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第13章 音で、もう一度

 チケットを買ったのは、パンフレットを見つけてから三日後だった。


 その三日、美夏(みなつ)は迷っていた。

 会いに行くのか、聴きに行くのか、自分でも分からなかった。

 ただ、「Louis(ルイ) Clair(クレール)」という綴りを見た瞬間に、何かが動いたのは確かだった。

 だから、まず聴こうと思った。会うかどうかは、それから決めればいい。


 演奏会の夜は、秋の終わりのウィーンの冷たさだった。


 ホールは旧市街の石造りの建物の中にあった。外の石畳が湿っていた。街灯の光が水たまりに映って、揺れていた。コートを合わせながら歩く人たちの息が、白く上がっていた。ロビーの灯りが扉の向こうに見えて、美夏はその光の方へ歩いた。


 ロビーに入ると、暖かい空気と人の声が包んできた。コートを脱ぐ人、プログラムを受け取る人、知人と挨拶を交わす人。美夏はプログラムを一部受け取って、隅の方へ移動した。


 プログラムの紙を開いた。少し厚めの紙で、印刷の墨の匂いがした。出演者の名前が並んでいる。視線がそこに向かった。


 Louis Clair。


 声には出さなかった。ただ、目で一度なぞった。この名前が、プログラムの紙の上でもちゃんとそこにある。それだけを確かめた。


-----


 客席に座ると、照明がまだ明るかった。


 ざわめきが続いていた。隣の席の人が友人と話している。遠くで誰かが笑う声がした。美夏はプログラムを膝の上に置いて、舞台を見ていた。


 照明が落ちた。


 ざわめきが静かになった。ほとんど一瞬で。その静けさの中に、演奏者たちが出てきた。


 ルイは三人目だった。


 舞台に現れたのは、チェリストの横に立つ「Louis Clair」だった。

 顔立ちは変わっていなかった。でも、最初に思ったのはそれではなかった。立ち方が違った。舞台に出てきた瞬間から、そこが自分の場所だという立ち方をしていた。急いでいない。迷ってもいない。


 美夏は息を止めていた。


 演奏者たちが椅子に座り、チューニングの音が短く上がった。静寂が戻った。弓が上がった。


 最初の一音が鳴った瞬間に、分かった。

 

 「るいとだ。」


 音の色が変わっていなかった。静かで、近すぎない。でも届く。あの教会で初めて聴いたときと、同じ種類の音だった。柔らかいのに曖昧ではなく、静かなのに薄くない。


 でも、同じではなかった。

 以前より芯がはっきりしていた。音の奥に、何かが積み重なっていた。優しさはそのままなのに、それが今は、自分の足で立った人の優しさになっていた。

 音を置く間も、待つ感じも変わっていない。けれど、その沈黙の奥行きは前とは違った。


 美夏は、舞台上のルイを見続けた。

 ルイは客席ではなく、音そのものに向かっていた。弓の動き、指の位置、体の重心の移り方。どれも丁寧で、でも計算ではなかった。音が流れているあいだ、ルイは音の中にいた。


-----


 演奏が終わって、拍手が起きた。


 美夏はすぐには動けなかった。音がまだ体の中に残っていた。拍手の音が遠く聞こえた。隣の人が立ち上がるのが分かった。それでも、しばらくそのまま座っていた。


 まだ言葉では再会していなかった。音だけが届いていた。


-----


 終演後、ロビーに人が溢れた。


 美夏はコートを着ながら、楽屋口の方向を見ていた。廊下の奥に、関係者専用と書かれた扉が見えた。その扉の前で、数人が出入りしていた。


 行こうか、と思った。でも、足が動かなかった。


 昔の「るいと」に会いに行きたかった。でも、さっき舞台に立っていたのは「Louis Clair」でもあった。自分はどう呼べばいいのか。呼んでいいのか。あの頃の美夏ではない自分が、今のルイに会いに行っていいのか。


 廊下の空気は少し冷えていた。ロビーの喧騒が遠い。美夏はその扉の手前で、少しの間立ったままでいた。


-----


 楽屋では、ルイがヴィオラのケースを閉めていた。


 演奏が終わったあとの静かな時間だった。拍手の残響がまだどこかにある気がして、でもそれも少しずつ消えていく。チェリストのフランクが楽屋の窓を少し開けた。秋の夜の空気が入ってきた。


 ウィーンの楽団への誘いが来たとき、迷いがあった。だが、仕事として不自然ではなかった。だから結局、引き受けた。でも、ウィーンという名前が、自分にとってただの地名ではないことも、ルイには分かっていた。


