第17章 風の始まり
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週末の午後、いつものようにるいとのアパートへ向かった。
ウィーンの夏はもう終わりかけていた。街路樹の葉がところどころ色を変え始めていて、石畳の上を歩くと風が少しだけ乾いていた。いつもの道を曲がって、古い建物の階段を上がる。
音が、少し変わっていた。
るいとの部屋の前で足を止めたとき、最初に気づいたのはそこだった。るいとのヴィオラの音は廊下まで届いていて、いつも聴いていたはずの「海と光」の輪郭が、どこか違う形をしていた。聴こえないはずの何かを待っているような、そういう間がある。
ノックして入ると、るいとは譜面台の前に立ったまま弓を止めた。
「みーちゃん」
「……なんか、違う」
言ってしまってから、失礼だったかと思った。でも、るいとは怒らなかった。少し目を細めて、「気づいた?」と言った。それだけ。
譜面台の上の紙を、目で追う。鉛筆の線が何本か入っている。余白に何かが書かれかけて、また消されている痕があった。私がいないところで、この曲が少し動いていた。
「……昨日、ルーカスに少し弾いてもらった」
るいとが言った。
部屋の中の空気が、一瞬違う温度になった気がした。
ルーカス。教会で「海と光」を聴いていたあの時の彼と、今るいとが言ったことが、まだうまくひとつに繋がらなかった。
「どんなふうだった」
「ここが、風になるかもしれないと思った」
るいとは譜面の一部を指でなぞった。ヴィオラとヴァイオリンの声部の間にある、空白の場所。私にはただの余白に見えていたところ。
言葉が出なかった。いけないとは思わない。るいとが感じたことが正しいとも思う。でも、何かがこぼれそうになった。
「……ちゃんと、そこにいられるのかな」
声が小さくなった。自分でも、何を言おうとしていたのか分からなかった。公演のことか、音のことか、それとも、もっと別のことか。
るいとはすぐには答えなかった。弓をそっと置いて、こちらを見た。
「……いるよ」
それだけ言ってから、少し間があった。
「今のみーちゃんの音がいるから、ここまで来てる」
上手いから必要、とは言わなかった。でも、るいとがそういう言い方をしない人だということは、もう分かっていた。それでも、その言葉はすぐには入ってこなかった。胸のどこかに留まったまま、まだ溶けていなかった。
帰り道、夏の終わりの風が頬に当たった。少し湿っていて、でも夏の盛りとは違う軽さがあった。寮までの道を歩きながら、さっきのるいとの声がまだ耳に残っていた。
「今のみーちゃんの音がいるから」
その言葉の意味を、頭ではなく、もっと奥のほうで掴もうとしていた。
その夜、ネスティアのサイトを開いた。教会で録った「海と光」が、まだそこにあった。イヤフォンをして、目を閉じる。
るいとのヴィオラが静かに始まる。海の底みたいな、低くて重い音。そのあとに、私の音が入っていく。
ちゃんと、いた。
上手いかどうかじゃなくて、あの場所に、あの音が、自分のものとしてちゃんとそこにあった。教会の石の冷たさと、るいとの音の続きに自分の音を置けた感触が、静かに戻ってきた。
完全に分かったわけじゃない。三人になったとき、同じように置けるかは、まだ分からない。でも、あの音の中に私がいたことは、確かだった。
イヤフォンをはずして、窓の外を見た。ウィーンの夜が、少しずつ秋に近づいていた。
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九月に入ると、ルイは楽団の公演でオーストリア国内を回っていた。ザルツブルク、グラーツ、リンツ。週末ごとに別の街に移動して、戻ってくるのは週の半ば。「海と光」の譜面は、移動の合間に少しずつ動いていた。
美夏はときどきルイから短いメッセージを受け取った。言葉ではなく、譜面の写真だった。鉛筆の線が前より増えていた。風のための余白に、少しずつ音が置かれ始めていた。
ルーカスにもその写真を見せた。ルーカスは画面を覗き込んで、しばらく黙っていた。「動いてるね」とだけ言った。
