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第18章 海と、光と、風と

クリスマス休暇に入って、ルイはブルターニュに帰っていた。去年のクリスマスはロウアー・スローターで過ごしたから、母とここで年を越すのは二年ぶりだった。


 夏生(なつき)がブルターニュまで来たのは、休暇に入って数日後のことだった。仕事の話がある、と短く連絡があって、ルイは驚かなかった。夏生はそういう人間だった。大事なことは、顔を見て話す。


 夏生が関を開けると、ルイの母が先に出てきた。


 「夏生くん、遠かったでしょう」


 母はそう言って、夏生を中へ通した。台所でコーヒーを淹れながら、母は夏生と短い言葉を交わした。体調のこと、冬の寒さのこと、村の知り合いのこと。どれも長くはならなかった。


 カップを夏生の前に置きながら、母がふと言った。


 「あの曲、ホームページで聴いたの。不思議とね、あれを聴くとよく眠れるの」


 さらりとした声だった。夏生に向けて、ただそう言っただけだった。


 ルイは台所の入口に立ったまま、その言葉を聞いていた。母が何気なく言った一言が、胸の奥のほうに、静かに届いた。


 夏生は少し驚いたような顔をして、それからやわらかく笑った。「それは、嬉しいです」


---


 午後になって、二人で浜辺に出た。


 冬の浜辺は、人がいなかった。


 砂は湿っていて、足元が少し重かった。波は低く、遠くから繰り返し打ち寄せては引いていく。風が横から来て、コートの裾を動かした。


 「寒いだろ?」


 「確かに」と夏生は言って、少し笑った。「でもこの海岸に来たかったから」


 二人で並んで、波打ち際を歩いた。


 「子どもの頃、よく父とここへ来たんだ」とルイが言った。「風が強い日も、曇りの日も。海はいつもここにあった」


 二人は光が海の上で揺れているのをしばらく見ていた。


 夏生が海のほうへ目をやったまま、口を開いた。


 「夏にロウアー・スローターで話した公演の件、先方がもう少し具体的に返してきた」


 「ヨーロッパの小さな会場を数か所、春休みに回る形にしたいって言ってる」


 ルイは答えなかった。波の音が、少しの間を埋めた。


 「最初の候補を、ブルターニュにしようかと考えてる」


 夏生はそれだけ言った。理由は言わなかった。押しつけるでもなく、説明するでもなく、ただそこに置いた。


 ルイはしばらく歩き続けた。風が来て、砂の表面が少し動いた。


 夏生が何を考えてブルターニュを最初に置いたのか、言葉にされなくてもわかった。ルイの母のことを、夏生はずっと静かに気にかけていた。そういうやり方をする人だということも、もうわかっていた。


 「……どんな会場を考えてる」


 ルイがようやく言った。


 「小さくていい。音が届く場所なら」と夏生は言った。「海のそばがいいと思ってる」


 波が来た。二人の足元まで、薄く水が広がって、また引いていった。


 「まだ編曲が終わっていない」


 「知ってる」


 「春まで、できるかどうかわからない」


 「できると思ってる」と夏生は静かに言った。断言ではなく、ただそう思っている、という言い方だった。


 ルイは海を見た。灰色の空の下で、水面が鈍く光っていた。子どもの頃から変わらない色だと思った。この光を、みーちゃんの音で名づけたのだということも、ふと思った。


 「……少し、考える」


 「うん」と夏生は言った。それ以上、何も言わなかった。


 二人はまた並んで歩いた。風が来るたびに、波の音が少し大きくなった。夏生のコートが揺れて、砂が飛んだ。


 ルイは何も決めなかった。でも、さっきまでただの風景だったものが、少しだけ音に近づいた気がした。波の向こうで、まだ形にならない何かが、静かに動いていた。


---



夏生が帰ったあと、家の中は静かだった。


コートを脱いで、椅子に掛けた。台所で水を飲んで、窓の外を少し見た。夜の海は見えない。ただ、暗い空と、風の音と、遠くで繰り返す波の気配だけがあった。


僕が譜面を取り出したのは、特に決めてからではなかった。ただ、手がそちらへ動いた。


テーブルの上に広げる。鉛筆をひとつ手に取って、ページを繰った。ヴィオラの声部、ヴァイオリンの声部、そのあいだに引かれた「風のための余白」。ウィーンの夜に最初に風のための線を引いた場所を、指でなぞった。あの夜から、この余白は何度か書き直されていた。入りすぎた風を消して、引きすぎた風を戻して。そのたびに少しずつ形が変わって、でも最後の一か所だけ、どこに置いても何かが違った。


