第45章 音の種
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一月の終わりだった。
ロンドンは、朝が遅かった。七時を過ぎても外は暗く、通りの信号だけが色を変えていた。
机の上に、書類が置いたままになっていた。
秋に先生から渡された、オーディションの日程。その下に、四人で組まないかという誘いの紙もあった。
卒業までは、あと五か月だった。
わたしは、いちばん上の一枚を手に取って、また戻した。
クリスマスの休みに、るいとの家で弾いた。
練習室で弾いていると、あの部屋の三人の顔が浮かんだ。
弓を下ろしたあとの小さな手の音が、耳の奥に残っていた。
大きなホールは好きだ。客席のうしろに立って聴いた日のことを、まだ覚えている。音がいろいろな場所から戻ってきて、体の芯まで届いた。
オーケストラのなかで弾くのも、四人で弾くのも好きだ。舞台には、これからも立ちたい。
「あなたは、どこで弾きたいの」
あの日、先生に聞かれた。
わたしは「どこ」を、国や街やホールの名前だと思っていた。
いま浮かんでくるのは、床に座った子の膝や、こちらを見上げる目だった。
音が届いた瞬間の顔が、目の前にある場所。
書類を、机の端へ寄せた。
その日も、朝のうちに練習室へ行った。
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二月に入った週だった。
夏生は、ネスティアの仕事で日本に来ていた。
二日目の打ち合わせが、夕方に終わった。夜は、空けてあった。
待ち合わせたのは、大学の最寄り駅から少し歩いたところにある店だった。
引き戸を開けると、湯気と出汁の匂いがした。カウンターの奥で、鍋が鳴っていた。
ルーカスは、先に来ていた。背が高いので、狭い席で、少し窮屈そうに座っていた。
「夏生さん」
立ち上がりかけたのを、夏生が手で制した。
「寒いな、こっちも」
「思ってたより、寒いです」
ルーカスは、コートを椅子の背にかけた。
注文したものが来るまでのあいだに、夏生は近況を聞いた。大学のこと。下宿のこと。冬のあいだに書いていたもののこと。
「言葉は」
「まだ、聞き取るほうが先です」
ルーカスが、少し笑った。
料理が来た。ルーカスは、箸を使った。
「うまくなったな」
「毎日ですから」
ルーカスが、瓶を取って、夏生のグラスに注いだ。
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夏生が、グラスを空けた。
「録音、聴いたか」
「聴きました」
ルーカスは、箸を置いた。
「何回も」
それから、少しのあいだ黙っていた。
「演奏だけじゃなくて」
言葉を探す間があった。
「あいだの音が、ずっと残ってて」
「あいだ?」
「椅子の動く音とか、途中の子どもの声とか」
ルーカスは、グラスの縁を指でなぞった。
「曲が変わると、部屋の空気も変わるんです。録音で、それが分かる」
「最後の拍手も」
夏生は、頷いた。
「あれ、切らずに残しといてよかった」
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ルーカスは、しばらくグラスを見ていた。
「あの譜面の歌、『ゆりかごのうた』のほかは、こっちで教えてもらったんです」
「日本の歌か」
「昔から、子どもが歌ってきた歌です。それを、美夏とルイさんのために編みました」
「うん」
「送ったときは、二人が弾いてくれたら、それでよかったんです」
いちど、言葉を置いた。
「でも、あの録音では、知らない子どもたちのところまで、行ってた」
夏生は、黙って聞いていた。
「日本の歌が、あの村まで行って、拍手になって、僕のところへ戻ってきた」
ルーカスが、顔を上げた。
「それなら、ほかの土地にも、あるはずなんです」
「歌が」
「長いあいだ、子どもに歌われてきた歌が」
ルーカスの言葉が、少しずつ速くなった。
「その土地の歌を受け取って、自分の音で編んで、またその土地の子どもたちのところへ返せないかと思って」
言い終えてから、ルーカスは、少し座り直した。
「……すみません。長くなりました」
「いや」
夏生は、グラスを置いた。
「続けて」
「……でも、どこから探せばいいのか」
いちど、言葉が止まった。
「本だけだと、どんなふうに歌われてきたのかまでは、分からなくて」
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店の奥で、鍋の湯気が上がっていた。
夏生は、しばらく黙っていた。
「探しに行くと、きりがないな」
