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第15章 音の行き先

二十六日の午後、夏生(なつき)は録音機材を肩にかけて、村を歩いていた。


 石畳の上に霜の名残りがあって、日陰のところだけまだ白く残っていた。息が白く出る。アイ川の音が、石垣の向こうから細く聞こえた。村の中に人影はほとんどなかった。クリスマスの翌日で、みんな家の中にいるのだろう。煙突から薪の煙が上がっていた。


 教会が見えてきた。


 近づきながら、夏生は足を緩めた。


 扉の向こうから、音が滲んでいた。


 はっきりとは聴こえない。石の厚い壁を通して、かすかに。でも確かに、中で何かが鳴っていた。ヴィオラとヴァイオリン。二つの音が、重なっていた。


 夏生はそこで立ち止まった。


 扉に手をかけようとして、やめた。今ここで開けたら、壊してしまう気がした。理由はうまく説明できなかった。ただ、中で鳴っているものが、今この瞬間だけのものだと分かった。そしてそれは、残しておきたいものだとも。


 録音機材を持ったまま、夏生は教会の外に立っていた。


 川の音が続いていた。白い息が出て、消えた。扉の向こうの音は、しばらくして、静かに止んだ。


-----


 間を置いてから、夏生は扉を押した。


 冷気が来た。二人が振り返った。ルイと美夏(みなつ)が、それぞれ弓を下ろしたまま立っていた。


 「邪魔する?」と夏生は言った。


 「録っとこうと思って。もう一回、弾いてくれない?」


 ルイは何も言わなかった。美夏も何も言わなかった。止める理由もなかった。


 夏生はケースから機材を出した。小さなレコーダーと、外付けのマイク。床に置く場所を少し確かめてから、二人からちょうどいい距離に据えた。音量を確かめるために少しだけ試して、ヘッドフォンで拾えているのを確認する。


 「いつでも」と夏生は言った。


 ルイと美夏が向き直った。楽器を構える。


 夏生は動かなかった。壁際に寄って、腕を組んで、ただ耳を澄ました。録音している間は余計なことをしない。それだけを決めていた。


 弓が上がった。


 最初の一音が出た。


 夏生はそれを、今度は全部受け取った。外で扉の向こうから聴いていた音とは、少し違った。教会の中で、直接、二人の音が体に届いた。


 ヴィオラが先に動いて、ヴァイオリンが並んでくる。二つの音は、押し合わずに、ただそこにあった。夏生は壁際に立ったまま、ただ聴いていた。録音している、ということを少し忘れそうになった。


 曲が終わった。


 夏生はレコーダーの録音ボタンを止めた。教会の中は静かになった。川の音だけが、また届いてきた。


-----


 その夜、夏生は書斎にいた。


 机の上にレコーダーを置いて、ヘッドフォンをつけた。部屋の灯りを少し落として、一人で聴き返した。


 音が始まった。


 教会の冷たさまでは録れていなかった。でも、二つの音はちゃんとそこにあった。ルイのヴィオラが低く動いて、美夏のヴァイオリンがその隣に入ってくる。夏生は目を閉じて、聴き続けた。


 これはただきれいなだけの音ではない、と思った。


 きれいだということは確かだった。でもそれだけなら、もっと整った演奏はいくらでもある。この音には、ただきれいなだけではないものがあった。聴いていると、何かを無理に変えなくてもいい気持ちになる。


 夏生は、自分の父のことを思った。父はもういない。その不在を、理沙と二人でずっと抱えたまま生きてきた。それはあのころ、いつも家の中のどこかにあった。乗り越えた、とは一度も思ったことがなかった。


 ルイにも、かたちは違っても、そういう時間があった。陽翔にも、言葉にしないまま閉じ込めている何かがあるのかもしれない。美夏のそばにも、ルイに会えないまま過ぎていった長い時間がある。


 この音は、そういう時間を消さない。消さないままで、少しだけ息をしやすくしてくれる。そういう音だった。


 録音は十数分で終わった。夏生はヘッドフォンをはずして、机の上を見た。


 もう一度聴いた。


-----


 冬の間、夏生はその録音をだれにも渡さなかった。


 何度か聴き返した。聴くたびに、少しずつ音の輪郭が変わって見えた。最初は二人の音として聴いていたものが、だんだん、別の何かとして聴こえてくるようになった。


 一月、二月と過ぎた。


 三月に入って、夏生はこの録音のことを考えていた。心が固くなっている人に、この音を届けられないだろうか。癒しとか回復とか、そういう言葉が先に来るものではなく、もっと静かな形で、ただそこにいてくれるような音として。


 録音を聴きながら、夏生は少し考えた。


 音が先にあった。届けたいという気持ちは後から来た。その順番が、夏生には大事だった。


 春休みに入る少し前、夏生はその録音を静かに公開した。大きなリリースにはしなかった。ネスティアのアプリユーザー向けサイトの、小さな掲載枠に試すように置いた。タイトルだけつけて、説明文はできるだけ削った。演奏者の名前は書かなかった。先に届いてほしいのは、音そのものだった。


