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第14章 鉛筆と音

 廊下の空気が、少しだけ違う質を帯びている日がある。


 クリスマス休暇に入る前の最後の午後、音楽ギムナジウムの廊下はそういう日だった。ロッカーを開け閉めする音、誰かが走って止められる声、笑い声が壁に当たってちいさく散る。普段より一段高い体温が廊下中に溶けていて、美夏(みなつ)は自分のヴァイオリンケースのバックルを締めながら、その浮き立った空気を少し遠くから感じていた。


 「美夏」


 振り返ると、ピアノ科のルーカスがいた。廊下の壁際のロッカーの前に立っていた。背の高い彼は、そのままだと少し見上げる距離にいるのに、話しかけるときはいつもほんの少しだけ身をかがめた。相手の声をきちんと拾おうとするみたいに。最初の学期から、話しかけてくるときの距離の取り方が、ずっと変わらなかった。


 「クリスマスの予定、もう決まってる?」


 探るふうでも、特別な重みを乗せるわけでもなく、ただ自然に。ピアノを弾く指が、ロッカーのドアをひとつ軽く叩いた。


 「うん」と美夏は答えた。「イギリスに帰る。コッツウォルズの村。家族みんなそっちにいるから」


 「村?」ルーカスは少し目を丸くした。「本物の村? 牧草地とかあるやつ?」


 「石造りの家があって、小川が流れてる。冬は霜が張って、静かになる」


 「いいな」とルーカスは言った。その声は少し本当で、美夏はすこし笑った。


 そのとき、窓の外に目が向いた。


 校門のあたり。人がまばらに出ていく中、少し離れたところに、人が立っていた。コートの衿を立てて、手をポケットにしまって。背が高く、動かないのに存在感がある立ち方をしていた。


 「あれ」とルーカスが言った。「夏生さんじゃないよね? もう一人、お兄さんいたの?」


 美夏は一瞬だけ窓を見てから、またケースのベルトに手をかけた。


 「違う。にぃにの親友で、私の師匠」


 「師匠」とルーカスは繰り返した。少し、声のトーンが変わった。


 美夏はもうコートを腕にかけていた。「じゃあ、よいクリスマスを」


 「うん。美夏も」


 ルーカスはそう言ったが、美夏の背中にその言葉が届いたかどうかは分からなかった。彼は廊下の窓から、外を見ていた。その人が、美夏の姿を見つけて少し体を動かすのを。美夏がケースを肩に掛け直しながら、その人の方へ歩いていくのを。


 ただ、校門の外で待っていた人の立ち方と、美夏が歩いていく速度に、いつもと少し違う気配があった。でも、彼はそれを確かめようとはせず、それ以上考えるのをやめた。


-----


 ウィーンの空は、昼を過ぎても重く低かった。


 空港まで向かうバスの窓に、街の灰色が張りついていた。クリスマスが近い通りのデコレーションだけが、その灰色の中で人工的に明るく、美夏はそれを少し眩しいと思いながら見ていた。


 「荷物、重くなかった?」


 隣でルイが言った。


 「平気」と美夏は答えた。「にぃにがいつも多いって言うから、今回は少なめにした」


 「えらい」


 それだけで会話が途切れて、バスはまた走り続けた。


 飛行機の中では二人ともほとんど眠った。窓の外に雲が広がっていて、それが切れたときだけ、遠くに地平線が見えた。着いたとき外は暗くなりかけていて、空気がロンドン特有の湿った冷たさを持っていた。


 モートン・イン・マーシュまでの列車は、夜の中を揺れながら走った。灯りのついた農家が点々と窓を流れていき、それが少なくなるにつれて、外がどんどん暗くなった。美夏はリュックを膝に抱えて窓を見ていた。手がかじかんでいて、手袋の中でも指の先がぼんやりと鈍かった。


 「寒い?」


 「少し」


 ルイは美夏の首元を見て、「もう少し上まで巻いたほうがいいかも」と小さく言った。美夏はうなずいて、自分のマフラーを少しだけ引き上げた。


 タクシーで村まで向かう道、石垣の向こうに冬の木立が続いた。霜が降りているのか、草地の色がうっすら白っぽく見えた。カーブを曲がるたびに道が細くなり、石畳の感触がタイヤを通じて体に伝わるようになって、美夏はそこでようやく、帰ってきたと思った。


