第12章 Clair(光)
部屋の前を通りかかったとき、声が聞こえた。
アパートの廊下の突き当たり、夏生の部屋のドアが少し開いていた。夕方の光が床に斜めに落ちていて、ドアの隙間から仕事の声が漏れていた。美夏は通り過ぎようとして、足が自然に遅くなった。
「……夏生さん、やっぱり本社の近くにいてもらわないと」
聞き取れたのは断片だけだった。でも声の硬さは分かった。画面の向こうにいる誰かの、丁寧だが引かない声。
「クライアント対応が遅れるんです。今のままだと、戻りの時間も読めなくて」
夏生が何か答えていた。落ち着いた声で、でも少し慎重に。美夏はその声の調子を、今まで聞いたことがなかった。仕事をしている夏生の声だった。
美夏はそのまま台所へ向かった。
お湯を沸かしながら、さっきの声のことを考えた。特別なことを言っていたわけではない。でも、あの声の硬さと、向こうにいる人の言葉の重さが、しばらく耳の中に残った。夏生が、美夏の学校の近くに住むことで、何かを後回しにし続けていたのだということが、初めて具体的な形になって届いた気がした。
会議が終わった気配があって、しばらくして夏生がリビングへ出てきた。美夏はカップを二つ出した。お茶を注ぐ音だけが、少しの間続いた。
「戻らなきゃいけないの?」
夏生は椅子を引きながら、一瞬顔をそらした。「聞こえてたの?そんな深刻な話じゃないから」
「でも、相手の人の声、深刻そうだったよ」と美夏は言った。
夏生はカップを両手で持って、少しの間黙っていた。窓の外で、通りの自転車が過ぎる音がした。
「……戻った方がいいんじゃないの」と美夏は言った。責めているわけではなかった。
「そんなことない」と夏生は言った。
「だから、にぃにがいなくても、なんとかなるから」
「体調崩したときどうすんの」と夏生は言った。「練習が遅くなった日は。緊急で誰かに連絡したいとき、すぐ動ける人間がいなかったら」
「シュタイナー先生がいる。アナもいる。寮の担当の先生もいる」
「そういう話じゃなくて」
「そういう話でしょ」
夏生は少し詰まった。「生活の細かいこと、本当に全部自分で回せんの」
「もう二年いるんだけど」と美夏は言った。「にぃにが来ない週はずっと自分でやってた」
夏生は言い返しかけて、やめた。夕方の光の中で、少しの間だけ黙っていた。
美夏はカップを置いた。少し困ったように笑って、それから言った。
「何かあっても、にぃになら世界中どこにいても飛んできてくれるでしょ?」
夏生は黙った。
理屈ではなかった。信頼で押し返される感じ。言い返せる言葉が出てこなかった。窓から夕方の光が差し込んでいて、美夏の顔の半分を明るく照らしていた。
「……飛んでくるけど」と夏生は言った。
「うん、知ってる」と美夏は言った。
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それでも夏生はすぐには動かなかった。
七月になって、夏休みが来た。美夏と夏生は一緒にロウアー・スローターへ帰った。
モートン=イン=マーシュで降りたとき、空気が違った。湿った草の匂いと、石と、遠くのどこかから来る土の気配。肺に入った瞬間に、体が少し緩んだ。タクシーの窓から、石塀と牧草地と夏の緑が流れた。村に入ると、川の音が聞こえた。
家の玄関を開けると、台所から理沙の声がした。「おかえり」
「ただいま」と美夏は言った。
ケースを下ろして、靴を脱いで、廊下に立ったとき、家の匂いがした。木と、布と、少しだけ料理の気配。変わっていなかった。何年経っても、ここは同じ匂いがした。
夕食の食卓に四人が揃った。陽翔は仕事の話を少しして、夏生は料理を褒めて、理沙は美夏の学校の話を聞いた。特別なことは何もなかった。でも、その何もなさが、ここの時間だった。
翌朝、美夏は早く目が覚めた。
庭に出ると、朝の光がやわらかく草の上に落ちていた。アイ川の音が近くにあった。美夏はしばらくそこに立って、川の方を見ていた。ウィーンの石畳の朝とは違う、水の気配のある明るさだった。どちらも好きだ、と思った。
夏の間、家族の時間が続いた。
理沙と散歩に出て、村の石道を歩いた。陽翔と庭に椅子を出して、本を読んだ。夏生と二人でウィリアムズ先生を訪ねた日もあった。先生は美夏の音が変わったと言った。変わったというより、深くなった、と。
ある日の午後、美夏は一人で村を歩いた。
川沿いの道を抜けて、石造りの教会の前に来た。扉は閉まっていた。中に入ろうとは思わなかった。ただ、外から見上げた。高い窓。石の壁。古い木のドア。
この場所の音を、美夏はまだ体の中に持っていた。ここで弓を動かした感触。ルイが横に立っていた空気。川の音が外で続いていたこと。それが消えていないことを、ここに立つと確かめられた。
しばらく見ていた。それから、来た道を戻った。
背が少し伸びて、動きが静かになっていた。でもここへ帰ってくると、ちゃんと「いつもの美夏」だった。
