第44章 ちいさな手
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わたしは、その一枚をめくった。
「ゆりかごのうた」の前にも、後ろにも、知らない題が並んでいた。どれも短い曲だった。
弓を、構え直した。
初めての旋律を、ゆっくり音にしてみる。指が、譜面を追いかけた。
るいとが、ヴィオラで入ってきた。
明るい曲だった。
次の一枚は、跳ねるような曲だった。途中に短い休みがあって、そこで二人とも、間違えた。るいとが笑った。
その次は、静かな曲だった。
鳴らしてみると、どれも、ずっと前からそこにある歌のかたちをしていた。
わたしは、弓を下ろした。
「これも、聴いてもらいたい」
るいとが、譜面のほうを見た。
「全部?」
「全部じゃなくても」
束を、揃えた。
「何曲か」
るいとは、少し考えていた。
「じゃあ、選ぼうか」
テーブルに、譜面を並べた。
あの子たちは、どんな顔をするのだろう。
早く聴かせたかった。
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次の日だった。
美夏は、離れの夏生の部屋を覗いた。
夏生は、クリスマス休暇のあいだも、テーブルにノートパソコンを開いていた。
「にぃに」
「ん?」
夏生が、顔を上げた。
「今度、録ってほしい」
美夏は、向かいの椅子に座った。
ルーカスから楽譜が届いたこと。ヴァイオリンとヴィオラのために編まれていること。ルイのところへ来る子どもたちに、それを聴かせてみたいこと。
夏生は、黙って聞いていた。
「ルーカスにも、聴いてほしいの」
夏生は、少しのあいだ美夏を見ていた。
冬の教会で「海と光」を録った日が浮かんだ。
夏生は、パソコンを閉じた。
「いつ?」
美夏が、日と時間を言った。
「分かった」
「機材、持ってく」
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数日後だった。
朝のうちに霜が降りて、石の道の日陰だけが白く残っていた。煙突から、薪の煙が上がっていた。
ルイの家の玄関で、夏生は足を止めた。小さなヴァイオリンケースが三つ、壁ぎわに寄せてあった。
夏生は、部屋の隅にレコーダーを置いた。外付けのマイクを立てて、高さを少し直した。
女の子が、それを見上げた。
「今日は、録るの?」
「うん。邪魔しないから」
夏生は、壁のほうへ下がった。
レッスンは、いつもどおりに進んだ。
ルイが、子どもの音を聞いた。途中で止めて、短く言った。弾き直したところで、頷いた。
美夏は、壁のそばで見ていた。
最後の子が、楽器を下ろした。
美夏が、鞄から譜面の束を出した。
「今日は、ちょっと違う曲、聴いてくれる?」
三人が、楽器を置いて、その場に残った。
今日のは、まだ誰も知らない曲だった。
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美夏が、ヴァイオリンを出した。ケースのファスナーで、薄藤色の房が揺れた。
ルイが、ヴィオラを構えた。
一曲目は、明るい曲だった。
ヴィオラが、先に入った。
美夏が、その隣に入った。
途中で、男の子が隣の子を見て笑った。二人で、同じところを笑っていた。
曲が終わる前に、もう声が出ていた。
「これ好き」
「さっきのとこ、もう一回」
美夏は、そこだけ、もう一度弾いた。
次の曲は、静かだった。
さっきの二人が、黙った。一人は、美夏の弓を、じっと見ていた。
別の曲では、椅子の子が、ルイのほうを見ていた。低い音が動くたびに、目がそれを追っていた。
美夏は、弾きながら、感じていた。
ホールでは、拍手が来て、届いたことがわかる。
ここでは、届いた瞬間の顔が、目の前にあると。
美夏の弓の運びが、少し変わった。
フレーズの終わりで顔を上げて、それから次へ入った。
ヴィオラが、美夏の音の後ろへ静かに下がった。
二人の音が、部屋の三人のほうへ寄っていった。
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何曲か弾いたあとで、美夏が最後の一枚を出した。
