第46章 芽吹き
四月のロウアー・スローターは、朝の光がまだ薄かった。
石の道の脇に、水仙が咲き残っていた。垣根の下に、白い小さな花が散っていた。牧草地のほうから、子羊の声がときどき届いた。アイ川は冬より水が多く、橋の下で低く鳴っていた。
美夏は、春の休みで村へ帰っていた。卒業までは、あと三か月だった。
ルイの家の窓は、開けてあった。
テーブルに、カップが二つ並んでいた。
玄関のノッカーが鳴ったのは、コーヒーを注ぎ終えたところだった。
夏生だった。ノートパソコンを小脇に抱えていた。
「一件目、入った」
そう言って、そのままリビングへ来た。
ページが公開されたのは、三月の終わりだった。夏生は、告知らしい告知をしなかった。ネスティアのサイトに、小さな入口をひとつ作っただけだった。入力欄は、二週間、空のままだった。
夏生は、テーブルの端にパソコンを置いて、開いた。画面を、美夏のほうへ向けた。
「フランス」
フランス語だった。読めない単語が、いくつもあった。
ルイが、隣の椅子に座った。
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ルイは、画面を上から順に読んでいった。
「祖母が歌っていた歌です」
そのまま、日本語にしていった。
「祖母は、台所で歌っていました。手を動かしながら、毎日のように」
「母も歌っていました。今は、私が娘に歌っています。夜、寝かしつけるときに」
ルイが、画面を少し下へ送った。
「上手には歌えません。でも、この土地では、昔からこの歌です」
最後に、土地の名前があった。
ルイが、そこで止まった。
「どうしたの」
「……ここ」
ルイは、画面を少し近くで見た。
「母が住んでるところと、同じ地方だ」
美夏が、ルイを見た。
「ブルターニュ?」
「うん」
夏生は、カップを出してきて自分でコーヒーを注いだ。
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投稿には、音声がついていた。
美夏が、再生した。
女の人の声だった。低いところから始まって、ゆっくり上がって、また下りてきた。途中で、声が少し揺れた。
後ろで、水を使う音がしていた。
歌の終わりのほうで、小さな声が混じった。子どもの声だった。歌っている人が笑って、そこからもう一度、歌い直した。
一分もなかった。
音が終わってからも、誰も動かなかった。
「……今も、歌ってるんだね」
「うん」
夏生が、パソコンの画面を自分のほうへ戻した。
「送ってくれた人に、こっちから返事を出せるようにしてある」
美夏が、夏生を見た。
「集めて終わりだと、意味ないだろ」
ルイは、窓のほうを見た。
「母に、聞いてみようか」
美夏が、顔を上げた。
「この歌に、心当たりがあるかもしれない」
「いいの?」
「聞くだけだから」
ルイは、スマホを取った。
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返事が来たのは、三日後だった。
ルイの母は、昔からの知り合いを何人かたどったらしかった。列車で、いくつか先の町まで出向いたという。同じ歌を知っている人がいた。八十を過ぎた女の人だった。歌ってもらって、それを録って送ってきた。
美夏は、ルイの家でそれを聴いた。
同じ歌だった。
始まりの三つの音は、変わらなかった。
終わりが、違った。投稿の歌は、最後に下りてきた。こちらは、上がったまま終わった。
言葉も、一つ二つ違う音がした。
美夏は、もう一度二つを続けて聴いた。
それから、ルイを見た。
「どっちが、ほんとうの形なんだろう」
ルイは、カップを持ったまま窓のほうを見ていた。
「どっちも、その人の歌だと思う」
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その夜、美夏は二つの音声をルーカスに送った。
返事は、翌朝に来た。
「どっちが正しいか、決めるのはやめる」
「両方、編む」
少し間があって、続きが来た。
「二つとも弾いてほしい」
「送ってくれた人も、自分の家の歌しか知らないかもしれない」
「すぐ近くに、もう一つの形で残ってる。それを知ったら、どう思うかな」
美夏は、その文字をしばらく見ていた。
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◇
夜、実家の部屋で、もう一度あの音声を聴いた。
イヤホンをつけて、灯りを消した。
女の人の声。水の音。途中で入ってくる、小さな声。
あの子は、夜、これを聴いて眠るのだと思う。
わたしには、「ゆりかごのうた」がある。ママの声で覚えた。
にぃにに、前に聞いた。
「その歌を送ってくれた人のところに、弾きに行くことも、できるの?」
あのとき、その人はまだ誰でもなかった。
今は、声がある。
水の音がある。
その後ろに、小さな声がある。
先生に聞かれた言葉を、まだ覚えている。
あなたは、どこで弾きたいの。
あのときは、答えが遅れた。
今は、行きたい場所がある。
イヤホンを外すと、窓の外で川の音がしていた。