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十月の終わりごろ、ルイがウィーンで小さなスタジオを押さえた。
学校の練習室より少し広く、グランドではないがピアノのある部屋だった。週末の午後、美夏はヴァイオリンのケースを持って、ルーカスと一緒にそこへ来た。教会とは違う、乾いた響きの部屋。石の余韻も、川のそばの湿った空気もない。三人の音だけが、そのまま壁に当たって返ってくる場所だった。
ルイはすでに来ていて、譜面台の前に立っていた。楽器は出していなかった。三人が揃うのを、待っていたようだった。
譜面はまだ途中だった。ルイが「まずは音を置いてみたい」と言い、ルーカスが「どこから入ればいいですか」と訊いた。美夏は自分のヴァイオリンのケースを開きながら、三人でここに立っていることの不思議な実感を持て余していた。
ルーカスがピアノの蓋を開けた。鍵盤に触れて、部屋の響きを確かめるように、いくつかの音を静かに鳴らした。
最初の合わせが始まった。
ルーカスのピアノが少し前へ出た。音はきれいだった。でも、ルイのヴィオラが求めている方向とは違っていた。ルイが弓を止めた。
「もう少し、遠くにいて」
ルーカスが顔を上げた。「遠く」
「海じゃなくて、空気。曲の外側から、少しだけ揺らす感じ。前に来なくていい」
ルーカスはうなずいた。でもすぐには弾かなかった。鍵盤の上に手を置いたまま、少しの間、何かを考えていた。
美夏は弦に弓を乗せたまま、入るタイミングを測っていた。一度、音を出しかけてやめた。自分がどこにいるべきかが、まだ分からなかった。
「もう一度やってもいいですか」とルーカスが言った。
もう一度、始める。
ルーカスのピアノが引いた。置く場所が変わった。ルイのヴィオラが鳴っている間、ピアノはその少し外側で静かに動いていた。さっきより音が薄くなった。でも、消えてはいなかった。空気の中に、確かにいた。
美夏は弓を動かした。今度は止めなかった。
ほんの数小節だった。三つの音がぶつからずに、同じ空気の中にいた。さっきまではなかったものが、一瞬だけそこを通った。
ルイが弓を止めた。誰も何も言わなかった。
「……あった」
ルーカスが静かに言った。音楽の話をするときの声ではなく、もっと小さな声だった。
ルイは譜面に何かを書いた。美夏はそれを見ながら、まだ迷いはあると思った。でも、あの数小節は、確かに存在した。
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◇
作業がひと段落して、ルーカスが外の空気を吸いに出た。
みーちゃんが弓を緩めている間、僕は椅子に座ったまま譜面を眺めていた。まだ書き直す箇所がある。
ルーカスが戻ってきた。「外、けっこう冷えてきたよ」と言ってから、みーちゃんのほうを見た。「マフラー持ってきてる?」
「うん、大丈夫」とみーちゃんは答えた。
別に、普通のやりとりだ。
でも、何かが小さく引っかかった。ルーカスがみーちゃんに見せる空気に。
みーちゃんは気づいていない。ルーカスも、たぶん自分では気づいていない。
そのあと、もう何度か合わせた。さっきの数小節の前後を、少しずつ広げるように。三つの音が揃う瞬間と、ばらける瞬間が交互に来た。でも、ばらけ方が最初とは違っていた。少しずつ、三つの音の距離が掴めてきていた。
ルーカスが一度、ペダルの踏み方を変えた。余韻が短くなった。そのほうが、ヴィオラの低音と重ならなかった。僕は何も言わなかったが、それは正しかった。
日が落ちてきた頃、もう頭が動かなくなっていた。「今日はここまでにしよう」と言って、弓を置いた。
三人で外へ出た。秋の夜の空気が冷たかった。街灯がつき始めていて、石畳が濡れたように光っていた。ルーカスが少し先を歩いた。みーちゃんがそのすぐ後ろを歩いて、僕は少し遅れた。
ルーカスが振り返って何か言って、みーちゃんが小さく笑った。声は聞こえなかった。ただ、二人の間にある空気が、さっきスタジオで見たものと同じだった。
アパートへ戻って、部屋の電気をつけた。譜面台の上に、今日書き直した紙が乗っている。風のための余白に、今日引いた線がある。
まだ途中だ。でも、もう始まってしまった。
椅子を引いて、譜面の前に座った。




