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第23章 見えてしまうもの

楽屋は静かだった。


 ルイは鏡の前に立って、上着の襟を整えた。それから弓を取り出して、毛の張りを確かめた。指で軽く弦を弾いて、音を聴いた。低く、短い音が壁に沈んだ。


 ケースを閉じた。譜面の最後の一ページをめくって、また戻した。


 手順はいつも通りだった。順番も、動作も、変わっていなかった。ただ、その隙間がいつもより少なかった。


「チューニング、もう一度やっておく?」


 美夏(みなつ)が聞いた。


 ルイは弓を見たまま、「大丈夫」と言った。


 返事はあった。それ以上は続かなかった。


 美夏はそれ以上は言わなかった。


 ルイはもう一度、弓の毛を見た。見る必要はなかった。でも、そうしていた。




 美夏は少し離れたところで弓の松脂を確かめていた。


 本番前の集中は、ちゃんとある。今日の演目の流れも、自分の音の置き方も、頭の中には入っていた。


 でも、ふと、ルイのほうを見た。


 背中が見えた。上着の肩のライン、ケースを置く手の動き。いつも通りに見えた。でも、いつも通りすぎた。


 美夏は何か言いかけて、やめた。


 本番前だから、と思った。本番前は、みんな少し自分の中に入る。それだけのことかもしれない。


 弓を持ち直した。視線を手元へ戻した。


 美夏は弓を持ったまま、ほんの少し止まった。


 弓、まっすぐに。


 その短い声は、今日は来なかった。



 ルーカスは隅の椅子に座って、譜面の最後の数ページをもう一度見ていた。


 昨日の午後のことを、思い出しかけて、やめた。


 今日は音を崩さないことだけを考えようと、決めていた。入りの呼吸、ペダルの重さ、美夏のヴァイオリンが動き始めるタイミング。それだけ考えればいい。


 譜面を閉じた。


 視線を上げると、美夏が弓の毛を確かめているところだった。


 気づくと、目で追っていた。


 すぐに視線を戻した。譜面の表紙を見た。文字は入ってこなかった。


-----


 客席は、開演前のざわめきの中にあった。


 夏生(なつき)は通路寄りの席につき、会場を見渡した。小さな会場だった。ブルージュの街にある、古い建物の中の空間で、天井が低く、音がよく籠もりそうだった。椅子は木製で、座るたびに少し軋んだ。


 照明がまだ落ちていなかった。人々はプログラムを開いたり、隣の人と話したりしていた。


 夏生はプログラムを閉じた。


 昨日の練習の感じは悪くなかった。美夏の音も安定していた。今日の演奏に、特に心配はなかった。


 ただ、さっき楽屋を覗いたとき、ルーカスの視線が一瞬だけ美夏を追っているように見えた。ほんの一瞬だった。夏生は小さく息をついて、前を向いた。気にしすぎかもしれなかった。


 舞台のほうへ目を向けた。まだ誰も出ていなかった。


 照明が、少しずつ落ち始めた。


-----


 スタッフが袖に立った。


 合図が来た。


 ルイが先に立った。美夏がその後ろに続いた。ルーカスも立ち上がった。


 袖の薄暗さの中で、舞台の白い光が端から差し込んでいた。観客のざわめきが、少しずつ静かになっていった。


 三人の位置は決まっていた。動きも決まっていた。


 それでも、その空気だけが少し張っていた。


 ルイが先に歩き出した。


-----


 最後の音が消えた。


 一瞬の静けさのあと、拍手が来た。三人は礼をした。顔を上げると、もう袖へ引く流れに入っていた。


 ルイは先に歩き出していた。ルーカスはピアノから立ち上がって、美夏の少し後ろについた。


 美夏はルイの背中を、ほんの一瞬だけ見た。


 その半拍の遅れで、譜面台の脚に足を取られた。


「あっ」


 小さく声が出た。すぐ後ろにいたルーカスの手が、もう出ていた。肩を支えた。


 美夏はすぐに立ち直った。「ごめん、ありがとう」と短く言った。


 ルイは「あっ」という声で振り向いた。


 でも、そのときにはもうルーカスの手があった。


「気をつけて」


 それだけ言って、袖へ入った。


 


