第47章 川の音はいつものように
七月の初めのロンドンは、朝から空が高かった。
音楽院の卒業式は、昼前に終わった。客席には、ロウアー・スローターから来た理沙と陽翔と夏生がいた。ルイもその並びにいた。
式のあと、美夏はロビーで証書を受け取った。正面の石段のまわりは、人でいっぱいになっていた。あちこちで写真が撮られて、同じ挨拶が何度も交わされていた。通りの向こうには柵に囲まれた小さな公園があって、プラタナスの葉が風に鳴っていた。
夏生が上着のポケットから車の鍵を出した。
「回してくる」
「私たちも行くわ」
理沙が言った。
「駐車場の近くに、評判のお店があるの。お祝いのお菓子を頼んであるから」
陽翔が頷いた。
夏生は美夏とルイに、公園のほうを顎で示した。
「向こうで待ってろ」
三人は角の先へ歩いていった。
美夏とルイは通りを渡った。
柵のそばの木の下は、日陰になっていた。赤いバスが通りを過ぎていった。車の音は、木に遮られて少し遠かった。
「みーちゃん」
「うん」
「卒業したね」
美夏は手に持った証書を見た。
「したよ」
ルイは少し黙った。
芝生の上で、小さな子が鳩を追いかけていた。鳩は少し飛んで、少し先へ降りた。
美夏が顔を上げた。
「……それだけ?」
「え?」
「四年前、なんて言ったか覚えてる?」
ルイが困ったように笑った。
「僕が聞こうと思ってたんだけど」
「遅いよ」
「まだ卒業式が終わったばかりじゃないか」
美夏が笑った。ルイも笑った。
笑いが静まってから、ルイは美夏を見た。
「僕は、変わってないよ」
プラタナスの葉の影が、二人の足もとの石の上で揺れていた。
「今も、みーちゃんと結婚したい」
美夏はすぐに頷いた。
「うん」
それから、証書の端を指でなぞった。
「私も、ちゃんと持ってきたよ」
「何を?」
「約束」
ルイの口もとがゆるんだ。
「ずっと持ってたの?」
「るいとが、待つって言ったから」
ルイはプラタナスの葉を見上げた。
小さく息を吐いた。
「……長かった」
美夏が笑った。
「自分で待つって言ったんでしょ」
「言ったけど」
美夏はもう一度笑った。
通りの向こうで、クラクションが短く鳴った。夏生の車だった。運転席の窓が下りて、夏生が後ろの席を指さした。
美夏は証書を持ち直して、ルイの袖を引いた。
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その夜、ロウアー・スローターの家のテーブルには五枚の皿が並んだ。
七月の村は、九時を過ぎても外が明るい。垣根のばらが、夕方の光を残していた。開けた窓から、アイ川の水の匂いが入ってきた。
食事が終わって、理沙がお茶を淹れた。陽翔がカップを並べた。ロンドンから持ち帰った白い箱が、テーブルの端に置かれていた。
美夏がルイを見た。
ルイはカップを受け皿に戻した。
「少し、いいですか」
ポットを持ったまま、理沙が振り向いた。陽翔が顔を上げた。
「みーちゃんと、結婚することにしました」
美夏が隣で背を伸ばした。
「……しました」
夏生がグラスを置いた。
「結婚式は俺が仕切る」
美夏が夏生を見た。
「え、にぃにが?」
「俺が」
「私たちの結婚式なんだけど」
理沙がポットをテーブルに置いた。
「夏生、まず本人たちがどうしたいか聞きなさい」
「だから、それ聞いてから仕切るんだよ」
陽翔は、もう自分のカップを脇へ寄せていた。
「教会なら、人数を先に決めたほうがいい」
「パパ?」
「季節は」
陽翔はテーブルの上で指を組んだ。
「冬なら道が凍る。遠くから来る人がいるなら、移動のことも考えておかないとな」
「パパまで」
ルイはお茶を飲んでいた。カップの縁の向こうで、口もとが笑っていた。
夏生はテーブルに肘をついて、しばらく美夏を見ていた。
「みーちゃん」
声が低くなっていた。
「やりたいようにしろよ」
美夏が夏生を見た。
「その通りにするから」
美夏はルイのほうを向いた。ルイが小さく頷いた。
「教会がいい」
美夏が言った。
「村の。小さくていいの」
「秋に」
ルイが続けた。
陽翔がまた何か言いかけた。理沙がその腕に手を置いた。
理沙は二人を見た。
「まだ、おめでとうも言ってないのに」
それから、ポットを取り直した。
「おめでとう。二人とも」
ルイのカップに、お茶が足された。美夏のカップにも。
理沙が、白い箱のふたを開けた。
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七月二十一日に、美夏は二十三歳になった。
