↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
47/49

第46章 芽吹き

四月のロウアー・スローターは、朝の光がまだ薄かった。


 石の道の脇に、水仙が咲き残っていた。垣根の下に、白い小さな花が散っていた。牧草地のほうから、子羊の声がときどき届いた。アイ川は冬より水が多く、橋の下で低く鳴っていた。


 美夏(みなつ)は、春の休みで村へ帰っていた。卒業までは、あと三か月だった。


 ルイの家の窓は、開けてあった。


 テーブルに、カップが二つ並んでいた。


 玄関のノッカーが鳴ったのは、コーヒーを注ぎ終えたところだった。


 夏生(なつき)だった。ノートパソコンを小脇に抱えていた。


「一件目、入った」


 そう言って、そのままリビングへ来た。


 ページが公開されたのは、三月の終わりだった。夏生は、告知らしい告知をしなかった。ネスティアのサイトに、小さな入口をひとつ作っただけだった。入力欄は、二週間、空のままだった。


 夏生は、テーブルの端にパソコンを置いて、開いた。画面を、美夏のほうへ向けた。


「フランス」


 フランス語だった。読めない単語が、いくつもあった。


 ルイが、隣の椅子に座った。


-----


 ルイは、画面を上から順に読んでいった。


「祖母が歌っていた歌です」


 そのまま、日本語にしていった。


「祖母は、台所で歌っていました。手を動かしながら、毎日のように」


「母も歌っていました。今は、私が娘に歌っています。夜、寝かしつけるときに」


 ルイが、画面を少し下へ送った。


「上手には歌えません。でも、この土地では、昔からこの歌です」


 最後に、土地の名前があった。


 ルイが、そこで止まった。


「どうしたの」


「……ここ」


 ルイは、画面を少し近くで見た。


「母が住んでるところと、同じ地方だ」


 美夏が、ルイを見た。


「ブルターニュ?」


「うん」


 夏生は、カップを出してきて自分でコーヒーを注いだ。


-----


 投稿には、音声がついていた。


 美夏が、再生した。


 女の人の声だった。低いところから始まって、ゆっくり上がって、また下りてきた。途中で、声が少し揺れた。


 後ろで、水を使う音がしていた。


 歌の終わりのほうで、小さな声が混じった。子どもの声だった。歌っている人が笑って、そこからもう一度、歌い直した。


 一分もなかった。


 音が終わってからも、誰も動かなかった。


「……今も、歌ってるんだね」


「うん」


 夏生が、パソコンの画面を自分のほうへ戻した。


「送ってくれた人に、こっちから返事を出せるようにしてある」


 美夏が、夏生を見た。


「集めて終わりだと、意味ないだろ」


 ルイは、窓のほうを見た。


「母に、聞いてみようか」


 美夏が、顔を上げた。


「この歌に、心当たりがあるかもしれない」


「いいの?」


「聞くだけだから」


 ルイは、スマホを取った。


-----


 返事が来たのは、三日後だった。


 ルイの母は、昔からの知り合いを何人かたどったらしかった。列車で、いくつか先の町まで出向いたという。同じ歌を知っている人がいた。八十を過ぎた女の人だった。歌ってもらって、それを録って送ってきた。


 美夏は、ルイの家でそれを聴いた。


 同じ歌だった。


 始まりの三つの音は、変わらなかった。


 終わりが、違った。投稿の歌は、最後に下りてきた。こちらは、上がったまま終わった。


 言葉も、一つ二つ違う音がした。


 美夏は、もう一度二つを続けて聴いた。


 それから、ルイを見た。


「どっちが、ほんとうの形なんだろう」


 ルイは、カップを持ったまま窓のほうを見ていた。


「どっちも、その人の歌だと思う」


-----


 その夜、美夏は二つの音声をルーカスに送った。


 返事は、翌朝に来た。


「どっちが正しいか、決めるのはやめる」


「両方、編む」


 少し間があって、続きが来た。


「二つとも弾いてほしい」


「送ってくれた人も、自分の家の歌しか知らないかもしれない」


「すぐ近くに、もう一つの形で残ってる。それを知ったら、どう思うかな」


 美夏は、その文字をしばらく見ていた。


-----


◇


 夜、実家の部屋で、もう一度あの音声を聴いた。


 イヤホンをつけて、灯りを消した。


 女の人の声。水の音。途中で入ってくる、小さな声。


 あの子は、夜、これを聴いて眠るのだと思う。


 わたしには、「ゆりかごのうた」がある。ママの声で覚えた。


 にぃにに、前に聞いた。


「その歌を送ってくれた人のところに、弾きに行くことも、できるの?」


 あのとき、その人はまだ誰でもなかった。


 今は、声がある。


 水の音がある。


 その後ろに、小さな声がある。


 先生に聞かれた言葉を、まだ覚えている。


 あなたは、どこで弾きたいの。


 あのときは、答えが遅れた。


 今は、行きたい場所がある。


 イヤホンを外すと、窓の外で川の音がしていた。


-----


 次の日、美夏はヴァイオリンを持ってルイの家へ行った。来週、モートン・イン・マーシュで小さな演奏会がある。その曲を、午前のうちに合わせた。窓から入る光が、床の上に長く伸びていた。前の週より、伸びる先が少し遠くなっていた。