 角を曲がると、石の家の灯りが見えた。


-----


 玄関のドアが開いた。


 理沙が出てきた。それだけで、家の中のあたたかさがひと塊になって外へ押し出された。コートについた冷気と、その熱とが玄関先でゆっくりまじり合った。


 「ルイくん、よく来てくれたわ」


 理沙の声は、いつもより少しだけ明るかった。美夏はその声を聞きながら、この声が好きだと思った。急がず、騒がず、でもちゃんとあたたかい。


 「お久しぶりです」とルイが言った。


 理沙は美夏の頭をぽんと触ってから、二人を中へ通した。


 玄関の内側に入ると、においが変わった。暖房の熱、夕食の残り香、それから石と古い木が長い時間をかけて作った、この家だけの匂い。美夏はそこで毎回、少しだけ息をほどいた。旅の疲れが、体の外側から順にほぐれていく感じがした。


 理沙の後ろに、陽翔(はると)が立っていた。


 いつもはソファか書斎にいる。でも、今夜は迎えに出てきた。特に何かを言うわけではなかったが、ルイの姿を見て、少しだけ目の表情が動いた。


 「来たか」と陽翔は言った。


 「はい」とルイが答えた。


 それだけだったが、それで十分な間があった。この家の人たちはみんなそういう間の使い方をする、と美夏は思った。言葉より先に、空気で何かを渡す。


 「飯、温めてある」と陽翔は言って、リビングの奥へ戻った。


 夏生(なつき)がキッチンから顔を出した。「遅かったな。もう腹ぺこだよ」


 「先に食べればよかったのに」とルイが言うと、夏生は「みーちゃんが帰ってくるまで食べるわけないだろ、普通に」と即答した。


 美夏はコートのボタンをはずしながら、リビングの隅を見た。


 クリスマスツリーがあった。


 石の壁の色に馴染む、落ち着いた飾り方だった。暖色の小さなライトが等間隔に灯っていて、派手な装飾はなく、小さなガラスの飾りが幾つか枝にかかっていた。光の量が多くないのに、部屋の隅だけがやわらかく明るかった。針葉樹のかすかな匂いが、暖房の熱に乗ってリビング全体に広がっていた。


 いつものように、誰かが飾ったのだろうと美夏は思った。そういう気づかいが、この家には静かに行き届いていた。


 ルイもそれを見ていた。少しだけ、目が和らいでいた。美夏はコートを腕にかけたまま、そのルイの横顔を、一瞬だけ見た。


-----


 夕食のあと、美夏は先に部屋へ上がった。


 荷物を半分だけ解いて、ベッドの端に腰を下ろした。部屋は暗く、窓の外に村の夜が広がっていた。灯りのほとんどは落ちていて、遠くにひとつだけ、どこかの家の窓が光っていた。


 石の壁越しに、下から声が聞こえた。理沙と陽翔と夏生と、それからルイの声。言葉は聞き取れないけれど、リズムと温度は分かった。笑い声が混じって、また静かになって、また誰かが話し始める。


