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第20章 温かな手

拍手は、すぐには現実の音にならなかった。


どこか遠くで鳴っているように聞こえて、三人の身体には、まだ曲の終わりが残っていた。


ルーカスがピアノから離れた。三人で一礼して、袖へ入った。


薄暗い通路の中で、誰もすぐには話さなかった。舞台の光を抜けたばかりの目に、壁の色が少し鈍く見えた。美夏(みなつ)は弓を持ったまま、一度だけ息を吐いた。ルイは一瞬だけ振り返って舞台のほうを見た。


控室へ戻ると、狭い部屋の静けさがあった。


ケースを開く音。留め金の触れ合う小さな金属音。美夏は弓を収めて、肩の力を少し落とした。ルーカスは椅子の背にもたれて、それから何か言いかけて、やめた。


ルイが譜面を半分だけ閉じたとき、ルーカスがようやく口を開いた。


「……あそこ、ちゃんと通ったね」


美夏は顔を上げた。どこのことか、すぐにわかった。いちばん近づいて、触れずに離れるあの小節だ。


少し遅れて、笑った。


ルイは譜面に目を落としたまま、短く「うん」と言った。


それで足りた。


ノックがあった。


夏生(なつき)が先に入ってきた。三人を見て、「おつかれ」と言った。多くを言わなかった。その後ろに、ルイの母がいた。


美夏とルーカスは立ち上がって、姿勢を正した。ルイも立った。


母は控室の中を一度見た。美夏と目が合うと、少しだけ微笑んで、小さく頷いた。美夏も頭を下げた。


母はルイのところまで歩いた。近くで見ると、客席にいたときより少しだけ表情がやわらいでいた。ルイの前で立ち止まり、しばらく何も言わなかった。


「今夜は家へ帰るでしょ?」


ルイは少し間を置いた。


「……帰るよ」


母は頷いた。それ以上は何も言わなかった。手が、ルイの腕にそっと置かれて、しばらくそこにあった。


美夏とルーカスは、二人のやりとりから少し離れて、部屋の端に立っていた。美夏はケースに手を置いたまま、声を出さなかった。ルーカスもその少し後ろで、何も言わなかった。


夏生は一度だけ、ルイと母のほうを見た。それから、美夏とルーカスへ視線を戻した。


「みーちゃん、ルーカス、なんか食べに行くか」


美夏は一瞬、ルイのほうを見た。


夏生はその先を言わず、もうドアのほうへ向いていた。


「……うん」


ルーカスも黙って頷いた。


三人で控室を出る。廊下は少し冷えていて、閉まったドアの向こうにだけ、まだ別の静けさが残っているようだった。


---


会場の外へ出ると、風が来た。


海のほうから湿った空気が来た。浜辺ほどではないのに、夜になっても潮の気配はまだ残っていた。美夏はコートの前を合わせた。ルーカスも首をすくめて、それから少し笑った。


「寒い」


夏生が先を歩きながら、「春だけどな」と短く返した。


通りに入ると、石造りの壁が街灯の光を受けて、やわらかく色を返していた。窓の中に灯りがともっていて、どこかから低い話し声が聞こえた。昼間とは違って、静けさが通りの上に落ちていた。足音が石畳に響いた。


海はもう見えない。でも、まだ近くにある感じがした。


美夏は少し前を向いて歩いた。さっきまで弓を持っていた手が、今は何も持っていない。その軽さに少し遅れて気がついた。


「あの中間部、最初より全然よかったよ」


ルーカスが言った。歩きながら、少し前を向いたままで。


「最初にスタジオで合わせたとき、俺、全然入れてなかったから」


「入れてなかったというか」と美夏は言いかけて、少し考えた。「遠すぎた、かな」


「そう、遠すぎた」ルーカスは頷いた。「ルイさんに言われたんだよね、もっと遠くにいてって」


「覚えてる」


「あのとき、遠くにいる意味が、すぐにはわからなかった」


夏生が立ち止まって、通りの向こうにある小さな店を見た。黒板が表に出ていて、白いチョークで魚の名前がいくつか書かれていた。窓の中に、暖かそうな光がある。


「あそこでいいか」


二人は頷いた。


店の中は、外より少し暖かかった。木の椅子と、白いテーブルクロス。壁に瓶が並んでいた。客は多くなく、奥のテーブルに年配の夫婦がいて、窓際に一人の男が座っていた。スタッフが手振りで奥のテーブルへ案内した。


メニューを開くと、魚介の名前が並んでいた。ルーカスがそれを読みながら、「牡蠣、ある」と言った。


「食べるか」と夏生が言った。


「食べます」ルーカスはすぐに答えた。


美夏はメニューをもう少しだけ見て、温かいスープと白身魚の料理を頼んだ。本番のあとは、あまり量を食べられない気がした。


運ばれてきた牡蠣を、ルーカスはレモンをかけてひとつ食べた。少し目を細めた。


「おいしい」


そのあとも、ひとつ、またひとつと手が伸びた。


「食べすぎじゃないか」と夏生が言った。


「大丈夫です」ルーカスは言ったが、皿の隅に殻が積まれていた。


美夏はスープを飲みながら、ルーカスの皿を見ていた。少し呆れたように、でも止めはしなかった。


話は少しずつ、今夜の演奏からほかのことへ移っていった。ルーカスがヴィオラとピアノの音の重なり方について話し始めると、夏生が「専門的すぎてわからん」と言い、美夏がまた少し笑った。


