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第22章 国境を越えて

 翌日、ホテルを出たのは、まだ朝の光がやわらかい時間だった。


夜中に雨が降ったらしかった。空気は冷たく、石畳が少し濡れていた。荷物をトランクに積んで、ドアを閉める音が通りに響いた。エンジンがかかる。タイヤが石畳の上を転がり始めた。


夏生(なつき)が運転席に座り、ルイが助手席に入った。後部座席に美夏とルーカスが乗り、ドアが閉まると、車の中だけの空気になった。


誰もあまり話さなかった。


街を抜けるあいだ、窓の外にまだ眠っているような通りが続いた。パン屋の明かりがついていて、シャッターの半分閉じた店が並んでいた。角の花屋に水をやっている人がいて、すれ違うとすぐ後ろへ流れていった。石造りの建物が、朝の光を受けて薄く色を返していた。


やがて街の密度が下がり始めた。


建物の間隔が広くなって、空が広くなった。平らな道に出ると、両側に畑が広がった。低い木々が続いて、その向こうに遠い空が見えた。春の薄い雲が、ゆっくりと流れていた。


フロントガラスに光が淡く差した。道路の濡れた部分が光を返して、そこだけ明るくなった。


タイヤの音が変わった。幹線道路に入ったのだった。単調な道が続く。標識が増えた。フランス語の文字が流れていく。速度標識、出口の案内、距離を示す数字。それらが一定のリズムで現れては後ろへ消えた。


車内は静かだった。エンジン音が低く続いていた。


ルイは助手席の窓に少し視線を向けて、景色を見るともなく見ていた。後部座席では、美夏が窓に頭を預けていて、ルーカスはその隣で膝の上にスコアを開いたまま、窓の方に顔を向けていた。


道は真っ直ぐ続いた。畑の向こうに木が並んで、その向こうにまた空があった。光が薄く広がって、雲の端が白く光った。


美夏が最初に眠った。


窓に預けていた頭が、少しずつ傾いていった。車が緩やかにカーブを曲がるたびに、身体が揺れた。会話のなくなった車の中で、まぶたが落ちて、そのまま戻らなかった。


ルーカスはそれに気づいた。


気づいたが、何もしなかった。起こすべきかどうか一瞬考えたが、疲れているなら眠れるほうがいいと思った。前のほうを見た。道が続いていた。


しばらくして、車が路面の小さな段差を踏んだ。


美夏の身体が、ゆっくりとルーカスのほうへ傾いた。


肩に重みがかかった瞬間、ルーカスは一瞬だけ身体を固くした。でも、起こさなかった。避けもしなかった。ただそのまま、受け止めた。


美夏(みなつ)の髪が、ルーカスのコートの袖に少し触れていた。呼吸が近かった。体温が伝わってきた。


ルーカスは動かなかった。肩にある重みだけは消えなかった。それが何なのか、まだうまく言葉にならなかった。ただ、何かを見ているふりをしながら、そこから意識を離せないでいた。


眠るつもりはなかった。でも、そのぬくもりを感じているうちに、気づくと目を閉じていた。


-----


夏生は車線変更のためにバックミラーを見た。


後部座席に、二人の姿が映っていた。


美夏がルーカスの肩に頭を預けて眠っていた。ルーカスもそのまま、浅く眠っていた。ごく自然に寄り添って寝ているように見えた。それが、夏生には少し引っかかった。


いつの間に、と思った。


別に悪いわけではないと、すぐに思い直した。長い移動で疲れれば眠る。隣に人がいれば寄りかかることもある。それだけのことだった。ただ、ずいぶん近かった。


夏生は前を見たまま、小さく言った。


「……後ろ」


ルイは振り向かなかった。


「疲れてるんだろ」


夏生は少し間を置いた。


「まあ、そうだけど」


ルイは窓の外を見たまま言った。


「ルーカスは良い奴じゃないか」


夏生は少し拍子抜けした。


「別に悪い奴とは言ってない」


それだけ返して、また前を見た。会話はそこで終わった。


道が続いた。標識の文字が変わり始めた。フランス語とオランダ語が混ざるようになって、やがてオランダ語だけになった。道路の案内板の色が少し変わった。空が広くなった。土地が平らになった。


標識はもうオランダ語だけになっていた。景色より先に、文字が国境を越えたことを知らせた。


しばらくすると、道の端に細い運河が現れた。草が生えた土手が続いた。空の光がそこに落ちて、水面が白く光った。


やがて街の入り口に差し掛かった。


石畳の通りへ入ると、車がゆっくりになった。建物が低く、整っていた。橋を渡ると、水面の向こうに尖った塔が見えた。運河沿いの木が、まだ芽吹いたばかりの薄い緑をしていた。観光客が何人か歩いていて、カフェの椅子が表に出ていた。


