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第44章 ちいさな手

◇


 わたしは、その一枚をめくった。


 「ゆりかごのうた」の前にも、後ろにも、知らない題が並んでいた。どれも短い曲だった。


 弓を、構え直した。


 初めての旋律を、ゆっくり音にしてみる。指が、譜面を追いかけた。


 るいとが、ヴィオラで入ってきた。


 明るい曲だった。


 次の一枚は、跳ねるような曲だった。途中に短い休みがあって、そこで二人とも、間違えた。るいとが笑った。


 その次は、静かな曲だった。


 鳴らしてみると、どれも、ずっと前からそこにある歌のかたちをしていた。


 わたしは、弓を下ろした。


「これも、聴いてもらいたい」


 るいとが、譜面のほうを見た。


「全部?」


「全部じゃなくても」


 束を、揃えた。


「何曲か」


 るいとは、少し考えていた。


「じゃあ、選ぼうか」


 テーブルに、譜面を並べた。


 あの子たちは、どんな顔をするのだろう。


 早く聴かせたかった。


-----


 次の日だった。


 美夏(みなつ)は、離れの夏生(なつき)の部屋を覗いた。


 夏生は、クリスマス休暇のあいだも、テーブルにノートパソコンを開いていた。


「にぃに」


「ん?」


 夏生が、顔を上げた。


「今度、録ってほしい」


 美夏は、向かいの椅子に座った。


 ルーカスから楽譜が届いたこと。ヴァイオリンとヴィオラのために編まれていること。ルイのところへ来る子どもたちに、それを聴かせてみたいこと。


 夏生は、黙って聞いていた。


「ルーカスにも、聴いてほしいの」


 夏生は、少しのあいだ美夏を見ていた。


 冬の教会で「海と光」を録った日が浮かんだ。


 夏生は、パソコンを閉じた。


「いつ?」


 美夏が、日と時間を言った。


「分かった」


「機材、持ってく」


-----


 数日後だった。


 朝のうちに霜が降りて、石の道の日陰だけが白く残っていた。煙突から、薪の煙が上がっていた。


 ルイの家の玄関で、夏生は足を止めた。小さなヴァイオリンケースが三つ、壁ぎわに寄せてあった。


 夏生は、部屋の隅にレコーダーを置いた。外付けのマイクを立てて、高さを少し直した。


 女の子が、それを見上げた。


「今日は、録るの?」


「うん。邪魔しないから」


 夏生は、壁のほうへ下がった。


 レッスンは、いつもどおりに進んだ。


 ルイが、子どもの音を聞いた。途中で止めて、短く言った。弾き直したところで、頷いた。


 美夏は、壁のそばで見ていた。


 最後の子が、楽器を下ろした。


 美夏が、鞄から譜面の束を出した。


「今日は、ちょっと違う曲、聴いてくれる?」


 三人が、楽器を置いて、その場に残った。


 今日のは、まだ誰も知らない曲だった。


-----


 美夏が、ヴァイオリンを出した。ケースのファスナーで、薄藤色の房が揺れた。


 ルイが、ヴィオラを構えた。


 一曲目は、明るい曲だった。


 ヴィオラが、先に入った。


 美夏が、その隣に入った。


 途中で、男の子が隣の子を見て笑った。二人で、同じところを笑っていた。


 曲が終わる前に、もう声が出ていた。


「これ好き」


「さっきのとこ、もう一回」


 美夏は、そこだけ、もう一度弾いた。


 次の曲は、静かだった。


 さっきの二人が、黙った。一人は、美夏の弓を、じっと見ていた。


 別の曲では、椅子の子が、ルイのほうを見ていた。低い音が動くたびに、目がそれを追っていた。


 美夏は、弾きながら、感じていた。


 ホールでは、拍手が来て、届いたことがわかる。


 ここでは、届いた瞬間の顔が、目の前にあると。


 美夏の弓の運びが、少し変わった。


 フレーズの終わりで顔を上げて、それから次へ入った。


 ヴィオラが、美夏の音の後ろへ静かに下がった。


 二人の音が、部屋の三人のほうへ寄っていった。


-----


 何曲か弾いたあとで、美夏が最後の一枚を出した。


「これ、もう一曲」


 譜面台に、それを立てた。


