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第16章 風の余白

七月になった。


 ロウアー・スローターの緑は、夏の盛りに入っていた。石の壁に沿って草が伸びて、アイ川の水面が光を弾いた。空が高く、雲が少なかった。冬とは全部が違う季節の色で、でも村の形はそのままだった。石の道も、橋も、川の音も。


 ルーカスは、モートン・イン・マーシュの駅から美夏(みなつ)と一緒にタクシーで来た。


 窓から外を見続けていた。石垣の向こうに羊の草地が広がって、木立が続いて、そのあいだを道が細くなりながら続いていく。ウィーンとも、自分の育ったグラーツとも違う、落ち着いた田舎の色だった。


 「本当に村だ」とルーカスは言った。


 「言ったじゃない」と美夏は言った。


 タクシーが石畳の上をゆっくり進んだ。川が見えた。橋が見えた。石の家が両側に現れて、ルーカスはその家々の色を見ていた。蜂蜜色の石。同じ色が続いていた。


 「子どもの頃の美夏がここにいたんだ」とルーカスは言った。独り言みたいに。


 美夏は答えなかった。ただ、窓の外を見ていた。


---


 石の家の玄関で、理沙が迎えた。


 ルーカスはていねいに挨拶した。固すぎず、でも礼儀があった。理沙が中へ通すと、すぐに「何か手伝えますか」と言った。理沙は少し笑って、「座ってて」と言った。


 陽翔(はると)はリビングにいた。ルーカスと目が合うと、短くうなずいた。「よく来たな。アプリ、使ってくれてるんだって?」ルーカスは少し緊張した様子だったが、「お世話になります。アプリ、旅先でいつも使わせてもらってます」とちゃんと返した。


 夏生(なつき)はそのやりとりを見ていた。


 やっぱりちゃんとしてるな、と思った。態度だけでなく、この家の空気を乱さない感じがあった。初めての場所で、初めて会う大人たちの中で、自分のサイズをちゃんと保っていた。


 夕食は、庭が見えるテーブルで食べた。夏の夕暮れが長くて、外がなかなか暗くならなかった。ロウアー・スローターの夏の光は、長い時間をかけてゆっくり落ちていく。


 食事のあと、夏生は庭に出た。ルーカスも少しして出てきた。川の音が、石垣の向こうから届いていた。


 「教会は明日行こう」と夏生は言った。


 「はい」とルーカスは言った。それから少しして、「この村の空気の中で生まれた音なんですね」と言った。


 夏生は川のほうを見た。


 「そうだな」と言った。 


 少し間を置いてから、夏生がつけ足した。


 「ルイは今日、ロンドンで公演が終わったらしいから、明日の朝には来ると思う」


 ルーカスは短く「そうですか」と言った。それだけだったが、声が少しだけ変わった。


---


 翌朝、ルーカスが庭へ出ると、石の塀の近くに人が立っていた。川のほうを見ていた。朝の光が横から差していて、その輪郭がはっきりしていた。背が高く、静かな立ち方をしていた。ルーカスは一瞬、足が止まった。


 美夏が庭へ出てきた。二人の間を通り抜けるようにして、その人の近くへ歩いた。


 「師匠だよ」と美夏は言った。


 ルイが少し振り返って、美夏を見た。それから、少し笑った。


 「みーちゃん、師匠って」


 ルーカスは、その呼び方を一度だけ心の中でなぞった。みーちゃん。


 改めてルイを見た。整った顔立ちで、大人なのに、ふとした角度では少年のようにも見えた。目だけが、静かによく動いていた。どこか不思議な雰囲気のある人だと、ルーカスは思った。


 美夏が「ルーカス」と言った。


 ルイは小さくうなずいた。二人は短く握手を交わした。


 美夏は二人の間に立ったまま、少しだけ息をついた。うまくいった、とも、何かが始まった、とも、まだ言葉にならなかった。ただ、二人が同じ朝の光の中にいることが、今は十分だった。


 夏生は庭に続くドアのそばから三人を見ていた。腕を組んで、少し口の端が動いた。


 川の音が続いていた。夏の朝の光が、石の塀を白く照らしていた。


---


 朝食のあと、夏生が言った。「じゃあ、行くか。教会」


 ルイと美夏がケースを持って戻ってきたのを見て、ルーカスは少し背筋を伸ばした。


 先に歩き始めたのはルイだった。美夏がその隣に並んだ。ルーカスは夏生と並んで歩きながら、二人の背中を見ていた。


 村の道に出ると、光の質が変わった。


 冬に来たとき、美夏は石畳の上に霜を見た。今は石が夏の光を吸って、乾いた温かさを持っていた。石垣の上まで草が伸びて、アイ川沿いの木が葉を広げていた。川の音は変わらなかった。水量も、石を縫う流れ方も。でも冬に聴いたときより、少しだけ軽く聞こえた。