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八月の終わり、美夏と夏生は一緒にウィーンへ戻った。
九月になった。
ウィーンの朝は乾いていた。石畳の上に秋の光が落ちて、夏とは少し色が違った。学校の廊下には、夏休みを経て戻ってきた顔と、新しく入ってきた顔が混ざっていた。
美夏は自分のロッカーを開けながら、去年の九月との違いを感じた。慣れたというより、自分の場所になってきた感じだった。廊下の端まで、音の流れ方が分かるようになっていた。
夏生は九月いっぱい、まだウィーンにいた。
少しずつ荷物が片づいていくアパートの部屋で、週に一度の食事を続けた。十月の初め、夏生はロウアー・スローターへ戻った。
別れはいつもの延長だった。アパートの前で、キャリーケースを持った夏生と、秋の朝の空気の中にしばらく立っていた。石畳が少し湿っていた。
「何かあったら連絡して」と夏生は言った。
「うん」
「ちゃんと食べて」
「食べてるって」
夏生は笑った。それから、「じゃあ」と言って歩き始めた。美夏は手を振った。曲がり角の向こうへ消えるまで、見ていた。
路地に一人残って、美夏はそのまましばらく立っていた。空いた場所が、はっきりそこにあった。寂しいと思った。でも、それはもう怖いものではなかった。
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ロウアー・スローターでは、夏生が戻った夜に、理沙が台所で夕食の支度をしながら言った。
「そういえばね」
夏生はダイニングの椅子に座って、温かいお茶を飲んでいた。外はもう暗かった。窓の向こうで風が草を揺らす音がした。
「春の終わりに、散歩のとき管理人さんに会ったの」と理沙は言った。「ルイくんが教会に来ていたって。久しぶりに鍵を貸したって言ってた」
夏生は手を止めた。
陽翔は台所の入口に立って、静かにその場にいた。何も言わなかった。
「春の終わりに」と夏生は繰り返した。
「うん。夏休みに二人が帰ってきたとき、言おうか迷ったんだけど……」と理沙は言った。
夏生はしばらく黙っていた。情報を、静かにどこかへ置こうとしているようだった。単純な驚きではなかった。頭の中で何かが動いているのが、その場の全員に分かった。
「みーちゃんには」と夏生は言いかけた。
理沙は、首だけを横に振った。
夏生はうなずいた。それ以上は話さなかった。陽翔も何も言わなかった。
夕食の間、その話は出なかった。窓の外で風が続いていた。川の音が、遠くから低く届いていた。
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ウィーンの秋は、乾いた風と一緒にやってきた。
石畳の上に落ち葉が積み始める頃、美夏の朝は少し早くなっていた。目が覚めてから練習室へ向かうまでの支度が、以前より静かになっていた。急いでいるわけではなく、流れが体に入っていた。
練習の組み立てを、自分で考えるようになっていた。どこから入って、どこで止まって、何を確かめるか。シュタイナー先生の言葉は以前より少なくなっていた。美夏が先に気づくようになったからだった。
ある日、廊下でアナが言った。「最近、音が落ち着いた感じがする」
「落ち着いた?」
「焦ってない、みたいな」とアナは言った。
美夏は少し考えてから、「そうかもしれない」と言った。
何かが変わったという自覚は、あまりなかった。ただ、以前より音を待てるようになった気はしていた。出すより先に、聴く間が持てるようになった。それがいつからかは分からなかった。
後輩の子が練習室の前で迷っているとき、自然に声をかけていた。「空いてるよ」と。それだけのことだったが、以前の美夏はそういうことに気づかなかった。
学校の中に、自分の場所ができていた。廊下の音の響き方も、練習室の朝の匂いも、全部知っていた。
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十月のある午後、共用ラウンジに演奏会のパンフレットが置かれていた。
美夏は練習の帰りに立ち寄った。ラウンジには数人いて、それぞれ話したり本を読んだりしていた。窓から秋の光が斜めに入ってきていた。
パンフレットを一冊手に取った。ウィーンの秋から冬にかけての公演スケジュールが並んでいた。オーケストラ、室内楽、独奏会。どれか聴きに行けるものがあるかと思いながら、ページをめくった。
室内楽の演奏会のページで、手が止まった。
出演者の名前が並んでいた。読み違いかと思った。もう一度見た。
Louis Clair。
紙を持つ指先に、少しだけ力が入った。周りのざわめきが、少し遠くなった。
美夏はその綴りを、もう一度、ゆっくりと目で追った。それから、小さく声に出した。
「ルイ・クレール……」
声にした瞬間に、紙の上の遠い綴りが、知っている人の名前になった。
目が離せなかった。他の文字が遠のいた。
美夏はしばらく、動かなかった。