「これ、もう一曲」
譜面台に、それを立てた。
ルイのヴィオラが、低いところで最初の音を置いた。
その響きが部屋に残るのを待って、美夏が旋律へ入った。
理沙の声で覚え、ウィーンでルーカスへ渡した旋律だった。
日本を通って、この村に帰ってきていた。
美夏は、ただ弾いた。
三人とも、手を膝の上に置いていた。
最後の音が、高い天井のほうへ消えていった。
少しのあいだ、誰も動かなかった。
ぱち。
小さな手が、ひとつ鳴った。
ぱち、ぱち。
三人の手が、小さな拍手になった。
大きくはなかった。それでも、部屋のなかに、ちゃんと響いた。
美夏は、弓を下ろしたまま、それを聞いていた。
ルイは、子どもたちのほうを見ていた。
壁ぎわのレコーダーの光は、ついたままだった。
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子どもたちが帰っていった。玄関で、ケースの留め具の音がした。三つの声が、道の先へ遠ざかっていった。
部屋が、静かになった。
美夏が、夏生のところへ来た。
「にぃに、録れた?」
「うん」
夏生が、再生した。
演奏が、部屋に流れた。さっきまで自分たちが出していた音が、少し遠くから聞こえた。
「ゆりかごのうた」の、最後まで来た。
音が消えて、少しの空白があった。
そのあとに、拍手が入っていた。
美夏が、少し笑った。
「これも、入ってる」
「入ってるよ」
夏生は、そのまま最後まで再生した。拍手が終わって、椅子の鳴る音がして、それから止まった。
ルイが、譜面を揃えていた。
窓の外は、もう暗くなりかけていた。遠くで、川の音がしていた。
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その夜、美夏は録音をルーカスへ送った。
文章は、短くした。
「子どもたちに聴いてもらったよ」
「にぃにに録ってもらったから、送るね」
少し考えて、もう一行足した。
「みんな、曲によって全然違う顔してた」
送信した。
あの時間を、ルーカスにも伝えたかった。
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日本は、朝だった。
ルーカスは、机の前に座っていた。窓の外の空は、下のほうだけが明るくなりかけていた。
美夏からのメッセージが来ていた。音声のファイルが、ついていた。
イヤホンをつけて、再生した。
自分が書いた音が、ヴィオラとヴァイオリンになって出てきた。
譜面の上にしかなかったものが、部屋の空気を持っていた。
音が消えたあとに、少し残った。石の壁の部屋だと分かった。
明るい曲のところで、椅子の動く音がした。
曲が終わると、小さな声がした。何を言っているかまでは、聞き取れなかった。
次の曲では、その気配が静かになった。
最後に、「ゆりかごのうた」が来た。
自分が置いたヴィオラの音が、下にあった。美夏の旋律が、その上に乗っていた。
最後の音が、消えた。
少しの空白があった。
ぱち、ぱち。
知らない子どもたちの、小さな手の音だった。
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ルーカスは、少し戻して、もう一度再生した。
今度は、曲のあいだの音を聞いていた。椅子。息。小さな声。
日本で覚えた歌を、美夏とルイのために編んだ。
それが、知らない子どもたちのところまで行っていた。
そして、小さな拍手になって、戻ってきた。
楽譜を送ったときには、ここまで想像していなかった。
机の上には、ほかの譜面も出したままだった。書きかけの音符が、途中で止まっていた。
ルーカスは、鉛筆を持った。
鉛筆の先が、紙の上で止まった。
ほかの国の歌なら、どうなるだろう。
その土地に昔からある歌を、その土地の子どもたちのところへ返していったら。
ルーカスは、鉛筆を置いて、スマートフォンを取った。
「聴いたよ。ありがとう」
「拍手まで入ってたね」
送信した。
その先に何を書けばいいのか、しばらく探した。
ルーカスは、画面を消した。
もう一度、録音の最後だけを再生した。
ぱち、ぱち。
窓の外が、明るくなりはじめていた。