 ルーカスは歩きながら、村を見ていた。


 蜂蜜色の石の家が続く。庭先に花が咲いている。観光客が何人か歩いているが、それでも村は静かだった。ここには、自分の知ってるどの街とも根本的に違う、静けさがあった。時間の流れが違う、というより、時間がこの石の色に少し染まっているような感じがした。


 「美夏、ずっとここで育ったの?」とルーカスは前を歩く美夏に言った。


 「子どもの頃は」と美夏は振り返って答えた。「ウィーンに行ってからはしばらく帰れなかったけど」


 ルーカスはうなずいて、また村を見た。


 橋が見えてきた。美夏は欄干に少しだけ手を触れた。川が夏の光を弾いていた。ルイはそこで少し歩調を緩めた。美夏がそれに気づいて、二人は自然に川を見た。ルーカスはその横に並んで、川を見た。


 夏生が後ろから「いつまで見てるんだ」と笑って、四人はまた歩き始めた。


---


 教会の扉を開くと、冷気が来た。


 冬よりは薄かった。でも外の夏の熱と比べると、石の冷たさが体の周りを包んだ。光の入り方が違った。冬は斜めに差していた高い窓の光が、夏は真っ直ぐ降りてきていた。床に落ちる光の形が、四角くはっきりしていた。


 ルーカスは中に入って、少し立ち止まった。天井を見上げた。それから、石の壁を見た。古い木の匂いがした。


 「ここで録ったんだ」と小さく言った。独り言のようだった。


 「すわってて」とルイが言った。


 ルーカスは前の列の椅子に腰を下ろした。夏生もその隣に座った。ルイと美夏が楽器を出す。弓を張る。少しの間、調弦した。


 ルーカスは椅子の背に少し寄りかかって、ただ待っていた。緊張がほどけたわけではなかった。でも、この場所に来てから、何かが少し落ち着いていた。


---


 弓が上がった。


 「海と光」が始まった。


 ルーカスは聴き始めてすぐに、背筋が少し伸びた。音源で聴いていたのと同じ曲なのに、全部が違った。まず、音の広がり方が違う。教会の石の中で鳴ることを、この曲は知っていた。反響が余韻になって、次の音が来るまでの間を埋めた。


 それから、二つの音の関係が見えた。


 ヴィオラが先に動いて、ヴァイオリンがその隣に入る。上に乗るわけでも、下で支えるわけでもない。ただ並んでいる。二つの音が同じ空気の中にあって、触れるか触れないかの距離で動いていた。


 ルーカスは聴きながら、指が少し動いていた。自分でも気づかなかった。


 曲が終わった。音が石の壁に届いて、ゆっくり消えた。川の音が戻ってきた。


---


 少しの沈黙があった。


 それを破ったのは、ルーカスだった。


 「入り方がいい」と彼は言った。最初はそれだけだったが、続いた。「最初の一音から、もう景色が決まってる。ヴィオラが先に出てくることで、地面が先にできる感じがする。そこにヴァイオリンが並ぶから、光が横から差してくる感じになる」


 美夏は少し驚いて、ルーカスを見た。


 「それから」とルーカスは続けた。「間の取り方が普通のデュオじゃない。互いに相手の音を待ってる。待ちながら、自分の音で相手の音を支えてもいる。でも支えてる感じがしない。そこがすごい」


 ルイは椅子の背に手をかけたまま、聴いていた。


 「音源で聴いたとき、場所に合わせた曲なのかと思いました。でも実際に聴いたら、逆だった。この曲は、場所に合わせたんじゃなくて、この場所が必要な曲なんだと思いました」

 そこで少し止まった。


 「ピアノを入れるとしたら」とルーカスは言った。今度は少しゆっくりだった。「伴奏じゃないと思う。この二つの音の間に、伴奏は入れられない。もし入るとしたら、もっと外側から、空気ごと動かすものじゃないと」


 夏生が少し笑った。


 ルーカスは自分が話しすぎたことに気づいて、少し口を閉じた。「すみません」と言った。「つい」


 「いや」と夏生は言った。「続けて」


---


 ルイはルーカスの言葉を聴きながら、少し離れたところに立っていた。


 ちゃんと聴いている、と思った。感想ではなく、構造として見ている。それはルーカスが音楽をやっている人間だから当然でもあったが、当然以上のものがあった。聴いた音に対して、言葉を探して、追いつこうとしている。その誠実さが、声の質に出ていた。