夏のあいだに、離れの夏生のテーブルにはノートが一冊増えた。ページは日ごとに埋まっていった。夏生は教会の管理人の老人と何度か話をして、椅子の数を数えに行き、戻ってきて、また数えに行った。
陽翔は車で村の外の道を一度回って、駐められる場所を地図に書き込んだ。
ブルターニュには、ルイが電話をかけた。ルイの母が乗る列車と飛行機は、夏生が調べて送った。
美夏が何か言いかけると、夏生はノートを開いて「それで?」と聞いた。美夏が答えると、夏生はそれを書いた。
八月が過ぎた。刈り入れの済んだ畑に、麦わらが丸い束になって残った。
九月の終わりには、朝の空気が変わった。石の壁がひんやりして、垣根に赤い実がつきはじめた。
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十月の土曜日は、よく晴れた。
門の脇の木が、黄色く色づいていた。教会の扉は、朝から開けてあった。高い窓から入る光が、石の床に長く伸びていた。
式の前、美夏とルイは入口の脇の小さな部屋にいた。
美夏は白いドレスの裾を膝の上で揃えていた。ルイは窓のそばに立っていた。
夏生が入ってきた。上着の内ポケットから、薄い封筒を出した。
「あ、これ」
二人が顔を上げた。
「ルーカスから」
美夏が封筒を受け取った。なかに、譜面が数枚入っていた。手書きだった。一枚目のいちばん上に、ルーカスの字で「For Minatsu and Louis」とあった。
ピアノの曲だった。
「お祝いだって」
夏生が言った。
「本人が弾いたのも送ってきてる。今日、流すから」
ルイが窓のそばから来た。美夏は譜面をルイのほうへ傾けた。
明るい調の曲だった。
「ルーカスらしいね」
「うん」
夏生は時計を見て、部屋を出ていった。
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教会の椅子は、半分ほど埋まっていた。
前の列に理沙が座り、その隣にルイの母が座った。後ろの列には、村の人が何人か。ルイのところへ通う子どもたちも、親と並んでいた。
夏生は、前の列の通路側の端に座った。
先に、小さな女の子が通路を歩いてきた。ルイが教えている子のひとりだった。指輪の載った小さなクッションを、両手で大事そうに持っていた。
扉のところに、美夏が立った。
外の光を背にして、白いドレスが明るく見えた。長い黒髪は結い上げてあった。胸もとで、小さなルビーが光っていた。
陽翔の腕に手をかけて、美夏は通路を歩いた。陽翔の歩幅は、いつもより狭かった。
前で、ルイが待っていた。近づいてくる美夏を、ルイはずっと見ていた。
牧師の声は低く、ゆっくりしていた。石の天井に、声が薄く残った。
ルイが誓いの言葉を言った。美夏も言った。
女の子が、両手でクッションを差し出した。指輪が渡された。
牧師の声が、二人を夫婦と呼んだ。ルイが少し身をかがめて、美夏に口づけた。
祭壇の前の光のなかで、二人の輪郭が重なった。
夏生は、眩しいものを見るように目を細めた。
牧師が本を閉じた。
夏生が席を立って、壁際に置いたスピーカーに触れた。
ピアノの音がした。
高い音が、軽く跳ねるように始まった。
美夏がルイを見た。ルイも美夏を見ていた。
光のなかを、音が石の壁に沿って広がっていった。高い窓の向こうは、雲のない秋の空だった。
子どもたちが、天井のほうを見上げていた。
短い曲だった。
最後の音が消えると、開いた扉の外から、川の音が戻ってきた。
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式が終わった。
人が立ち上がって、椅子の脚があちこちで鳴った。
最初に二人の前へ来たのは、ルイの母だった。美夏の手を取って、一度握った。それからルイを見た。ルイは小さく頷いた。
理沙は、前の列の椅子に座ったままだった。
式の途中から、目が潤んでいた。今、雫が頬を伝っていた。
理沙は声を立てずに、美夏を見ていた。膝の上で、ハンカチを持った手が止まっていた。
陽翔は式のあいだも、何度か後ろの列を振り返っていた。扉から入る風や、年配の人の座る椅子を見ていた。今は、村の人にコートを渡していた。
美夏が、その背中に声をかけた。
「パパ」
陽翔が振り向いた。
美夏の顔を見た。
陽翔の目に、涙がたまった。
理沙が、椅子から陽翔を見上げた。
「はるくん、泣いてるの?」
「……泣いてない」
陽翔は指の関節で、目の下を押さえた。