 ルイのヴィオラが、低いところで最初の音を置いた。


 その響きが部屋に残るのを待って、美夏が旋律へ入った。


 理沙の声で覚え、ウィーンでルーカスへ渡した旋律だった。


 日本を通って、この村に帰ってきていた。


 美夏は、ただ弾いた。


 三人とも、手を膝の上に置いていた。


 最後の音が、高い天井のほうへ消えていった。


 少しのあいだ、誰も動かなかった。


 ぱち。


 小さな手が、ひとつ鳴った。


 ぱち、ぱち。


 三人の手が、小さな拍手になった。


 大きくはなかった。それでも、部屋のなかに、ちゃんと響いた。


 美夏は、弓を下ろしたまま、それを聞いていた。


 ルイは、子どもたちのほうを見ていた。


 壁ぎわのレコーダーの光は、ついたままだった。


-----


 子どもたちが帰っていった。玄関で、ケースの留め具の音がした。三つの声が、道の先へ遠ざかっていった。


 部屋が、静かになった。


 美夏が、夏生のところへ来た。


「にぃに、録れた?」


「うん」


 夏生が、再生した。


 演奏が、部屋に流れた。さっきまで自分たちが出していた音が、少し遠くから聞こえた。


 「ゆりかごのうた」の、最後まで来た。


 音が消えて、少しの空白があった。


 そのあとに、拍手が入っていた。


 美夏が、少し笑った。


「これも、入ってる」


「入ってるよ」


 夏生は、そのまま最後まで再生した。拍手が終わって、椅子の鳴る音がして、それから止まった。


 ルイが、譜面を揃えていた。


 窓の外は、もう暗くなりかけていた。遠くで、川の音がしていた。


-----


 その夜、美夏は録音をルーカスへ送った。


 文章は、短くした。


「子どもたちに聴いてもらったよ」


「にぃにに録ってもらったから、送るね」


 少し考えて、もう一行足した。


「みんな、曲によって全然違う顔してた」


 送信した。


 あの時間を、ルーカスにも伝えたかった。


-----


 日本は、朝だった。


 ルーカスは、机の前に座っていた。窓の外の空は、下のほうだけが明るくなりかけていた。


 美夏からのメッセージが来ていた。音声のファイルが、ついていた。


 イヤホンをつけて、再生した。


 自分が書いた音が、ヴィオラとヴァイオリンになって出てきた。


 譜面の上にしかなかったものが、部屋の空気を持っていた。


 音が消えたあとに、少し残った。石の壁の部屋だと分かった。


 明るい曲のところで、椅子の動く音がした。


 曲が終わると、小さな声がした。何を言っているかまでは、聞き取れなかった。


 次の曲では、その気配が静かになった。


 最後に、「ゆりかごのうた」が来た。


 自分が置いたヴィオラの音が、下にあった。美夏の旋律が、その上に乗っていた。


 最後の音が、消えた。


 少しの空白があった。


 ぱち、ぱち。


 知らない子どもたちの、小さな手の音だった。


-----


 ルーカスは、少し戻して、もう一度再生した。


 今度は、曲のあいだの音を聞いていた。椅子。息。小さな声。


 日本で覚えた歌を、美夏とルイのために編んだ。


 それが、知らない子どもたちのところまで行っていた。


 そして、小さな拍手になって、戻ってきた。


 楽譜を送ったときには、ここまで想像していなかった。


 机の上には、ほかの譜面も出したままだった。書きかけの音符が、途中で止まっていた。


 ルーカスは、鉛筆を持った。


 鉛筆の先が、紙の上で止まった。


 ほかの国の歌なら、どうなるだろう。


 その土地に昔からある歌を、その土地の子どもたちのところへ返していったら。


 ルーカスは、鉛筆を置いて、スマートフォンを取った。


「聴いたよ。ありがとう」


「拍手まで入ってたね」


 送信した。


 その先に何を書けばいいのか、しばらく探した。


 ルーカスは、画面を消した。


 もう一度、録音の最後だけを再生した。


 ぱち、ぱち。


 窓の外が、明るくなりはじめていた。

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