夏生は魚料理を頼んで、ワインを少しだけ飲みながら、二人の話を聞いていた。口を挟むことは、ほとんどなかった。


店を出たのは、夜がもう少し深くなってからだった。


帰り道は来たときと別の通りを歩いた。風は変わらず、海のほうから来ていた。石畳の上に、窓の光が細く落ちていた。


「食べすぎた」


ルーカスが言った。さっきより声が少し低かった。


「言ったじゃないか」と夏生が返した。責めているわけではなく、ただ言っただけだった。


「平気です」ルーカスは言ったが、歩く速度が少し落ちていた。


美夏は横からちらりと見た。顔色が、店の中にいたときよりほんの少し変わっていた。何も言わなかった。


ホテルに着いて、ロビーへ入ると、外とは違う乾いた暖かさがあった。ルーカスは少しだけ息を吐いた。顔色は、さっきよりよくなかった。


---


三人はエレベーターで上がった。廊下に出ると、ルーカスは先を歩いた。おやすみとも言わなかった。美夏は少しだけその背中を目で追った。廊下の角で、その背中が見えなくなった。


部屋に戻ってから、美夏はしばらくそのままでいた。着替えもせず、明かりも落とさず、ただベッドの端に座っていた。弦の震えがまだ指の先に残っている気がして、すぐには眠れそうになかった。


少しして、廊下の足音が止まって、ドアが軽く叩かれた。


「みーちゃん、起きてる?」


美夏が立ち上がってドアを開けると、夏生が立っていた。手にはスマートフォンがあった。


「ルーカス、ちょっと具合悪いらしい。見てくる」


「私も行く」


夏生は頷いた。


廊下を少し歩いた先にルーカスの部屋があった。ノックすると、少し間があってから短い返事が来た。


しばらくして、ドアがゆっくり開いた。


ルーカスはドアのところに立っていたが、そのまま数歩戻って、ベッドの縁に腰かけた。胃のあたりを手で押さえていた。顔色が悪かった。


「大丈夫」


と言ったが、声の力がなかった。


夏生は持ってきたペットボトルの水を開けて、ルーカスの手の届くところに置いた。フロントに連絡して、薬を持ってきてもらうよう頼んだ。美夏はルーカスの少し横に立って、声をかけずに様子を見ていた。


「無理すんな。横になってろ」


夏生がそう言うと、ルーカスは少し間を置いてから、ベッドに横になった。逆らうだけの力が残っていなかった。


しばらくして、夏生のスマートフォンが鳴った。画面を見て、少しだけ表情が変わった。


「……悪い、会議入った。時差の関係で今じゃないと」


ルーカスのほうへ目をやる。それから美夏のほうへ。


美夏は言った。


「私、いる」


「薬、もうすぐ来るはずだから」


夏生はそれだけ伝えて、部屋を出た。


ドアが閉まった。


部屋の中が静かになった。


しばらくして薬が届いた。ルーカスは少し身を起こして、黙ってそれを飲んだ。


美夏はルーカスの近くの椅子を引いて座った。何も言わなかった。


「……ごめん」


「いい」と美夏は言った。


ルーカスは横向きに丸まって、背中をこちらへ向けていた。時々小さく息をついて、また黙った。楽な姿勢が見つからないのか、少し身を縮めていた。


美夏はその呼吸を横で聞いていた。


何かを思い出した。子どものころ、熱を出したときに、理沙が背中をさすってくれた。それだけのことだった。でも、あのとき、少し楽になった。


立ち上がって、ルーカスのそばへ行った。


「……こうすると、少し楽になることあるよ」


小さく言って、背中にそっと手を置いた。


ルーカスの肩が、一瞬だけ固まった。


美夏はゆっくりと、背中を円を描くようにさすった。大げさではない、落ち着いた動きだった。覚えている手つきだった。


ルーカスは何も言わなかった。少しずつ、肩から力が抜けていった。呼吸が、ほんの少しだけやわらかくなった。


そのまま、しばらく時間が過ぎた。


手だけが、そこにあった。


呼吸がだんだん深くなっていった。美夏は手を動かしながら、それを聞いていた。


「……ルーカス?」


小さく呼んだが、返事はなかった。


ルーカスは眠っていた。


美夏は手を止めた。すぐには離さなかった。背中がゆっくり動いているのを、少しのあいだそのまま感じていた。それから、そっと手を引いた。


椅子に戻って、部屋の灯りを少し落とした。窓の外は暗かった。海の音は届かなかった。


ドアが軽く叩かれた。


美夏が立ち上がって開けると、夏生が立っていた。


夏生はそのまま静かに中へ入った。眠っているルーカスを見て、少し息を吐いた。それから美夏のほうを見た。


「……ルイには、明日連絡する」


美夏は頷いた。


「今日はもう、心配させても仕方ないし」


夏生はそれ以上何も言わなかった。美夏は小さく頷いて、眠っているルーカスを見た。


窓の外は静かだった。

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