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第24章 知らない時間

 ウィーンの劇場は、石と木と、古い空気でできていた。


 廊下を歩くルイの背中が、整っていた。足音が自然だった。すれ違うスタッフに軽く頷く。短い言葉を交わす。向こうも同じように返す。それだけのことなのに、ここがルイにとって馴染みの場所なのだと、歩き方でわかった。


 美夏(みなつ)はその少し後ろを歩いていた。


 ブルージュでは、ルイはどこか閉じているように見えた。打ち合わせがあると言ってワッフルには来なかったし、練習中も必要なこと以外はあまり話さなかった。


 ウィーンでも、その距離は変わっていなかった。でも、ここでは馴染みの人たちと自然に話しているルイがいた。


 こちらが、るいとの本当の距離なのかもしれない。


 今まで私に合わせてくれていただけなのかな。


 胸の奥が、少しだけ詰まった。


 楽屋へ向かう廊下の途中で、声がかかった。


「ルイ」


 振り向くと、女性が歩いてきた。


 背が高かった。肩のあたりで揺れる栗色の髪。歩き方に迷いがなかった。三十代の半ばくらいだろうか。笑顔が明るくて、声もよく通った。


「エマ、来てくれたの?」


 ルイが言った。


「あなたが出るなら来るわよ」


 エマはそう言って笑った。夏生(なつき)のほうへ目を向けた。


「夏生、久しぶり」


 夏生は少し驚いた顔をしたが、すぐに戻した。


「どうも、学生の時以来ですね。今はルイと一緒ですか?」


「ええ、同じ楽団よ」


 ルーカスは少し後ろで足を止めていた。会話に入るほど近くはなく、でも聞こえる距離にはいた。


 エマの視線が、美夏のほうへ移った。


 見覚えがあった。


 前に一度、ルイの楽団のコンサートを聴きに行ったことがある。そのとき、舞台の上でヴァイオリンを弾いていた人だった。


「……あなた、前に楽屋に来てくれたことがあるわよね」


 美夏は少し驚いた。


「はい。終演後に、少しだけ」


「やっぱり」


 エマは笑った。嫌味のない笑い方だった。


「覚えてる。あなたが楽屋に来たとき、ルイがすごく嬉しそうだったから」


 美夏は頷いた。


 あのときのことは覚えていた。十五歳の秋。一人でルイの楽団を聴きに行った日。パンフレットで「Louis Clair」の名前を見つけて、迷って、それでも楽屋を訪ねた日だった。でも、そのとき周りに誰がいたかは、覚えていなかった。ルイに会えたことで、それどころではなかった。


「ルイ、音楽院の頃、火曜の午前の授業が終わるといつも急いで出ていったでしょう」


 エマがルイのほうを見て言った。


「あのとき教えていた子が、美夏なのね」


 美夏は、少し息が止まった。


 四歳か、五歳の頃だ。細かいことは覚えていない。ルイが来てくれていたことは知っている。でも、そのときルイがどこから来ていたのか、何を終えてから来ていたのか、考えたことがなかった。


 授業が終わるといつも急いで出ていった。


 その言葉が、妙にはっきり残った。


「懐かしいわね」


 エマは続けた。


「最初は断られたのよ。ルイに、ウィーンに来ないかって声をかけたとき」


「……うん」


 ルイが短く答えた。少しだけ困ったような顔をした。


「でも結局来てくれたから、よかったけど」


 エマは軽く笑った。それだけだった。


 ルイがまた表で弾くようになったきっかけのひとつが、この人だったのだと、美夏は思った。


 美夏はその場に立ったまま、二人の距離を見ていた。


 悪い人ではなかった。むしろ感じがよかった。笑い方も話し方も、嫌なところがなかった。


 だから余計に、自分がどこに立っているのかわからなくなった。


---


 エマの少し後ろに、もう一人、女性がいた。


 エマより少し若く見えた。二十代の後半だろうか。髪は暗い茶色で、肩より少し長かった。静かな立ち方をしていた。


「ミア。昔から隣に住んでて、妹みたいなものなの」


 エマが紹介した。


「もともとは言葉の仕事をしてたんだけど、今は少し仕事を離れていて。ヨーロッパを回ってるの」


 ミアは軽く頭を下げた。


「ブルターニュで偶然、この公演のポスターを見かけて。ルイさんがエマの楽団の人だって書いてあったので、聴いてみたら、思った以上に残って」


 声は静かだった。言葉の選び方が丁寧だった。


「それでエマに話したら、ウィーンにも来てみたらって言われて」


「ありがとうございます」


 美夏は頭を下げた。ミアは少し微笑んだ。


 開演が近づいていた。


 ロビーには、理沙と陽翔はるとの姿があった。ルーカスの家族も来ていた。節目の公演だった。見守る人たちが集まっていた。


 美夏は舞台袖へ向かった。


 ルイはもう先に行っていた。背中は見えなかった。


---


 公演は、無事に終わった。


 音は整っていた。流れもきれいだったと思う。


 でも、弾きながら、美夏は何かが違うと感じていた。


 ルイの音が遠かった。聞こえていた。ちゃんと聞こえていた。でも、ブルターニュのときのように、ふいに近づいてくる瞬間がなかった。あのとき、「海と光」を弾いたとき、三人の音は開いていた。風が通っていた。今は、その風がどこかで止まっていた。