 みーちゃんがそこにいる。


 会いに行くと決めていたわけではなかった。

 ただ、近くまで来ることを、自分に許した。

 それだけのことに、長い時間がかかった。

 そして今、ここにいる。


 扉が少し開いて、フランクが顔を出した。


 「外に、君を探してる子がいるよ」とフランクは言った。「若い女の子。日本人かな。名前は聞かなかったけど、君の名前を出してた」


 ルイは手を止めた。


 「連れてきてもいい?」とフランクは言った。


 ルイはしばらく、何も言わなかった。それから「うん」と言った。


-----


 扉が開いた。


 美夏が入ってきた。


 少しの沈黙があった。


 ルイは立ったまま、美夏を見た。以前より背が伸びていた。動きが静かだった。顔立ちに面影があった。でも、それより先に、その目の中にあるものが、あの頃と同じだと分かった。


 「みーちゃん」とルイは言った。


 美夏は少しの間、何も言わなかった。口を開きかけて、止まった。呼び方が一瞬揺れた。今の相手は楽屋の中にいる演奏家で、でもその顔はるいとだった。


 「るいと」と美夏は言った。


 声に出したとき、それはちゃんとその人だった。


 二人はしばらく、そのまま立っていた。何か言わなければという気持ちも、特別な言葉を探す感じもなかった。でも今、同じ部屋にいた。それだけが、まず最初にそこにあった。


-----


 少しだけ話した。


「久しぶり、みーちゃん」とルイが言った。


「……久しぶりじゃない」と美夏は言った。「ずっと待ってたから」


 ルイは一瞬、目を細めた。小さかった美夏が、同じようなことを言ったことがあった。「るいとが来るの、ずっと待ってたもん」——あの頃の声が重なった。


「ごめん、時間がかかった」


「うん。でも会えたからいい」


 美夏は少し笑った。ルイも笑った。


「元気だった?」とルイが聞いた。


「うん」と美夏は言った。間があって、「るいとは?」と返した。


「元気だよ」とルイは言った。


 それから、美夏は学校の話をした。ルイはウィーンでの活動について少し話した。


 やがて、美夏は言いかけた。


 「あの……来月、学校でコンサートがあるんだけど」


 「行くよ」とルイは言った。美夏が言い終わる前だった。


 美夏は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


 「るいと、早すぎ。まだ最後まで言ってない」


 ルイも笑った。


 「でも、みーちゃんが言うなら行きたいと思った」


 美夏は目を伏せてから、続けた。


 「去年音源で聴いてもらったのと同じシリーズで、今年も出ることになったの。もちろん、にぃにも来るから」


 ルイは思わず笑った。それから、少し表情を引き締めてうなずいた。


 「うん。ちゃんと行く」


-----


 学内コンサートは、十二月の初めだった。


 小さな石造りのサロンで、天井が高く、高い窓から薄い午後の光が落ちていた。客席は三十人ほど。演奏者と聴衆の距離が近い。音がそのまま届く場所だった。


 ルイは夏生(なつき)と並んで座っていた。開演前、夏生と短い言葉を交わした。久しぶりに会う感じではなかったが、久しぶりだった。二人とも、それを言葉にしなかった。


 美夏が舞台に出てきた。


 ルイは、客席で静かに見ていた。


 美夏が構えた。弓を上げた。最初の音が鳴った。


 音を待てるようになっていた。


 最初の一音からそれが分かった。急いでいなかった。出す前に、一度聴いていた。空間を受け取ってから、音を置いていた。柔らかいのに芯があった。もう子どもの音ではなかった。でも、あの頃の光は消えていなかった。むしろ、その光がはっきりしていた。


 ルイはプログラムを持ったまま、音を聴いていた。


 みーちゃんの音がここまで来た。


 それは驚きではなかった。ずっとそうなると思っていた。でも実際に音として受け取ると、それは思っていたよりずっと深いところに届いた。教会で初めて合わせた日のことを思った。あの日の美夏の音の中にあったものが、今ここで違う形になって鳴っていた。


 演奏が終わった。拍手の中で、美夏がお辞儀をした。


-----


 その後、サロンの外の廊下で、三人で少し話した。


 夏生は美夏の演奏について何かからかうようなことを言って、美夏が軽く言い返した。ルイはそれを聞きながら、この二人の時間が積み重なっていることを思った。


 少しして、夏生が飲み物を取りに席を外した。


 廊下に、美夏とルイだけになった。


 「海と光」とルイは言った。


 美夏は顔を上げた。


 「完成した」とルイは言った。「でも、今日の音を聴いて、もう少し直したいと思った。みーちゃんの音で合わせたら、もう一か所だけ動かせる気がする」


 美夏は黙って聞いていた。


 「クリスマス休暇、ロウアー・スローターへ一緒に行ける?」


 廊下の空気は静かだった。遠くのサロンから、誰かの話し声が聞こえた。


 間があって、「うん」と美夏は言った。

 それから、

 「クリスマスなら、にぃにもいるし」

 と付け加えた。


 ルイは小さく笑った。


 夏生が戻ってきた。何も知らないまま、「何話してたの」と言った。美夏は「別に」と言った。


 廊下の窓の向こうで、ウィーンの夜が静かに続いていた。


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