夏生がナビを見た。そこがブルージュだった。


後部座席で、美夏が目を開けた。ルーカスも少し遅れて起き上がった。二人ともしばらく、どこにいるかを確かめるように周りを見た。


「着いた」と夏生が言った。


荷物を降ろす間、美夏はまだ少し眠そうだった。ルーカスがトランクから荷物を出すのを手伝った。


夏生はルーカスの隣に立って、短く言った。


「助かった。でも、次は起こしていい」


ルーカスは一瞬だけ間を置いた。


「……はい」


責められているとは思わなかった。でも、言葉の意味は受け取った。夏生が自分のほうを見ていることは、わかった。


美夏は荷物を持って、通りのほうを向いていた。


運河の向こうに、塔がまだ見えていた。


-----


宿は運河沿いの細い通りに面していた。


入り口のドアを開けると、古い木の匂いがした。ロビーは狭く、照明がやわらかかった。受付の人が小さな声でチェックインの案内をして、鍵を渡した。木の階段が少し軋んだ。


夏生が鍵を受け取って、三人に配った。美夏はまだ眠気が少し残っていて、階段の途中で一度だけあくびをした。ルーカスは夏生の言葉をまだどこかで意識しながら、自分の荷物を持って黙って上がった。


部屋に荷物を置いて、少し落ち着いた頃に、四人が揃って翌日の確認をした。


「午前はリハーサル。午後は自由。本番は明後日」


夏生がそれだけ言った。


「午後、俺はオンラインが入ってるけど、動ける人は動いていい」


そのまま話は終わった。


ルイは夏生の言葉に短く頷いた。それだけだった。

美夏はルイのほうを見たが、結局何も言わなかった。


その夜、四人は宿の近くで簡単な夕食をとった。運河のそばを少し歩いて、早めに宿へ戻った。ルーカスは自分の部屋に戻ると、すぐに眠った。長い移動の疲れが、今ごろ出てきたのかもしれなかった。


-----


翌朝のブルージュは静かだった。


運河に橋がかかっていて、その下を水が黒く流れていた。石畳の通りには、観光客よりも地元の人が多かった。パン屋から香りが出ていた。水面に朝の光が細く落ちて、揺れていた。海辺の水とは違った。街の中で閉じていて、建物と一緒に呼吸しているような感じがした。


本番前の最終調整で、大きく崩すところはなかった。音の入り方を確認して、呼吸を合わせて、気になる箇所をもう一度通した。ルーカスは美夏と合わせるとき、音の置き場所がはっきり見えた。考えるより先に手が動いた。この感覚には、もう慣れていた。


ルイは必要なことだけを言った。音は崩れなかった。

言葉が途切れるたび、部屋の中が少し静かになった。

美夏は弓を持ち直す前に、ルイのほうを見た。ルイはもう譜面に目を落としていた。


リハーサルは午前中に終わった。


-----


少し空気がほどけた。


ルーカスがピアノの蓋を閉じ、美夏がケースに弓を収めた。夏生が飲み物を手に取って、窓の外を見た。午後の光が石畳の上に落ちていた。


「ワッフル、食べてみたい」


美夏が言った。特に誰かに向けて言ったわけでもなかった。でも、少し間を置いてから、ルイのほうへ目を向けた。


「るいとも行こ」


ルイは返事をしなかった。一拍だけ、間があった。


「俺は無理。午後、仕事入ってる」


先に答えたのは夏生だった。


「にぃにには聞いてない」


美夏がすぐに返した。


夏生が小さく吹き出した。「ひどいな」


美夏の視線はまだルイのほうにあった。


ルイは少し間を置いた。


「……少し打ち合わせがあるから」


美夏は「でも」と言いかけて、飲み込んだ。


「そっか」


それだけ言った。


「ルーカスは?」と夏生が横から言った。


ルーカスは少し驚いた顔をした。それから、


「行きます」


と答えた。


美夏が立ち上がって、「じゃあ行こうか」と言った。軽い声だった。ルーカスが頷いた。


ルイはもう視線を外していた。


窓の外に、午後のブルージュの光があった。運河の水面が、風もないのに少し揺れていた。


「店に入ったら連絡よこせよ。あとで合流するから」


出ようとする二人に、夏生が軽く言った。


「わかった」と美夏は返した。


-----


宿を出ると、午後の光が石畳の上に落ちていた。


運河沿いの道は、思ったより広くなかった。石畳は少しでこぼこしていて、端に苔が生えていた。水面は低く、ほとんど揺れなかった。遠くで観光客の声がしたが、この通りはまだ静かだった。


橋を渡った。手すりに石の装飾があって、下を流れる水が暗く光っていた。向こう岸に出ると、また別の建物の壁が続いた。赤茶色のレンガ、白い漆喰、木の窓枠。どの建物も低く、揃っていた。


二人はあまり話さなかった。


並んで歩いた。石畳に足音が響いた。時々、水鳥が水面に降りて、また飛び立った。風は強くなく、木の葉が少しだけ動く程度だった。光が水面で跳ねるたびに、壁が明るくなった。


フランスの海辺の水とは違った。あちらは広くて、音があって、景色の外まで続いていた。ここの水は街の中にあって、建物と一緒に黙っていた。どちらも水だが、別のものだった。