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次の日、美夏はヴァイオリンを持ってルイの家へ行った。来週、モートン・イン・マーシュで小さな演奏会がある。その曲を、午前のうちに合わせた。窓から入る光が、床の上に長く伸びていた。前の週より、伸びる先が少し遠くなっていた。
弓を下ろしてから、美夏が言った。
「あの歌のことなんだけど」
ルイが、譜面台から顔を上げた。
「弾きに行ったら」
美夏は、少し言葉を探した。
「その歌だけでいいのかな」
ルイは、ヴィオラを膝に置いたまま、しばらく黙っていた。
それから、口を開いた。
「みーちゃんも、小さかったよね」
「え?」
「ヴァイオリンを始めたとき」
美夏は、ルイを見た。
「僕のところまで来て、『ばいおりんやりたい』って言った」
「……ママから聞いた。庭だったって」
「庭。石のベンチのところ」
美夏は、少し笑った。
「はっきりは覚えてないけど」
「三歳だから」
ルイは、弓を膝の横に置いた。
「その前の晩に、僕がリビングで弾いてたんだ。指慣らしみたいなものだった」
「うん」
「みーちゃんは、ソファの端で、ずっと聴いてた。夏生に寝なくていいのかって聞かれても、もうちょっとって」
美夏は、黙っていた。
「曲も分からなかったと思う。高いほうがいい、って」
ルイが、美夏を見た。
「でも、次の朝には、やりたいって言いに来た」
美夏は、テーブルのカップを見ていた。
自分で覚えているのは、あのメモのことだった。ゆみ まっすぐに、と書かれた紙。
それより前に、音があった。
きれいだと思って、その音の近くに行きたくなったのだろう。
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美夏が、顔を上げた。
「あの子たち、知らない曲でも聴いてたよね」
ルイが、美夏を見た。
「クリスマスのとき」
「うん」
「知ってる曲じゃなかったのに、明るいやつでは二人で笑ってた。静かなやつのときは、弓を見てた」
美夏が、ルイのヴィオラのほうを見た。
「るいとの低いところを、目で追ってた子もいた」
ルイが、小さく頷いた。
美夏は、ヴァイオリンを構え直した。構えただけで、弾かなかった。
「ブルターニュの子たちが知ってる歌を、最初に弾いて」
「うん」
「そのあとに、知らない曲を弾いたら」
美夏は、ルイを見た。
「聴いてくれるかな」
ルイは、少し考えていた。
「聴くと思う」
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美夏は、椅子に座った。ヴァイオリンを、膝の上に横にした。
「場所は、小さいところがいい」
ルイは、聞いていた。
「教会でも、集会所でも。その土地の人が、いつも使ってるところ」
「うん」
「小さい子も、来られるところ」
美夏は、窓のほうを見た。
「途中で動いてもいいの。声が出ても」
「外に出て、また戻ってきてもいい」
「お母さんが、静かにさせなきゃって構えなくていいところ」
ルイは、ヴィオラをケースに戻しかけた手を止めていた。
「でも」
美夏の声が、低くなった。
「曲は、簡単にしない」
ルイが、美夏を見た。
「子ども向けにしたら、たぶん、違うと思う」
「うん」
「ちゃんと弾く」
「うん」
ルイは、しばらく黙っていた。
それから、ヴィオラの弦に指を置いた。
「僕が、ヴィオラに変えたときのことを」
指を、そのままにしていた。
「今でも、覚えてる」
美夏は、待った。
「弾けなかったり、嫌いになったから変えたんじゃなくて」
指が、弦の上で少し動いた。
「自分に合うものが見つかったから」
ルイは、美夏を見た。
「そのほうが、嬉しかった」
窓の外で、鳥が鳴いた。
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美夏は、ヴァイオリンをケースに戻した。ファスナーを引くと、薄藤色の房が揺れた。
それから、ルイのほうへ向き直った。
「大きいホールも好きだよ。オーケストラも」
「うん」
「でも、こういうことのほうが、もっとやりたい」
美夏は、いちど息を吸った。
「いろんな土地に行って、その土地の歌を受け取って、その人たちの前で弾く。そのあとに、その先の音も、届ける」
美夏は、ケースの房に指を触れた。
それから、顔を上げた。
「それを、るいととやりたい」
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ルイは、すぐには答えなかった。
美夏を見ていた。
美夏の指が、房のところで止まった。
「一緒に、来てくれる……よね?」
ルイは、ヴィオラをケースに戻した。蓋を、ゆっくり閉じた。
それから、美夏を見た。
「うん。一緒に行こう」
窓のそばに、二つのケースが並んでいた。
外の光が、床の上を少しずつ動いていた。
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*(第47章へ続く)*