 この家にるいとがいる、と思った。


 それは不思議な感じだった。おかしいとも思わなかったし、当たり前だとも思わなかった。ただ、いる。この家の一階に、この村に、今夜は。


 そのまましばらく動かなかった。何かを考えようとしていたわけではなかった。考えが来る前に、感じているものがあって、それに名前をつける必要もなかった。


 るいとがここにいる、ということが、その空気の一部だった。


 窓のほうを見た。村は静かだった。遠くのひとつの灯りが、まだ灯っていた。


-----


 深夜になった。


 家の中の音が一つ一つ消えていって、最後に理沙と陽翔の部屋のドアが閉まる音がして、それきり静かになった。


 夏生はまだリビングにいた。ソファにだらしなく沈んで、グラスを手にしていた。そこへルイが階段を下りてきて、音もなくリビングへ入った。


 「眠れないの?」と夏生が言った。


 「少し」とルイは答えた。


 夏生がグラスを少し持ち上げて見せた。ルイは首を振って、かわりにキッチンへ行き、水を汲んで戻ってきた。ソファの向かいの椅子に腰を下ろす。


 クリスマスツリーのライトだけがまだ灯っていた。暖炉の火は落ちていて、熾火が橙色にくすんでいた。窓の外は暗く、時折、枯れ枝が風で動く気配だけがあった。


 「ウィーン、どうだった」と夏生が言った。聞くふうでもなく、ただ言った。


 「公演はよかった」とルイは言った。「会場が小さくて、音がよく回った」


 「うん」


 しばらく、何も言わなかった。熾火が少し沈む音がした。


 「あの子の音」と夏生は言った。「聴いてみてどうだった、目の前で聴いてみてからは」


 ルイはグラスを両手で持ったまま、少しだけ間を置いた。


 「深くなってた」


 「だろ」と夏生は言った。声に確信があった。「最近はもう後輩に教えたりもしてるし、俺が言うのもなんだけど、ずいぶん大人っぽくなったよな。俺に似て美人に育っただろ。心配でまたウィーンに戻りたくなるよ」


 最後は冗談混じりだった。夏生はいつもそういう持っていき方をする。ルイも分かっていた。だから笑って返すつもりだった。


 でも、少し間が空いた。


 「……うん。心配だよね」


 夏生がグラスを持ったまま、少しだけ動きを止めた。


 夏生は一拍置いて、何かを言いかけてやめた。そして、少しだけ声のトーンを変えた。


 「そこ、理沙さん似ってツッコむとこだろ」


 ルイは、一瞬だけ遅れた。それから少し慌てたみたいに笑った。


 「……そうだな」


 夏生はグラスを傾けた。「お前もけっこう過保護だよな」


 ルイは何も返さなかった。夏生はそれを肯定と受け取ったのか、少し満足げに笑って、またグラスに口をつけた。


 「教会、いつ行く?」と夏生が言った。


 「クリスマスが終わったら」とルイは言った。「二十六日か、二十七日」


 「管理人さんに話しといてやるよ」


 「ありがとう」


 「みーちゃんが楽しみにしてる」と夏生は言った。それだけで終わった。


 「うん」とルイは言った。


 二人は少しの間、それぞれに黙って座っていた。熾火が時折鳴った。ツリーのライトが、石の壁に小さな暖色を落としていた。


-----


 クリスマスは、家の中で静かに過ぎた。


 理沙が朝から台所に立って、いい匂いが石の廊下まで届いた。陽翔はめずらしくコーヒーを二杯飲んで、夏生が早起きして庭の霜を見ていた。ルイはゆっくり起きてきて、理沙に「手伝うことありますか」と聞き、「座ってて」と言われて素直に座っていた。美夏はそれを見ながら、朝のお茶を飲んだ。


 窓の外には、冬の光が薄く差していた。


-----


 二十六日の朝は、霜が張っていた。


 石畳の上に薄白く、足を踏み下ろすたびにサクリとした感触があった。息が白く出て、マフラーの中へ消えた。


 ルイと美夏は、並んで村を歩いていた。


 石の家が両側に続く道は、人が少なかった。どこかの家から薪の煙が漂っていて、アイ川の音が細く聞こえた。川は、冬でも動いていた。水量が少し減っているけれど、石の間を縫う音は変わらなかった。


 橋を渡るとき、美夏は欄干に手を触れた。石が冷たくて、手袋越しでも分かる冷たさだった。


 「むかし」と美夏は言った。「この橋の上からるいとのことを見たことがある」


 「見てたの」


 「うん」


 それだけで終わった。二人はまた歩き始めた。


 教会は、村のはずれにあった。


 石造りの、背の高い窓を持つ建物。冬の朝の光の中に立つと、石の色が少し青みを帯びて見えた。クリスマスの礼拝は昨日終わっていて、今日は静かだった。管理人が扉の前で待っていてくれて、鍵を開けてくれた。夏生から話が届いていたのだろう、特に何も言わず、ただうなずいて、二人に扉を渡してくれた。


 ルイが先に扉に手をかけた。


 美夏はその一瞬、少し立ち止まった。


 以前、ここまで来たことがある。でも窓を外から見上げただけで、中には入らなかった。扉の前に立ちながら、まだその時ではないと思って、そのまま帰った。


 今日は違う。


 扉が開いた。


-----


 冷気が、全部を包んだ。


 外の冷たさとは違う種類の冷たさだった。石が長い年月をかけて蓄えてきた、静かで深い冷たさ。息を吸うと、古い石の匂いと、乾いた木の匂いと、それからもっと遠い何かが一緒に入ってきた。高い窓から冬の光が斜めに差していて、光の筋の中を、埃がゆっくりと動いていた。