しばらくして、美夏がふっと言った。


「ねえ、なんだかるいと変じゃない?」


ルーカスは前を向いたまま、「そうかな?」と返した。


「あんまりしゃべらないし。何考えてるのか、わかんない」


「ルイさんって、いつもああいう感じじゃないの? 掴みどころがないっていうか」


美夏は少し考えた。「そうかな」「でもなんか、もっと……」と言いかけて、やめた。


ルーカスは頷くでもなく、水面を見た。


ルイの変化を考えるより、ルーカスの頭に残っていたのは、トランクの横で言われた短い言葉だった。夏生の静かな圧のほうが、まだ気になっていた。


「まあ、本番前だし」とルーカスは言った。


美夏は「そっか」と返して、また前を向いた。


橋の向こうに、観光客の群れが少し見えた。二人はその手前の細い路地へ入った。


小さな店のウィンドウに、美夏が足を止めた。


ガラスの向こうに、ショコラが並んでいた。宝石のように並んでいた。丸いもの、四角いもの、金箔がのったもの、深い赤、緑がかった茶色、つやつやした黒。それぞれが整然と置かれていた。


「うわ」と美夏が言った。


入ろうか、と言わなくても、二人は自然に入っていた。


店の中は小さかった。ガラスケースが一つあって、白い手袋をした店員が奥にいた。美夏はケースの前にしゃがんで、真剣な顔で見ていた。


「これと、これ、どっちがいいかな」


二つを指した。形が違った。


ルーカスは少し考えるふりをして、「じゃあ、二つとも」と言った。


「え、でも」


「半分ずつしよう」


深く考えたわけではなかった。ただ、美夏が両方食べられると思った。美夏は一瞬だけ間を置いて、「じゃあお願いします」と店員に言った。


運河沿いのベンチに座った。


午後の光が水面に落ちていた。橋を渡る人影があって、その足音が石畳に響いた。観光客の話し声が遠くにあった。水鳥が一羽、ゆっくり水の上を進んでいた。


美夏がショコラの箱を開けた。二つを並べて、一つを手に取った。


「半分こね」


そう言って、指でそっと割った。断面がなめらかだった。片方をルーカスに渡して、自分も口に入れた。


ルーカスも食べた。ほろ苦さのあとに甘さが来た。


それからもう一つも同じように割って、交換した。


「こっちのほうが好きかも」と美夏が言った。


「どっちが?」


「こっち。苦いけど、そのあとのまろやかさが好き」


午後の光が少しずつ動いた。水面が光を返した。ベンチの木は古くて、少し温かかった。


ルーカスはそのまましばらく、水の流れを見ていた。


-----


ショコラを食べ終えて、また歩いた。


細い橋を渡って、角を曲がって、石畳の広い通りに出た。夕方に近づくにつれて、観光客が少し増えていた。店の前に椅子が出ていた。パン屋の窓に明かりが灯り始めた。


ワッフルの店は通りの途中にあった。外に看板が出ていて、焼く音と甘い香りが漏れていた。


窓際の席に座って、美夏がメニューを開いた。楽しそうだった。ルーカスはその横顔を少しだけ見た。


ワッフルが運ばれると、粉砂糖が白く積もっていた。湯気が少し上がった。


「おいしい」と美夏が言った。


「そうだね」とルーカスは返した。


何でもない会話が続いた。ショコラの話、さっきの通りの話、明日の本番の話が少し。どれも軽かった。ただ、その軽さの中でルーカスは、この時間が終わってほしくないと思っていた。またこうして歩きたい、と思ってしまった。その理由を、まだうまく言葉にはできなかった。


そこで、美夏のスマートフォンが鳴った。


「にぃにだ」


美夏はメッセージを読んで、ルーカスにも見せた。


*まだまだ終わらないから合流できそうもない。お土産にワッフル買ってきて*


美夏は小さく笑った。


「はいはい、わかりましたよー」


そう打って、スマートフォンをしまった。


「ねえ、どのワッフルおみやげにしようか?」


美夏は立ち上がって、ショーケースの前に行った。眺めて迷っている顔をした。


ルーカスはその横顔を見ながら、何か言おうとした。名前を呼びかけそうになった。でも、言葉がまだ形にならなかった。


今、何を言おうとしていたんだろう。


その問いが、自分の中へ戻ってきた。


ただ一緒に歩きたいだけではなかった。この時間が終わるのが惜しいだけでもなかった。ショコラを二つとも買ったのも、半分ずつにしたのも、別に深く考えたわけじゃない、と思っていた。でも、そうではなかった。


ピアノ科との合奏練習で初めて見かけた美夏は、長い黒髪に、意志の強そうな黒い瞳をしていた。でも笑うと、雰囲気がふっと優しくなった。


最初から気になる同級生だった。

いつの間にか友達になっていた。

あの曲を一緒に弾いてみたくなった。  


何度か合わせるうちに、美夏のヴァイオリンの呼吸の中に、自分のピアノが入る場所が見えてきた。


浜辺で並んで海を見た時間。

体調を崩した夜の、背中の手の温度。

昨日、肩に伝わってきた重み。

半分こにしたショコラの、なめらかな断面。


そこでようやく、ルーカスは理解した。


美夏が好きなんだと。


美夏はまだショーケースを覗いていた。


ルーカスは少し目を細めて、その顔を見ていた。

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