 ルイは控室へ戻っても、その順番だけが妙に残っていた。


 振り向いたとき、もうそこにあったルーカスの手。自分は「気をつけて」としか言えなかった。その順番だけが、ほかの何よりも鮮明だった。


-----


 客席では、拍手がほどけていった。


 人々が立ち上がり始めた。椅子が鳴った。プログラムを閉じる音がした。話し声が戻ってきた。


 夏生は席を立とうとして、少し止まった。


 舞台で見えたのは、よろけた美夏をルーカスが支えた、その一瞬だった。その動きが妙に自然だったことだけが、まだそこにあった。


 後ろの席から、声が聞こえた。


「さっきの、見た?」


「あの二人、お似合いだよね」


「昨日さ、運河のところのベンチで、ショコラを分けて食べてるの見かけたの。なんかいいなって」


 夏生は前を向いたまま、動かなかった。


 楽屋での一瞬の視線が、そこでふと戻ってきた。先に出ていた手と重なった。


 夏生はそれ以上は考えず、席を立った。


-----


 楽屋へ戻ると、まだ拍手の余韻が少し残っていた。


 夏生は入ってきて、まず美夏のほうへ行った。


「大丈夫だったか」


 美夏は少し俯いた。「みんなに見えてたよね?」


「まあ、前のほうの席だけだと思う」


 夏生はそう返した。美夏は「そっか」と言って、それでもまだ少し恥ずかしそうだった。


 夏生はそのまま視線を動かした。ルーカスのほうを一瞬だけ見て、何も言わなかった。


 そのままルイのほうへ歩いた。


「明日の練習、午後からだろ。このあと、お前の部屋で少し飲まないか。うまいワイン持ってくよ」


 ルイは短く返した。


「……いいよ」


 断る理由はなかった。一人でいるより、そのほうがよかった。


 夏生はそこで、美夏のほうを見た。


「明日もあるし、夜食は部屋に届けてもらうようにしとくから。二人とも、もう休め」


 美夏は素直に頷いた。ルーカスも少し遅れて、「ありがとうございます」と言った。


-----


 部屋に入ると、窓辺へ行った。


 ブルージュの夜は静かだった。運河に灯りが落ちていた。石畳の上に、通りの光が細く伸びていた。橋のシルエットが水面に揺れていた。


 頭の中には、さっきの光景があった。


 美夏の小さな「あっ」。振り向いたときには、もうそこにあったルーカスの手。肩を支える、自然な近さ。そして自分は「気をつけて」としか言えなかった。


 それだけのことだった。一瞬のことだった。


 なのに、順番だけが妙に鮮明だった。


 ノックがあった。


「邪魔するぞ」


 夏生だった。ワインを持っていた。もう一方の手に、紙に包んだものがあった。


「ワインだけじゃ寂しいだろ。チーズとハム、少し包んでもらってきた」


 ルイはグラスを二つ出した。夏生がワインを開けた。ベッドの端と椅子に分かれて、グラスを持った。


 しばらく、次の公演の話をした。


「次はウィーンだな」と夏生が言った。「あそこはお前のほうが勝手がいいだろ」


「少しはね」


「ウィーンのあとは、夏も考えてることがあるんだよ。うまくいけばイギリスでやれたらと思ってる」


「イギリスで?」


「少し考えてることがある。また話す」


 夏生はそれ以上は言わなかった。ワインを少し飲んだ。


 少し間ができた。


「……そういえばさ」


 夏生が続けた。


「今日、後ろの席の女の人たちが話してたんだよ」


「ん」


「美夏とルーカス、お似合いだって。昨日も、運河のベンチでショコラ分けて食べてたの見たってさ」


 ルイはグラスを持ったまま、少し止まった。


「……そう」


 短く返した。


「お似合いじゃないか、二人って」


 声は静かに出た。感情は乗っていない、はずだった。


 肩を支えていたルーカスの手が、頭の中にあった。一瞬だったのに、消えなかった。


 夏生はグラスを揺らした。


「まあ、美夏もどんどん大人になるしな。俺たち保護者側は複雑だよな」


「そうだね」


 ルイは返した。たぶん普通の顔で。


 窓の外で、運河の灯りが揺れていた。

 ワインが少し減って、夜が深くなった。


 見えてしまったものは、もうそこから動かなかった。


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