 弓を下ろしてから、美夏が言った。


「あの歌のことなんだけど」


 ルイが、譜面台から顔を上げた。


「弾きに行ったら」


 美夏は、少し言葉を探した。


「その歌だけでいいのかな」


 ルイは、ヴィオラを膝に置いたまま、しばらく黙っていた。


 それから、口を開いた。


「みーちゃんも、小さかったよね」


「え?」


「ヴァイオリンを始めたとき」


 美夏は、ルイを見た。


「僕のところまで来て、『ばいおりんやりたい』って言った」


「……ママから聞いた。庭だったって」


「庭。石のベンチのところ」


 美夏は、少し笑った。


「はっきりは覚えてないけど」


「三歳だから」


 ルイは、弓を膝の横に置いた。


「その前の晩に、僕がリビングで弾いてたんだ。指慣らしみたいなものだった」


「うん」


「みーちゃんは、ソファの端で、ずっと聴いてた。夏生に寝なくていいのかって聞かれても、もうちょっとって」


 美夏は、黙っていた。


「曲も分からなかったと思う。高いほうがいい、って」


 ルイが、美夏を見た。


「でも、次の朝には、やりたいって言いに来た」


 美夏は、テーブルのカップを見ていた。


 自分で覚えているのは、あのメモのことだった。ゆみ まっすぐに、と書かれた紙。


 それより前に、音があった。


 きれいだと思って、その音の近くに行きたくなったのだろう。


-----


 美夏が、顔を上げた。


「あの子たち、知らない曲でも聴いてたよね」


 ルイが、美夏を見た。


「クリスマスのとき」


「うん」


「知ってる曲じゃなかったのに、明るいやつでは二人で笑ってた。静かなやつのときは、弓を見てた」


 美夏が、ルイのヴィオラのほうを見た。


「るいとの低いところを、目で追ってた子もいた」


 ルイが、小さく頷いた。


 美夏は、ヴァイオリンを構え直した。構えただけで、弾かなかった。


「ブルターニュの子たちが知ってる歌を、最初に弾いて」


「うん」


「そのあとに、知らない曲を弾いたら」


 美夏は、ルイを見た。


「聴いてくれるかな」


 ルイは、少し考えていた。


「聴くと思う」


-----


 美夏は、椅子に座った。ヴァイオリンを、膝の上に横にした。


「場所は、小さいところがいい」


 ルイは、聞いていた。


「教会でも、集会所でも。その土地の人が、いつも使ってるところ」


「うん」


「小さい子も、来られるところ」


 美夏は、窓のほうを見た。


「途中で動いてもいいの。声が出ても」


「外に出て、また戻ってきてもいい」


「お母さんが、静かにさせなきゃって構えなくていいところ」


 ルイは、ヴィオラをケースに戻しかけた手を止めていた。


「でも」


 美夏の声が、低くなった。


「曲は、簡単にしない」


 ルイが、美夏を見た。


「子ども向けにしたら、たぶん、違うと思う」


「うん」


「ちゃんと弾く」


「うん」


 ルイは、しばらく黙っていた。


 それから、ヴィオラの弦に指を置いた。


「僕が、ヴィオラに変えたときのことを」


 指を、そのままにしていた。


「今でも、覚えてる」


 美夏は、待った。


「弾けなかったり、嫌いになったから変えたんじゃなくて」


 指が、弦の上で少し動いた。


「自分に合うものが見つかったから」


 ルイは、美夏を見た。


「そのほうが、嬉しかった」


 窓の外で、鳥が鳴いた。


-----


 美夏は、ヴァイオリンをケースに戻した。ファスナーを引くと、薄藤色の房が揺れた。


 それから、ルイのほうへ向き直った。


「大きいホールも好きだよ。オーケストラも」


「うん」


「でも、こういうことのほうが、もっとやりたい」


 美夏は、いちど息を吸った。


「いろんな土地に行って、その土地の歌を受け取って、その人たちの前で弾く。そのあとに、その先の音も、届ける」


 美夏は、ケースの房に指を触れた。


 それから、顔を上げた。


「それを、るいととやりたい」


-----


 ルイは、すぐには答えなかった。


 美夏を見ていた。


 美夏の指が、房のところで止まった。


「一緒に、来てくれる……よね?」


 ルイは、ヴィオラをケースに戻した。蓋を、ゆっくり閉じた。


 それから、美夏を見た。


「うん。一緒に行こう」


 窓のそばに、二つのケースが並んでいた。


 外の光が、床の上を少しずつ動いていた。


-----


*(第47章へ続く)*


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。