夏生は壁際にいた。朝から、そこと扉と入口の脇の部屋を、何度も行き来していた。スピーカーを片づけかけた手が止まっていた。
美夏がその前に来た。
「にぃに」
振り向いた夏生の顔が崩れた。
口を開いて、閉じた。肩が大きく揺れた。
美夏は、手に持っていたハンカチを差し出した。
「はい」
「……悪い」
夏生はハンカチを受け取って、顔に押し当てた。
「すごい泣いてる」
「うるさい」
ハンカチの下から、しゃくり上げる音がした。
美夏は、夏生の腕に手を置いた。
「にぃに、ありがとう」
ハンカチの向こうで、夏生が頷いた。
「……うん」
ルイは、そのそばに立っていた。夏生の肩が揺れるのを、少し笑って見ていた。
美夏がルイのほうを向いた。
ルイを見上げて、微笑んだ。
「幸せだね」
ルイが美夏を見た。
何か言いかけて、やめた。
少し顔を伏せた。それから、美夏に背を向けた。
「るいと?」
ルイの背中が、一度だけ上下した。
「……泣いてる?」
「泣いてない」
背を向けたままの声だった。
夏生がハンカチから顔を上げた。目も鼻も赤かった。
「お前も泣いてんじゃん」
「夏生には言われたくない」
美夏が笑った。
「うん。泣いてないね」
理沙が、濡れた頬のまま笑っていた。陽翔も、目の下を押さえたまま笑った。
開いた扉から、秋の光が石の床まで伸びていた。外の道で、子どもたちの声が弾んでいた。
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秋が深くなった。
牧草地の朝に、霧が出るようになった。道の脇の木は枝ばかりになって、落ち葉が石の道の端に寄っていた。
村はずれの家の冷蔵庫に、卵と野菜と肉が入るようになった。
「音の種」には、ブルターニュの歌のあとにも、歌が届いた。
ひとつずつだった。
山で羊を追いながら、子どもたちが歌った歌があった。村の祭りで、子どもも輪に入って踊った歌があった。縄跳びをしながら数えた歌だという人がいた。
一通には、こう書いてあった。
「祖父が、雪の日にだけ歌った歌です。どうして雪の日なのか、聞きそびれました」
日本で、ルーカスは届いた歌の土地のことを調べた。分からないことがあると、夏生を通して送り主に聞いた。それから編んだ。
夏生は、送り主の一人一人に返事を書いた。その土地で、二人が弾ける場所を探した。集会所。小さな学校。港の近くの教会。
村はずれの家には、ときどき薄い封筒が届いた。
二人で弾いた。弾いてみて気になったところは、ルーカスへ返した。しばらくすると、少し形の変わった譜面が届いた。
十二月に入るころ、テーブルの上に、持っていける譜面の束がいくつかできていた。
いちばん上は、ブルターニュの歌だった。二つの形が、ひとつの譜面のなかに並べて編まれていた。
最初に向かうのは、あの歌の土地だった。歌を送ってくれた人の町の集会所で、弾くことになっていた。ルイの母が、駅まで迎えに来ると言っていた。
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年が明けた。
出発の朝は、よく晴れていた。
霜が石の道を白くしていた。低い日が屋根の上から差して、垣根の枝に残った霜が光っていた。吐く息が白かった。
村はずれの家を出て、二人は村の道を歩いた。
美夏はヴァイオリンケースを肩にかけていた。ルイはヴィオラケースを提げて、もう片方の手でスーツケースを引いた。車輪が石の上で鳴った。
実家の扉は、もう開いていた。
理沙と陽翔と夏生が、玄関の前に出ていた。
理沙が、紙の包みをルイに持たせた。
「ルイくん。途中で、二人で食べてね」
「はい。ありがとうございます」
陽翔はスーツケースの車輪を一度見た。それから、美夏の肩に手を置いた。ルイの肩にも。
夏生が前に出た。
「行ってらっしゃい、みーちゃん」
美夏は笑った。
「行ってきます」
夏生がルイを見た。
「ルイ」
「ん?」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
二人が歩き出した。
美夏のケースで、薄藤色の房が揺れた。
石の道を下りて、橋へ向かった。スーツケースの車輪の音が、少しずつ遠くなった。
橋の上で、美夏が振り返って手を上げた。ルイも振り返った。
三人は、玄関の前に立っていた。
二人は橋を渡った。向こうの道を、二つのケースが並んで遠ざかっていった。
石垣の角で、二人の姿が見えなくなった。
三人は、しばらくそのまま道の先を見ていた。
足もとの霜にも、日が当たりはじめていた。
川の音はいつものようにずっと続いていた。




