第21章 風の気配
朝の光が、カーテンの隙間から入ってきた。
スマートフォンが振動して、夏生から短いメッセージが届いた。ルーカスが昨夜少し具合を悪くしたこと。今は落ち着いていること。
ルイはそれを読んで、コートを手に取った。
母の家を出ると、朝の空気はまだ冷たかった。
ラウンジへ入ると、奥のテーブルに美夏とルーカスがいた。夏生の姿はなかった。朝の光が窓から入っていた。
ルーカスはソファに少し沈み込むように座っていた。顔色はまだ悪かった。テーブルの上に紅茶のカップがあった。美夏が少し身を寄せて、「もう少し飲む?」と声を落とした。ルーカスが顔を上げた。朝の光の中で、少し眩しそうに目を細めて美夏を見た。それから小さく頷いた。
ルイは二人のほうへ歩きながら、そのやりとりを一度だけ目で追った。
二人は顔を上げた。
「来てくれたんですね」とルーカスが言った。
「大事に至らなくてよかった」
ルイはテーブルに近づいて、向かいのソファに座った。ルーカスは少し小さく笑った。
「夏生さんと、美夏のおかげで。……昨日、あのあとぐっすり眠れたよ」
最後の一言は、美夏のほうへ向いていた。
ルイは何気ない声で聞いた。
「何?」
美夏は少し肩をすくめた。
「背中さすると、楽になることあるから」
それだけだった。
ルイは頷いた。窓の外で、鳥が鳴いた。
「でもその話、にぃには言わないでね」
美夏が言った。
「……確かに、それは夏生には言わないほうがいいね」
ルイが挟むと、美夏が続けた。
「そういう時、にぃに、めんどくさくなるから」
ルーカスが吹き出した。堪えようとして、でも堪えられなかった。
ルイも、苦笑いした。
笑えた。ちゃんと笑えていたはずだった。
「……何か悪口?」
夏生が戻ってきた。テーブルを見渡して、軽く言った。
「別に」と美夏が返した。
夏生はテーブルのそばで足を止めた。
「フロントに聞いたら、レストランのほうで消化にいい食事出してくれるらしい。ルーカス、食えそうか」
「少しなら」
「じゃあ行こう。みーちゃんも」
夏生はルイのほうを見た。
「お前も来るか」
ルイは少し間を置いた。
「今日は練習、休みにしたほうがいいだろ。スタジオに寄って話してくる」
「電話でいいだろ」と夏生が言った。「……律儀だな」
夏生はそれ以上何も言わなかった。美夏がすでに立ち上がって、ルーカスに手を差し出していた。ルーカスは「ありがとう」と言って、その手を借りてソファから立ち上がった。美夏は何も言わなかった。
ルイはその動きを一度だけ見た。
「……ゆっくり休んで」
それだけ言って、ラウンジを出た。
◇
廊下を歩きながら、僕は別のことを考えようとした。
うまくいかなかった。
外へ出ると、朝の風があった。
次の公演は五日後だ。今日の練習は休みにしたほうがいい。スタジオには電話より直接話しに行くほうがいい。曲を崩さないためにも、無理はさせないほうがいい。
順番に並べることはできた。
それでも、別のものが戻ってきた。
美夏が少し身を寄せていたこと。ルーカスが目を細めて美夏を見たこと。あのあとぐっすり眠れた、という言葉。背中さすると、楽になることあるから、という自然な言い方。美夏の手を借りてソファから立ち上がるルーカス。
どれも小さかった。小さいまま、うまく消えてくれなかった。
海沿いの道に出た。水面が光を返していた。潮の気配がある。本来なら、この景色は僕を落ち着かせる。子どものころからそうだった。海を見れば、余計なものが少し遠くなった。
でも今日は、風が気になった。
頬に触れる。髪を動かす。水面を細かく乱していく。見えないのに、確かにある。触れられないのに、景色の中に入り込んでいる。
前を向いた。通りの先に、スタジオの建物が見えた。
それでも、心はまだラウンジにあった。
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翌日の午後、スタジオに入った。街の中にある古い建物の一室で、外の石造りの壁より少し温かく、音がよく沈む部屋だった。
ルーカスの体調はだいぶ戻っていた。短い時間、音だけを確認した。大きく崩すところはなかった。
練習が終わると、空気が少しほどけた。
美夏がケースの留め金を閉じながら、少しだけルイのほうを見た。
「夕ごはん、お店、ホテルの人に聞いておいたよ。ルーカスでも食べられそうなの」
軽い口調だった。
ルーカスが少し笑った。「ありがとう」
ルイはヴィオラケースを肩にかけながら、「じゃあ、そこにしよう」と言った。声は短かった。
美夏はもう一度、ルイのほうを見た。でも、何も言わなかった。
夏生は朝から仕事が入っていて、今夜は合流できないと連絡が来ていた。三人で、歩いた。
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店は、少し歩いた先にあった。
小さな通りに面した、古い木の扉のレストランだった。中に入ると、木のテーブルが並んでいて、窓際の席に案内された。壁にランプが灯っていて、照明は控えめだった。客はまだ少なかった。
美夏がメニューを開いた。ルーカスの分まで、少し時間をかけて見ていた。
「スープがあるから、これと、パンと、あとこれ」
指でメニューを示した。ルーカスが覗き込んで、「ありがとう」と言った。
ルイはメニューを見ずに、少しだけ窓の外に目を向けていた。