「はい」
「なら、逆でいい」
ルーカスが、夏生を見た。
「向こうから、教えてもらえばいい」
夏生は、上着から名刺を一枚出した。ペンを取って、その裏に一行、書いた。
あなたの町で、子どもたちに歌われてきた歌を教えてください。
ルーカスは、その紙を見ていた。
「歌の名前だけじゃ、足りない」
夏生が、その下に短く書き足していった。
どこの土地の歌か。どんな言葉で歌うか。どんなときに歌うか。誰から教わったか。その歌と一緒に覚えていること。旋律が分かるものがあれば、それも。
字が、だんだん小さくなった。
ルーカスが、紙のほうへ身を乗り出した。
「これだと、歌だけじゃなくて」
「その人のことも、来ますね」
夏生は、頷いた。
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ルーカスは、その紙を手に取った。
「集まったら、調べます」
指が、紙の端で動いた。
「土地のことを知って、分からないところは、その土地の人に聞いて。それから、編む」
夏生が、ルーカスのグラスに注いだ。
「編んだあとは」
ルーカスが、顔を上げた。
「その土地に、返したほうがいい」
ルーカスは、すぐには答えなかった。
「……返す、というのは」
「音を届ければいい」
集める入口と、届くまでの道なら、作れる。
外で、自転車のベルが鳴った。
ルーカスは、その名刺を、上着の内ポケットに入れた。
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日本から戻って、最初の週末だった。
美夏が、ロンドンから村へ帰ってきた。
土曜の午後、離れの部屋を覗くと、夏生はテーブルにノートパソコンを開いていた。
「にぃに」
「おう」
美夏は、向かいの椅子に座った。
夏生が、画面から目を上げた。
「日本で、ルーカスに会った」
「元気だった?」
「ああ、元気だった。箸、うまくなってた」
美夏が、笑った。
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夏生は、店で聞いた話をした。録音を何度も聴いたこと。曲のあいだに入っていた音のこと。ほかの土地にも、子どもに歌われてきた歌があるはずだということ。
それから、自分が考えたことも話した。ネスティアのサイトに募集のページを作ること。歌と一緒に、その土地のことや、誰から教わったのかも送ってもらうこと。
話の途中で、美夏の身体が前に出ていた。
「にぃに」
「ん」
「その歌を送ってくれた人のところに」
「弾きに行くことも、できるの?」
夏生は、美夏を見ていた。
「できると思う」
いちど、言葉を置いた。
「そこまで含めて、考えてる」
美夏は、テーブルの上で手を組んだ。
しばらく、そのままだった。
外で、風が窓を鳴らした。
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「あのね」
美夏が、顔を上げた。
「ずっと、考えてたことがあって」
夏生は、パソコンを閉じた。
「クリスマスに、るいとの家で弾いたでしょ」
「うん」
「あのあとから」
美夏は、少し、言葉を探した。
「私、たぶん」
いちど、息を吸った。
「聴いてる人の顔が見えるところで、弾きたいんだと思う」
夏生は、黙って聞いていた。
「大きいホールも好き。オーケストラも好き。でも」
美夏は、テーブルの木目を見ていた。
「音が届いたのが、その場で分かるところがいい」
顔を上げた。
「私、そういうところで弾きたい」
夏生は、しばらく何も言わなかった。
「……そっか」
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その夜、夏生は離れの部屋で一人だった。
パソコンを開いた。
新しいファイルを作って、いちばん上に一行だけ書いた。
あなたの町で、子どもたちに歌われてきた歌を教えてください。
その下に、日本の店で名刺の裏に書いたことを、順に並べていった。
どこの土地の歌か。どんな言葉で歌うか。どんなときに歌うか。誰から教わったか。その歌と一緒に覚えていること。旋律が分かるもの。
入力する欄が、いくつも並んだ。どれも、空のままだった。
夏生は、画面を見ていた。
日本で聞いた話と、昼間に美夏から聞いた話は、同じところへ向かっていた。
あいだに、道が要る。
夏生は、ファイルに名前をつけて、保存した。
「音の種」
窓の外は、暗かった。母屋のほうに、まだ灯りがついていた。
日本は、もう朝だろうか。
川の音はいつものようにずっと続いていた。




