第19章 海へ届く音
春の浜辺は、思っていたより風が強かった。
砂が細かく、波打ち際まで歩くと足が少し沈んだ。空は白く、光が均一に広がっていた。遠くで鳥が鳴いて、また静かになった。
美夏は海を見ていた。
今夜の公演の会場は、海辺からそう遠くない場所にある。ルイは会場で主催者と打ち合わせをしているようだった。美夏とルーカスは先に会場へ入っていたが、開演まで時間があって、なんとなく二人で外へ出て、浜辺まで歩いていた。
「緊張してる?」
ルーカスが言った。
「……少し」
正直に言えたのは、ルーカスだったからかもしれない、と美夏は思った。ルイには、同じようには言えない気がした。
「僕もしてる」とルーカスが言った。「でもブルターニュまで来たし、もうしょうがないか」
美夏は少し笑った。
ルーカスはそれ以上何も言わなかった。二人で並んで、波を見た。波は低く、繰り返し来ては引いた。風が横から来て、髪を動かした。
美夏はこの場所を知らない。でも、ルイはここを知っている。子どもの頃から、この海を見ていた。この光と、この風と、この波の音の中で育った。「海と光」という曲の名前は、ルイの中にあったこの風景から来ているのだと、美夏は今日初めて身体で感じた。
波が来た。
砂の上を薄く広がって、また引いていく。冷たい水が、靴の先に少し触れた。
この場所から来た音を、今夜ここで弾く。
それだけのことが、なぜか大きかった。怖いのではなく、ただ、大きかった。
ルーカスが少し前へ出て、波打ち際に立った。コートのポケットに手を入れたまま、遠くを見ていた。風が来るたびに、コートの裾が揺れた。
何も言わなくていい、と美夏は思った。こうして並んで、同じ海を見ていることで、呼吸が少しずつ戻ってくる感じがあった。
砂を踏む音がした。
少し離れたところで、足が止まった。
ルイがそこに立っていることは、振り返らなくても分かった。でも、すぐには声をかけてこなかった。その気配が、少し長かった。
美夏は海を見たまま、動かなかった。
「……寒くなかった?」
ルイの声が、少し間を置いてから来た。
美夏は振り返った。ルイはコートの前を閉めて、砂の上に立っていた。さっきまでどこに目を向けていたかは、わからなかった。
「寒かった」とルーカスが言って、少し笑った。
ルイも少し笑って、それから海を見た。三人で並んで、しばらく波の音を聴いた。
「そろそろ行こう」
ルイが言った。美夏とルーカスは頷いた。
三人で砂の上を歩き始めた。会場のあるほうへ、誰も急がずに戻っていった。
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会場の中は、外とは違う空気だった。
照明がまだ調整中で、舞台のほうから低い話し声が聞こえていた。スタッフが小道具を運んでいて、椅子が並び始めていた。海辺の静けさとは別の、本番前の静けさがあった。
三人は控室へ入った。
ルイが楽器ケースを開いた。ヴィオラを取り出して、弦を確かめた。美夏も自分のケースを膝の上に置いて、蓋を開いた。
ルーカスは壁際の椅子に浅く腰かけて、膝の上の楽譜に目を落としていた。
ルイと美夏が楽器を持つと、場の空気が少し変わった。何かが決まったわけではない。でも、二人のあいだにある呼吸の置き方が、ルーカスには少しだけ違って見えた。
ルーカスはそれ以上考えず、楽譜へ目を戻した。
美夏は弓を持ったまま、少し止まっていた。
「弓、まっすぐに」
ルイが言った。楽器を調整しながら、こちらを向かずに。
美夏は弓をそっと右の太ももに預けた。ケースのポケットへ手を伸ばして、折りたたまれた紙を取り出した。ルイのほうへ差し出した。
「……覚えてる?」
ルイが手を止めて、顔を上げた。美夏の手元の紙を見て、受け取った。紙を開いた。
美夏は、ルイ手にある紙を見ずに言った。
「『ゆみ まっすぐに』」
少し間を置いて。
「……『かならず またくる』」
ルイは紙に目を落としたまま、少し笑った。
「……まだ持ってたんだ」
美夏は何も言わなかった。ルイは紙を折り直して、美夏へ返した。美夏はそれをケースのポケットへ戻した。
ルーカスはその様子を見ていた。紙の背景は知らなかった。でも、その短いやりとりだけで、美夏の呼吸が少し変わるのは分かった。