「ルイさんは?」とルーカスが聞いた。
「同じでいい」
ルイはそう言って、メニューを閉じた。
スープが先に来た。
ルーカスは少しずつ口に運んだ。昨日よりずっと食べられていた。美夏はその様子を横目で見ながら、「大丈夫そう?」と小さく聞いた。ルーカスは頷いた。
「食べすぎないでね」と美夏が付け足した。
ルーカスが少し笑った。「気をつける」
ルイはスープを黙って口に運んでいた。時々、窓のほうへ目を向けた。外はもう暮れ始めていて、通りに灯りがついていた。
美夏がふと、ルイに話しかけた。
「一昨日、お母さんに会えて嬉しかった。お元気そうで」
ルイは少し間を置いてから、「うん」と短く答えた。
「……よかった」
それ以上は、続かなかった。美夏は自分のスープに視線を戻した。
メインの皿が来た。
ルーカスは、少し量を残した。美夏が「無理しないでね」と言って、ルーカスは「大丈夫」と返した。
会話は、音楽のことに戻った。
ルーカスが、今日の練習のペダルの踏み方について話し始めた。美夏がそれに応えて、弓の角度の話になった。ルイも時々、短く何かを言った。内容は的確だった。でも、言葉の量は少なかった。
美夏がルイのほうを見た。目が合いそうになった。ルイは手元のグラスのほうへ視線を落とした。
美夏は、何かを聞こうとした。でも、聞くほどのことではない気もして、結局、聞かなかった。
食事が終わって、外に出た。
夜の通りは、昼間より静かだった。店の灯りが石畳の上に落ちていた。
「ここから、母の家のほうが近い」
ルイが言った。
「じゃあ、ここで」と美夏は言った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」とルーカスが返した。
ルイも「おやすみ」と言った。声は、普段と同じだった。普段と同じのはずだった。
ルイが通りの先へ歩いていった。美夏とルーカスは、反対方向のホテルへ戻った。
美夏は、さっきのルイの「おやすみ」を一度、耳の中で反芻した。
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次の日は午前中からスタジオに入った。
ブルターニュでの練習は今日が最後だった。
夏生がタブレットを仕事用の鞄から出しながらルーカスに声を掛けた。
「ルーカス、昨日は飯食べられたか?」
「昨日の夕ごはんは、食べすぎないように見張ってた」
美夏が言った。何でもない調子で。
ルーカスが少し笑った。「見張られてたの、わかってた」
「ならよかった」
夏生は「過保護だな」と呟いて、タブレットに目を落とした。
美夏は「うるさい、にぃに」と返した。
ルイは弓の毛を確かめながら、その会話を聞いていた。何でもない会話だった。でも、その何でもなさが、少し胸に残った。
練習が始まった。
最初の数小節を合わせると、ルーカスの音はもう崩れていなかった。ペダルの踏み方も、呼吸の置き方も、あの夜の前と変わらない。いや、少し変わっているかもしれなかった。美夏のヴァイオリンが動くたびに、ルーカスの音がそこへ自然に向かっていく気がした。
ルーカスは、自分でも気づいていた。
美夏と合わせているとき、音の置き場所が見える。どこへ行けばいいか、考える前に手が動く。なぜ美夏とだとそうなるのかは、まだうまく言葉にならなかった。
一度、ルーカスはルイの視線がこちらへ向いているのを感じた。演奏中の、短い一瞬だった。
もしかして、と思いかけた。でもすぐに打ち消した。夏生さんの心配性と、たぶん同じ類いのものだろうと思った。
ルイは音を崩さなかった。崩したくなかった。だから余計に、音だけをきちんと置こうとした。必要なところだけ短く言って、返事も短くした。美夏がチューニングを確かめる仕草に、ルーカスが少し笑った。美夏もつられて笑った。その瞬間、ルイは譜面に目を落とした。
美夏は、何かが少し違うと思った。昨日の夕食のときにも、同じように感じた。
いつもより言葉が短い。目が合わない。でも音は崩れていない。何が変わったのか、うまくつかめないまま、弓を動かし続けた。
夏生は少し離れたところから、ルーカスを見ていた。美夏のヴァイオリンへ向かう音が、最初に会ったころよりずっと自然になっている。美夏との間で何かが変わったのかもしれない、とは思った。ただ、それ以上は考えなかった。ルイのほうは、今日は少し静かだな、だが、もともとそういうやつだと思った。
練習が終わったのは、夕方近くだった。
夏生がタブレットを閉じながら言った。
「ブルターニュは今日で最後だから、なんかうまいもの食べに行こうぜ。ルイ、おすすめの店教えて」
それから、ルーカスを横目で見た。
「ルーカスは留守番にするか?」
「え、そんな」ルーカスが顔を上げた。「もう全然大丈夫ですよ」
「じゃあ来い。ただし食べすぎんなよ」
美夏が小さく笑った。
夏生はルイのほうを向いた。返事がなかった。
「おい、聞いてんのか」
ルイは一拍遅れて顔を上げた。
「あ、ごめん。店は教えるけど、今夜は母と過ごすよ」
夏生は少し間を置いた。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。美夏もルーカスも、何も言わなかった。
スタジオの窓の外で、夕方の光が石畳の上にのびていた。その夕方だけが、少し遠く見えた。