 美夏は一歩、中へ踏み込んだ。


 床の石の感触が、靴底から伝わった。音が変わった。外の世界の音が遠ざかって、かわりに教会の中の静けさが耳に入ってきた。川の音がかすかに届いていた。厚い石の壁を通して、細く。


 ルイはすこし先を歩いて、椅子の脇に立って荷物を下ろした。ケースを開き、ヴィオラを取り出す。弓を張る。この動作が、いつも少し好きだった。急がず、でも迷わない。


 美夏もケースを下ろした。ヴァイオリンを出して、肩当てをセットして、少し弦をなでた。冷えているから、音が少し固い。体温で少しずつ戻っていく。


 ルイが譜面を広げた。「海と光」の、最終稿。ところどころ鉛筆の跡があって、修正の層が重なっていた。書き直された小節の上にまた別の跡があって、それがいくつか重なって、ここまで来た時間が譜面の上に薄く積もっていた。


 彼が上着のポケットを探る手を、美夏は見ていた。鉛筆を探していた。


 「これ」


 美夏は言った。


 ケースの内ポケットから取り出したのは、一本の鉛筆だった。ずっと使ってきて先が丸くなっていたが、折れてはいなかった。美夏がウィーンとロウアー・スローターを行き来するたび、その鉛筆もいつも一緒だった。


 ルイは、それを見た。


 少しの間があった。教会の冷たさの中で、その間だけが、別の温度を持っていた。


 「持っててくれたんだ」


 「うん」


 ルイはそれを受け取った。両手で、少しの間だけ、持った。


 譜面の最後のページを開いて、ある一か所を見た。完成したはずだった。でも、美夏の音を聴いてから、ここだけがずっと気になっていた。美夏の音と重なったとき、ここがどう動くかが、今は聴こえている。


 鉛筆が、動いた。


 音符がいくつか、書き直された。大きな書き直しではなかった。ただ、美夏の音を聴いてから気になっていた一か所が、今日の鉛筆でようやく動いた。


 ルイは鉛筆を譜面の脇に置いた。


 「行こうか」と彼は言った。


-----


 弓を上げる前の、沈黙があった。


 教会の中に、それだけが満ちた。外から川の音がかすかに届いていた。高い窓の光が床に細く落ちていた。二人とも動かなかった。動く必要がなかった。


 ルイが一度だけ美夏を見た。


 美夏はうなずいた。


 ルイの弓が動いた。


 最初の一音が、教会の中へ出た。ヴィオラの低い音が、石の壁にゆっくりと届いて、それからほどけるように広がった。ただ一音だったのに、天井まで上がって、またゆっくりと下りてきた。美夏はその音の中に、深い何かを感じた。海の気配、というより、海のそこにある重さのようなもの。それがずっとそこにあって、ルイの弓で初めて外に出てきた、そういう感じ。


 美夏の弓が動いた。


 ヴァイオリンの音が、ルイの音の隣に入った。乗るのではなく、並ぶように。応えるのでもなく、ただそこにいるように。最初の一音から、二つの音は同じ空気の中にあった。


 ルイは弾きながら、美夏の音を聴いていた。以前とは違う。ウィーンで聴いたときとも、少し違う。教会の中で、自分の音と重なっている美夏の音は、また別の深さを持っていた。芯があって、揺れない。でも光は消えていない。止まっていた時間の分だけ育った音が、今、自分の音と並んでいた。それがどういうことなのか、考えるより先に、弓が動き続けていた。


 美夏は、ただ音の中にいた。


 ルイの音が耳に入ってきて、自分の音がそれと並んでいく。それ以上のことを考える必要はなかった。ただ弾いていた。


 曲は長くなかった。


 最後の音が出て、石の壁に当たって、ゆっくりと消えた。


 美夏の弓が、少しだけ遅れて止まった。


 残ったのは、川の音だった。


 二人はそのまま立っていた。弓を下ろしたまま、動かなかった。教会の光が床に伸びていた。川の音が、細く、続いていた。


 ルイは、息をついた。


 美夏は、窓の外を見た。目線が合いそうになって、そっと逸らした。


 何も言わなかった。

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