舞台袖は、薄暗かった。スタッフが小さく合図を出した。ルイが立った。美夏も立った。ルーカスは壁際に残った。ルイが先に半歩、舞台のほうへ出た。美夏がその隣に続いた。舞台の光が、袖の端から白く差し込んでいた。ルーカスは二人の背中を見ていた。ルイの背中と、美夏の背中が、光の中へ入っていった。
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客席の若い女性は、パンフレットを膝の上で開いていた。
小さな会場で、照明はまだ落ちていない。パンフレットには、この公演の成り立ちが短く書かれていた。スマートホームの会社が運営する、暮らしの中に音楽を届けるための小さな試みから始まったこと。演奏される「海と光」という曲が、ブルターニュの海辺の風景と、そこに差す光の記憶から生まれたこと。最初は二人の形で、最後に三人の形で演奏されること。
女性はそこまで読んで、ふぅっと息を吐いた。
パンフレットをそっと閉じて、舞台へ目をやった。
そこへ、二人が入ってきた。
客席が、静かになった。
ルイは舞台の端まで歩いて、少し止まった。客席の夏生の隣に、母親の姿があった。コートの前をきちんと閉めて、背筋を伸ばして座っていた。
それだけで、呼吸が一瞬変わった。
美夏は隣でその変化を感じた。何も言わなかった。ルイも何も言わなかった。二人は向き合って、弓を構えた。
最初の音が、鳴った。
ルイのヴィオラが、低く沈むように始まった。底のほうから、ゆっくりと動き出す音だった。急がない。揺れない。ただそこにいる、という音だった。
美夏は、その音が落ち着くのを聴いていた。前なら、もう少し長く待っていた。でも今日は、流れの中に自分の呼吸が見えた。弓を動かした。
ヴァイオリンの音が、その上にそっと乗った。押しすぎない。主張しない。ただ、そこにあるべき明るさのように響いた。
二人の音が並んだ。
そのあいだの余白は、まだ静かに閉じていた。止まっているのではない。崩れずに、そこに保たれていた。ルイの音が動くたびに、美夏の音がそれを受けた。美夏の音が揺れるたびに、ルイの音がその重さを支えた。言葉のない応答が、曲の中をゆっくり流れていた。
舞台袖でルーカスは、その音を聴いていた。何も言わず、ただ聴いていた。
二人版「海と光」は、そのまま静かに閉じた。
短い拍手が起きた。
舞台袖から、ルーカスが立ち上がって、舞台へ入ってきた。ピアノの前に座った。客席がもう一度、静かになった。
二曲目は、ドビュッシーの「小舟にて」だった。水面の光が揺れるように音がほどけ、美夏のヴァイオリンのまわりに、ルーカスのピアノとルイのヴィオラが静かに広がった。会場の空気が、少しやわらいだ。
三曲目は、同じくドビュッシーの「月の光」だった。ルーカスのピアノからほどけた音が、静かに客席へ降りていった。夜のほうへひらいていくような時間だった。
四曲目は、シューベルトの「アルペジオーネ・ソナタ」だった。三人で流れていくあいだも、ルイのヴィオラの深さだけは底に残り続けた。会場の空気がまた少し変わり、音の重さが静かに沈んだ。
そして、五曲目へ入った。
最初の音は、やはりルイのヴィオラだった。
でも今度は、その音の外側に、最初から少し別の気配があった。ルーカスのピアノが、遠くで息をするように待っていた。
美夏は弓を構えたまま、その気配を聴いていた。入る場所が見えた。待ちすぎなかった。弓を動かした。
三人の音が、重ならずに並んだ。
ルイの音が底に沈む。美夏の音がその上で揺れる。ルーカスの音が、二人の外側で静かに動く。どれかが前へ出るのではない。それぞれがそこにいることで、曲が動いていた。
ヴィオラとヴァイオリンが最も近づく小節へ来た。
二人の音がほとんど重なりかけて、触れずに離れていく。そこへ、ルーカスの風が入った。膜は割れなかった。その離れ方が、少しだけ変わった。二人の音のあいだに、風が通った。
音が、客席のほうへひらいていく感じがあった。
二人版では閉じていた余白が、今度は少し動いていた。止まらずに、流れていた。同じ曲なのに、見えている景色が違った。
曲が、最後まで流れた。
最後の音が消えた。
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ルイの母は、手を膝の上で重ねたまま、舞台を見ていた。
隣の夏生のほうへ、少し顔を向けた。
「届いたわ」
夏生は前を向いたまま、静かに返した。
「はい」
少し遅れて、拍手が起こった。一人、また一人と音が重なって、会場に広がっていった。