 それに、若い。


 金髪で、背が高くて、音楽の話になると少し前のめりになる。迷いがない。正確にいうと、迷いながらも前へ向かう速度が速い。そういう種類の若さだった。


 ルイには、それが少し眩しかった。


 自分にも、ああいう時間はあったのだと思った。音楽のことだけを考えていられるような、まっすぐな時間が。

 でも、その先に父の死があった。母の怪我があった。長い空白もあった。

 それを通ってきた今、ルーカスの若さは少し眩しかった。


 みーちゃんの今の世界に、この子はいる。


 その事実を、ルイは静かに受け取った。


---


 「実は、先月小さな話が来ていて」と夏生が言った。

 「うちの企画で使ってる音源を、実際に演奏してほしいって話が来てる。規模は小さい。まだ相談段階だけど」


 誰も何も言わなかった。


 ルイが少し椅子から離れた。


 「一曲なら、できる」とルイは言った。「でも、公演という形にするなら、ヴァイオリンとヴィオラだけじゃ難しい」


 夏生が「そうか」と言った。


 「ピアノがいれば、組み方は広がる」とルイは続けた。「でも、どんなピアノかによる」


 ルーカスはその言葉を聴いていた。自分のことを言っているのか、一般的な話をしているのかが分からなかった。でも、何かを試されているとも感じなかった。ただ、ルイが音楽として考えている、ということだけが伝わった。


 美夏は少し窓の外を見た。


 高い窓から、夏の光が教会の床に落ちていた。


 夏生とルイが、公演のことをまだ話している。美夏はその声を少し遠くで聴きながら、手の中のヴァイオリンのネックを、ゆっくり握り直した。


 その話が、まだ耳の中に残っていた。この曲が、教会の外へ出ていく。ルイと並んで、知らない誰かに向けて弾く。そのことは、前から分かっていた。でも今、その現実が少し近くなった気がした。


 自分の音は、そこで立てるのか。


 答えは出なかった。美夏は小さく息をついて、また窓の外を見た。


---


 夏の終わりに、ウィーンへ戻った。


 秋の学期が始まる前の、少し落ち着いた時期。ルーカスがルイにメッセージを送ってきた。


 「もしよかったら、一度聴いてもらえませんか」


 短い文だった。ギムナジウムの練習室の時間が取れる日を書いてあった。


---


 ルイが行ったのは、学校の中の小さなピアノ室だった。


 窓が一つあって、外に中庭が見えた。ピアノは古く、でも手入れがされていた。ルーカスはすでに来ていて、椅子に座って待っていた。


 「何か指定はありますか」とルーカスは聞いた。


 「好きに弾いて」とルイは言った。


 ルーカスはうなずいた。鍵盤の上に手を置いて、少しの間そのままにしていた。それから、弾き始めた。


 自作の曲だった。


 最初の一音から、ルイは少し目を細めた。


 音が前に出すぎなかった。でも遠くもなかった。余白を揺らすような音だった。ルーカスの指が鍵盤を押すたびに、部屋の空気が少し動いた。支えるのでも、飾るのでもない。ただ、そこにいる音。


 ルイは椅子に浅く座ったまま、目を閉じた。


 海岸が来た。


 子どもの頃の、ブルターニュの海岸。父と歩いた砂の上。波の音ではなく、そのときの風の感触。草の上を吹き抜けて、海の上を渡っていく風。海も光も、そこにあった。でも風がなければ、景色は動かなかった。


 ルーカスの音は、その風に似ていた。


 曲が終わった。


 ルイは目を開けて、しばらく何も言わなかった。


 「ありがとう」と言った。


 ルーカスはうなずいた。何かを聞こうとして、やめた。ルイの表情の中に、言葉を待っている感じがなかったから。


---


 その夜、ルイは部屋で「海と光」の譜面を開いた。


 ヴィオラのパートと、ヴァイオリンのパートが並んでいる。二つの声部の間に、余白があった。いつもはそこに何もなかった。そこに何かを書こうとしたことも、これまでなかった。


 ルイは鉛筆を取った。


 余白の一か所に、小さく線を引いた。


 音符ではなかった。まだ音ではなかった。ただ、ここに何かが入れるという印。風のための、最初の余白。


 窓の外に、ウィーンの夜があった。ルイはその余白を見ていた。海と光のあいだに、風が吹き始める前の静けさが、紙の上にあった。


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