手が止まる場所は、いつも同じだった。


ヴィオラとヴァイオリンが最も近づく小節。二人の音がほとんど重なりかけて、それでも触れずに離れていくところ。ここへ風を入れようとするたびに、何かが崩れた。風が入ると、二人の音の膜が割れた。入れなければ、この場所だけ空気が止まった。


鉛筆を、また置いた。


窓の外で、風が来た。木の枝が少し揺れて、また静かになった。


今日、浜辺を歩いていたとき、波が足元まで来て引いていった。夏生のコートが揺れた。砂が飛んだ。風はずっと横から来ていて、僕たちの背中を押すでも引くでもなく、ただそこにあった。


鉛筆を、また持った。


風は二人の音のあいだには入らない。外側にいる。でも外側にいることで、その場所の空気が少し動く。二人の音が触れずに離れるとき、風がその周りで静かに動いているなら、膜は割れない。ただ、その離れ方が少しだけ変わる。


手が動いていた。


消した跡の上に、薄く線を引く。ヴィオラとヴァイオリンが近づく小節の、少し手前から。二人の音より一段低く、一段遠く。前へは出ない。ただ、その場所の空気ごと少し揺らすように。


書いて、止まった。


頭の中で、三人の音が流れた。みーちゃんの光が上で揺れる。僕の音が先に底を作る。その外側で、ルーカスの音が押しすぎずに動く。二人の音は触れずに離れていく。でも今度は、その離れ方の中に、少しだけ息があった。


紙の上を、目で最初から追った。最初の余白から、今引いたばかりの線まで。途中で止まっていたものが、最後までつながっていた。


しばらく、そのまま見ていた。


書き上げた、という感じはなかった。ただ、もう次に三人で合わせるべき形が、紙の上にある、と思った。


---


 一月の終わり、三人でスタジオに集まった。


 前回と同じ部屋だった。乾いた響きの、ピアノのある部屋。ルイが先に来ていて、書き直した譜面を三人分の譜面台に置いていた。


 「今日は、最後まで通したい」


 ルイがそう言った。


 三人が位置についた。ルーカスが鍵盤の上に手を置いて、美夏(みなつ)はヴァイオリンを構えた。ルイが弓を持ち上げた。


 最初の音が鳴った。


 ルイのヴィオラが、低く静かに始まる。美夏はその音を聴きながら、弓を弦の上で待たせた。前なら、ここでもう少し長く待っていた。完全に落ち着くまで、自分を止めていた。でも今日は、流れの中に自分の呼吸が見えた。


 入った。


 遅くなかった。急いでもいなかった。ただ、そこだと思った場所へ、自分の音を置いた。


 ルーカスのピアノが、少し遅れて動き始めた。前へは出ない。二人の音の外側で、空気ごと少し揺らすように。十月の最初の合わせでは、ここでルイに止められた。今日は止まらなかった。ルーカスの音が、二人のあいだには入らないまま、でもそこにある風として動いていた。


 曲が進んだ。


 美夏は相手を聴くのをやめなかった。ルイの音が底で動くのを感じながら、自分の音がどこにいるかを確かめながら、弓を動かし続けた。自分を消すほどには待たない。でも、待つことが怖くなったわけでもない。ただ、待つ時間の中に、自分の呼吸がちゃんとあった。


 ヴィオラとヴァイオリンが最も近づく小節へ来た。


 二人の音がほとんど重なりかけて、触れずに離れていく。その外側で、ルーカスの風が押しすぎずに動いた。膜は割れなかった。空気が、少しだけ動いた。


 曲が、続いた。


 最後の音が鳴って、消えた。


 誰も、すぐには何も言わなかった。ルーカスが鍵盤から手を離した。美夏は弓を下ろして、そのまま立っていた。ルイは弓を持ったまま、譜面を見ていた。


 「……もう一度やりますか?」


 ルーカスが言った。大きな声ではなかった。


 ルイは少し考えてから、「今日はここまでにしよう」と言った。


 美夏は何も言わなかった。でも、この音なら外へ出せるかもしれない、という感触が、静かに胸の中にあった。はっきりした確信ではない。ただ、さっきまでなかったものが、今はそこにある。


 外に出ると、ウィーンの空はまだ低く、通りの木はまだ裸だった。春は、まだ先だった。でも、三人の「海と光」は、今日初めて最後まで流れた。

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