-----


 春休みに入って、ルーカスはトリエステにいた。


 グラーツから列車で南へ三時間。国境を越えて、空気が変わった。石灰岩の白い街並みと、その向こうに広がるアドリア海。光の質が違った。グラーツの光は山に囲まれて落ち着いているけれど、ここの光は海に反射して、どこまでも開いていた。


 滞在先のアパートメントに着いて、荷物を下ろした。窓を開けると、潮の匂いが入ってきた。


 スマートフォンでAnywhere Homeを立ち上げた。美夏が「こういうの、ルーカスに合うかも」と教えてくれたアプリだった。照明を暖色に落とし、環境音をオフにして、自分の集中できる空気に整える。旅先で作曲に向かう前の、いつもの準備だった。


 夜になって、ふとアプリのサイトを開いた。新着コンテンツの小さなコーナーに、見慣れない名前があった。


 「海と光」


 タイトルだけで、演奏者の名前はなかった。説明文もほとんどなかった。


 再生した。


 最初の一音で、手が止まった。


 ヴィオラの低い音が入ってきて、そのあとにヴァイオリンが並んだ。二つの音が、押し合わずにそこにあった。整えられた演奏ではなかった。でも、何かがあった。聴いていると、トリエステの窓の外の海と、この音の中にある海が、少しだけ重なった。


 曲が終わった。ルーカスはイヤフォンをはずさないまま、しばらく動かなかった。


 もう一度、聴いた。


 三度目を聴き終えたとき、右手の指先が机の上を叩いていることに気づいた。いつからそうしていたのか分からなかった。音に合わせていたのでもない。ただ、二つの音のあいだにある余白に、指が勝手に触れようとしていた。


 ルーカスは自分の指先を見て、少しだけ笑った。


-----


 休み明け、ウィーンに戻った。


 街路樹が芽吹いて、石畳の上の空気が少し軽くなっていた。美夏は練習室から出て、共用ラウンジへ向かう廊下を歩いていた。


 「美夏」


 ルーカスの声だった。


 振り返ると、彼はスマートフォンを手に持って立っていた。いつもより少し表情が動いていた。


 「これ」とルーカスは言って、画面を向けた。「前に美夏が教えてくれたアプリのサイト。お兄さんたちの会社だよね?」


 小さな音楽プレーヤーの画面が見えた。


 「もしかして」とルーカスは言った。声が少し低くなった。「この音、美夏?」


 美夏は画面を見た。答える前に、ルーカスがもう少し話した。


 「聴いてみて、すごいと思って。ただきれいなだけじゃない。何か別のものがある」


 美夏は少しの間、黙っていた。それから、うなずいた。


 「うん。冬に録ったやつ」


 「誰と?」


 「師匠と」


 ルーカスは画面をもう一度見てから、顔を上げた。


 「一度、合わせてみたい」と彼は言った。押しつけがましくはなかった。ただ、まっすぐに言った。「ピアノで。もし許してもらえるなら」


-----


 数日後、美夏はルイにその話を伝えた。


 電話ではなく、メッセージで送った。ルーカスのことを短く書いて、「合わせてみたいって」と添えた。


 ルイはそのメッセージを、夜に受け取った。


 すぐには返さなかった。画面を閉じて、少しの間そのままにしていた。引っかかっているのは、ルーカスという人間への警戒ではなかった。「海と光」に第三の音を入れること、それ自体に対して、何かが動かなかった。拒みたいわけではない。でも、簡単に「いいよ」とも言えなかった。ピアノが入るなら、今の形のままでは違う。最初から組み直す必要がある。それだけの時間と気力が、今の自分にあるかどうか。


 返信は短くなった。


 「ピアノを入れるなら、そのままじゃ違う。ちゃんと組み直したい。少し時間をもらえる?」


 美夏はそれをルーカスに伝えた。


 ルーカスは「そっか」と言った。「待つ」とだけ言った。それ以上は聞かなかった。


-----


 その少し後、サイトに置いたあの録音について、短い感想が届いた。送り主の名前を見て、夏生は少し驚いた。美夏の同級生のルーカスからだった。


 何が良かったか、どこに引っかかったのか。ただきれいだという言い方ではなく、音楽として考えようとしているのが分かった。夏生はその文面を読みながら、ルーカスが興味本位で言っているのではないことを感じていた。


 夏生はあとで、そのことを美夏に話した。


 「ルーカスに、もし来たいなら夏に来てもいいって伝えて」と夏生は言った。

 「あの教会、見たほうが早いだろ」と少し間を置いてつけ足した。「村も」


 美夏は少しだけ夏生を見て、それからうなずいた。


 それを伝えると、ルーカスは少しだけ目を見開いた。

 「え? ロウアー・スローターに行ってもいいの?」

 「にぃにが、そう言ってるから」と美夏は言った。


 ルーカスの顔がぱっと明るくなった。「本当に行っていいの?」


 美夏は少し笑った。

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