 整っていた。きれいだった。


 でも、少しだけ閉じていた。


 終演後、客席から拍手が届いた。立ち上がる人もいた。


 三人で頭を下げた。


 ルイの横顔は、いつも通りだった。


---


 ロビーの隅で、エマがルイに話しかけていた。


 美夏は少し離れた場所にいた。聞こえる距離だった。


「客席で聴いてるとわかるものもあるわね。最初、少し硬かったわよ」


 エマの声は穏やかだった。


「でも途中から戻してた。変わってないところもあるのね」


「……そうかな」


「そうよ。昔から、最初の数小節だけ少し肩が上がるの。覚えてる? 音楽院の頃もそうだった」


 ルイは少し苦笑した。


「まだ直ってないのか」


「直す必要ないと思うけど。途中でちゃんと降りてくるから」


 エマは笑った。昔から知っている人の笑い方だった。


「あの頃は、よく二人でリハーサル室に残ってたわよね。私が帰ろうって言っても、あなたがもう一回って」


「……そんなこともあったかな」


「あったわよ。私、何度終電を逃したか」


 ルイが小さく笑った。エマも笑った。


 美夏はその場に立っていた。


 二人の会話は自然だった。ただ、その自然さの中に、自分の知らない時間があった。音楽院の頃。リハーサル室。終電。


 自分の入る場所が、なかった。


「美夏」


 声がした。振り返ると、理沙が少し離れたところに立っていた。


「ルーカスのご両親があちらにいらしてるの。あなたもご挨拶したら?」


 美夏は頷いた。ルイのほうを一瞬だけ見た。ルイはまだエマと話していた。こちらには気づいていないようだった。


「……うん」


 美夏は理沙のほうへ歩いた。


---


 ロビーの反対側で、夏生はミアと話していた。


 美夏はルーカスの家族への挨拶を終え、理沙と陽翔のそばにいた。ルーカスはまだ家族と話していた。ルイはロビーの隅で、まだエマと話していた。


 人の流れが少し落ち着いた頃、ミアが静かに言った。


「あの、少しだけ」


「ん?」


「ブルターニュの公演がきっかけで、Anywhere Homeを使うようになったんです」


 夏生は少し驚いた顔をした。


「そうなんだ。ありがとう」


「パンフレットに、心が少し固くなっている人へ、みたいなことが書いてあって」


 ミアは少し間を置いた。


「今、あちこち回っているので……旅先でも自分の空間を整えられるのがいいなって」


「使ってみてどう?」


「落ち着きます。あの曲が関わっているアプリだと思うと、なおさら」


 夏生は頷いた。


「それで……ブルターニュで聴いたときと、今日とで、少し違って聞こえたんです」


 夏生は黙ってミアを見た。


「今日のほうが、ずっと整って聞こえました」


「うん」


「でも、前のほうが、もう少し呼吸していた気がしました」


 ミアは言葉を選んでいた。


「私、少し心が固くなっていた時期で……ブルターニュであの音を聴いたとき、何かがほどけた感じがしたんです」


 夏生は黙っていた。


「今日は、きれいだったんです。でも、少し整い過ぎていて……閉じているように聞こえました。前は、音のあいだに風が通っていた気がしたんです。今日は、それが少なかった」


 ミアはそれだけ言って、少し頭を下げた。


「すみません、勝手なことを」


「いや」


 夏生は首を振った。


「ありがとう。聞けてよかった」


 ミアは静かに頷いて、エマのほうへ戻っていった。


 夏生はその場に残った。


 ブルージュから続いていた引っかかりが、ミアの言葉で輪郭を持った。


 三人のあいだで、何かが変わっている。


 気のせいではなかった。


---


 帰り道、美夏は少し後ろを歩いていた。


 前にはルイと夏生がいた。ルーカスが隣にいた。


 頭の中には、いくつかのことが残っていた。


 エマとルイの距離。火曜の午前の授業。最初は断られたのよ、というエマの言葉。ロビーでの、昔から知っている人同士の会話。


 全部、知らなかった時間だった。


 ルイがどんな日常を過ごしていたのか。どうやって来てくれていたのか。


 知っていると思っていた。でも、知らない時間のほうが多かった。


 今日の音も、少し違った。


 整っていた。きれいだった。でも、どこか遠かった。ブルターニュで弾いた「海と光」のときは、もっと近かった。あのときは、音のあいだを風が通っていた。


 今日は、その風がなかった。


 ルイは、何かを閉じているように見えた。


 でも、それが何なのかはわからなかった。


 聞けなかった。聞いていいのかも、わからなかった。


 夜のウィーンは静かだった。


 石畳の上を、四人の足音が続いていた。



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