の扉に貼る。ルイが確認しなくても、母はそれを見ながら一人で市場へ出た。最初の日、ルイはさりげなく窓から見送った。母の背中が路地の角を曲がって見えなくなるまで、そこに立っていた。
庭へも出るようになった。午前の光が白く差し込む時間に、母は庭の石のベンチに座って、ただ空を見ている。ルイを呼ぶことはしなかった。それだけのことだが、十分すぎるほどだった。
昼食を二人で作るようになった。母が玉ねぎを刻み、ルイがフライパンを持つ。話すことが多いわけではなかった。でも台所に二人分の気配があって、それが自然なことになっていった。
父の話が出ることもあった。
ある夕方、母がふいに「お父さん、バゲットが好きだったわね。どこの国にいても、バゲットばかりだったわ」と言った。それだけだった。テーブルの上のバスケットを見ながら、独り言のように。ルイは「そうだね」と答えた。場が壊れるかと思ったが、壊れなかった。母はそのままスープの皿を引き寄せて、静かに食べ続けた。
回復とは、もとに戻ることではないのだと、ルイはこの春に少しずつ分かってきていた。ただ、暮らしの手触りがなめらかになってくること。それだけだった。
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フランスへ戻って、一年が過ぎていた。
知人から連絡が来たのは、四月の終わりだった。
室内楽の小さな合わせで、ヴィオラが一人足りない。二時間だけでいい、来られるならと。
ルイはしばらくメッセージを見たままでいた。断る理由を探したわけではない。ただ、どこかで身構えていた。
行くことにした。
出かける朝、母が玄関まで来た。「いってらっしゃい」と言った。それだけだった。でも、その声は静かで、しっかりしていた。
ケースを持って町へ出た日、空は明るく、風に埃っぽい乾いた匂いがあった。石畳の上を歩きながら、ケースの重みが右肩にかかるのを感じた。久しぶりの重さだったが、知らない重さではなかった。
合わせは教会の脇の小さな部屋で行われた。他の奏者たちはルイに余計なことを聞かなかった。楽譜を広げて、音を出して、止まって、また戻る。それだけのことを、二時間繰り返した。
帰り道、少し疲れていた。でも足は軽かった。
家に戻ると、母が顔を上げた。「どうだった?」
ルイは上着をかけながら答えた。「疲れた。でも、嫌じゃなかった」
母はそれ以上聞かなかった。ルイも、それ以上言わなかった。
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その日が来たのは、五月のやわらかい夕方だった。
母が食後に窓の外を見ていた。庭の石に西日がかかって、影が長く伸びている。ルイは片付けをしながら、特に何も考えていなかった。
母が、グラスに残った水を一口飲んだ。それから、窓の外の影をもう少し見ていた。
「ねえ」と母が言った。
ルイは手を止めた。
「もう大丈夫よ」
母はまだ窓の外を見ていた。振り向かないまま、ゆっくりと続けた。「ずっとここにいなくてもいいの。あなたは、好きなところへ行きなさい」
ルイは何も言えなかった。
母がこちらを向いて、少し笑った。泣いているわけでも、大げさなわけでもなかった。ただ、静かに笑っていた。
「分かってる。行きたい場所があるでしょう」
ルイはしばらく経ってから、小さく「うん」と言った。
母はそれを聞いてから、また窓の外へ目を戻した。庭の影はもう少し長くなっていた。
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数日後の夜、ルイは荷物を出した。
大きなものは要らなかった。着替えと、ヴィオラケースと、譜面のいくつか。
棚の引き出しから「海と光」の束を取り出した。書き込みのついた五線紙が何枚も重なっていた。事故の前に書いたもの、日本では触れられなかったもの、ブルターニュへ戻ってから海の部分だけが少し動き始めたもの。完成にはまだ遠いが、どこへも行かせたくなかったから、いつも手の届く場所に置いていた。
一枚一枚確認して、順番を整えて、ケースのポケットに入れた。
父が使っていたパスポートケースが、引き出しの奥に残っていた。くたびれた革の、小さなものだ。出張のたびに父が持っていたものだった。事故のあとも捨てられず、そのままそこにしまわれていた。
ルイはそれを手に取って、少しの間持っていた。革は乾いていて、もう誰の手の熱も残っていなかった。それから、元の場所へ静かに戻した。
母の部屋に明かりがついていた。ドアをノックすると、「入っていいよ」と声がした。
「明日、出る」とルイは言った。
母はベッドの上で本を読んでいた。眼鏡をかけていた。「うん」と答えた。それだけだった。
「連絡する」
「しなくていいわよ。でも、したくなったらしなさい」
ルイは小さく笑って、ドアを閉めた。
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モートン=イン=マーシュで列車を降りると、空気が変わった。
湿っていた。草と土と、石の匂いが混じったような、ここだけの空気。肺に入った瞬間に、ルイは何かが緩むのを感じた。緊張が解けたというより、長いあいだ閉めていた窓が少し開いたような感覚だった。
タクシーで村へ向かった。運転手は話しかけてこなかった。窓の外に、石塀と牧草地と、新緑の並木が続いた。光は白く、柔らかかった。フランスの光とは違う、水気を含んだやさしい明るさだった。
村に入ったとき、川の音が聞こえた。
最初は遠く、それからだんだん近くなった。アイ川だ。何も変わっていない。石の橋も、橋の下を流れる水の色も、水面に映る空の形も。ただ季節だけが確かに進んでいて、川岸の草は青く、花がいくつか咲いていた。
ルイは橋の上で少し立ち止まった。
昔は、ここへ来るたびに誰かに迎えられていた。今は、自分の意志でここへ戻ってきた。懐かしさはあった。でもそれだけではなかった。戻ってきたことで、止めていた何かが本当に動き始める、という予感が、少し怖かった。
それでも、足は止まらなかった。
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教会の手前で、管理人の老人に会った。
石壁沿いの管理室から出てきたところだった。ルイの顔を見て、老人は目を細めた。それから、少し間を置いてから静かに言った。「ずいぶん久しぶりじゃないか」
「そうですね」とルイは答えた。
老人はそれ以上のことを聞かなかった。ヴィオラケースに一度だけ目を落として、それから管理室へ戻り、鍵を持ってきた。
「終わったら前と同じでいいよ」と老人は言った。
ルイは鍵を受け取って、「ありがとうございます」と言った。
老人は小さくうなずいて、また石壁の方へ向き直った。
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教会の扉は重かった。
押し開けると、ひんやりした空気が流れ出た。石の匂い。古い木の匂い。日本にもフランスにもない、ここだけの匂いだった。
中は静かだった。高い窓から光が斜めに差し込んで、床の石の上に細長い四角を作っていた。木の椅子が並んでいる。誰もいなかった。外の川の音だけが、低く続いていた。
ルイはしばらく入口に立ったまま、動かなかった。
前の方に、小さな演台がある。その少し手前に、美夏がいつも立っていた場所がある。子どもだった美夏が、ヴァイオリンを構えて、少し緊張した顔で立っていた場所。
何も起きなかった。でも、その場所を見ていたら、手の中に温度のようなものが戻ってきた。何かが欠けていたのだと、この空気の中でようやく思った。音楽のせいではなかった。ただ、ここに来なければ手に触れなかったものがあった。
ルイは前へ進んだ。
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ケースを下ろし、椅子を一つ引いて、腰を下ろした。ポケットから「海と光」の束を取り出した。五線紙を膝の上に広げる。鉛筆を持った。
ヴィオラを出した。松脂を弓に当てながら、窓の光を見た。川の音はずっと続いていた。
最初の音を置いた。
確かめるように、ゆっくりと。主題の入り、低音の流れ、和声の重なり。弾きながら譜面に目を落とし、また止まり、少し戻る。海のモチーフは体に入っていた。ずっとそこにあったから、どこにいても消えなかった。ブルターニュの海の色、岩に当たる波の音、父が立っていた場所。それがそのまま弓の動きになった。
難しかったのは、光の旋律だった。
譜面の中に、最初から美夏の音のための線がある。ヴィオラでは鳴らせない高さにある、細く明るい旋律。ルイはヴィオラで低音と和声を確かめながら、頭の中でその線を聴いていた。あの教会で初めて合わせたとき、美夏の音が突然景色になった瞬間。光を細くしようと思う、と言っていた声。それが鳴っていた。
何度か止まった。
終わりの数小節が、まだ決まらなかった。着地できないまま、同じ場所へ何度も戻った。焦りではなかった。ただ、もう少し、もう少しだけ待つ感覚があった。
川の音が続いていた。
光が少し動いた。高い窓からの四角が、床の上をゆっくりとずれた。
ルイはもう一度、最後の手前から弾き始めた。
海のモチーフが来て、光の旋律が重なって、その先へ進んだとき、ずっと決まらなかった最後の数小節が、静かに着地した。
ひらめきではなかった。どこかへ到達したわけでもなかった。ただ、長いあいだ持ち続けてきたものが、ようやく音として落ち着いた。それだけだった。
弓が止まった。
音が消えた。
川の音だけが残った。
しばらく、動かなかった。
それから、ゆっくりと譜面を見た。最後の小節に、鉛筆でいくつかの音符を書き加えた。丁寧に、確かめるように書いた。書き終えてから、また少しの間、そのまま見ていた。
束をそろえて、ケースのポケットに戻した。
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ポストに鍵を入れようとしたら、老人が管理室の前に椅子を出して座っているのが見えた。ルイは鍵を差し出した。老人は黙って受け取った。
それだけだった。
川の方へ出ると、水の音が大きくなった。橋の上に立つと、アイ川がゆっくりと流れていた。水面に春の光が揺れていた。
曲はもう、ケースの中に収まっていた。
戻るべき場所には、ちゃんと戻ってきた気がした。今日はまだ、ここまででよかった。
川の音はいつものようにずっと続いていた。




